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第110話 誰のものでもない

 

 月蝕が近い。

 そのことを思い出すだけで、胸の奥がざわつく。

 ジョカの王女。

 業火の宿命。

 月蝕。

 予言。

 縫天婆が言っていた。

 だが今は。

 それだけではない。

 月蝕が近づくたび、何かが身体の奥で揺れる。

 まるで。

 忘れていたものが、底から浮かび上がってくるようだった。

「ラゴウ!」

 後ろから、しわがれた怒鳴り声が聞こえた。

 ラゴウが振り向く。

 小さな馬車。

 そして、杖を振り回しながら近づいてくる老婆。

「働きすぎじゃ、馬鹿者!」

 ラゴウは思わず笑った。

「婆さま」

 縫天婆だった。

 相変わらず皺だらけで、風が吹けば飛びそうな細い身体をしている。

 だが目だけは鋭い。

 ラゴウは馬を降りようとした。

 その瞬間、縫天婆の杖が飛んできた。

「降りるな」

「なぜ」

「ふらついておる」

「ふらついてない」

「嘘をつくな」

 ラゴウは黙る。

 縫天婆は御者に命じて、近くの天幕を借りた。

 ラゴウはしぶしぶ中へ入る。

 温かい乳茶が用意される。

 縫天婆は向かいに座り、ラゴウをじっと見た。

「顔色が悪い」

「雨季明けだからな」

「それだけではない」

 ぎくりとした。

 縫天婆は目を細める。

「月白花を飲まされていた身体じゃ」

「毒は抜けた」

「抜けたから終わりではない」

 縫天婆は乾いた薬草を小さな袋から取り出した。

「身体は覚えておる」

「何を飲まされたか」

「何を奪われたか」

「何を壊されかけたか」

 ラゴウは黙った。

 縫天婆は薬草を乳茶へ落とす。

「これは?」

「飲め」

「薬じゃ」

 縫天婆は鼻を鳴らした。

「シキのやつめ。悠々自適の旅巡りからわしを呼び戻しおって」

 ラゴウの目がわずかに揺れた。

「シキが?」

「わざわざ他国の王を救出するために、おぬしから目を離すとは、とち狂っておるとしか思えぬ」

「自分のかわりに、わたしを見張れと?」

 くすりとラゴウは笑う。

 縫天婆は懐から包みを出す。

 中には乾燥させた薬草が数種類入っていた。

「二度と月白花など服用させるな」

「カヨウにおまえを壊させない」

「ラゴウを頼む」

「そう言っておった」

 静かな沈黙。

 ラゴウは俯いた。

 シキらしい。

 ラゴウは小さく笑う。

 それから、目を伏せた。

 縫天婆は何も言わなかった。

 ただ薬茶を差し出す。

「飲め」

 ラゴウは受け取る。

 苦い。

 ひどく苦い。

 だが身体の奥が少しだけ温まった。

「婆さま」

「なんじゃ」

「月蝕が近いな」

 縫天婆の手が止まった。

「そうじゃな」

「何か知ってるだろ」

 縫天婆は笑った。

 いつもの。

 人を食ったような笑みだった。

「ラゴウ」

「なんだ」

「おぬしは、何者だ」

 ラゴウは眉をひそめる。

「ジョカの王女」

「違う」

「レザリア王妃」

「違う」

「ラゴウ」

「それも半分じゃ」

 縫天婆は窓の外を見る。

 雨に洗われた草原。

 高い空。

 薄い月。

 老婆は静かに言った。

「おぬしは、再び選ばねばならぬ」

 ラゴウは黙る。

 縫天婆はラゴウを見る。

「かつて月蝕の夜、おぬしは自ら死を選んだ」

「そして次に再び月蝕がくるとき、おぬしはなにを選ぶのか」

 意味が分からなかった。

 だが。

 なぜだろう。

 胸の奥だけがざわついた。

「始まりが月蝕なら」

 縫天婆は続ける。

「終わりもまた月蝕じゃ」

「終わり?」

「終わりであり、始まりでもある」

「婆さま」

「なんじゃ」

「もっと分かるように説明してくれ」

 縫天婆はからからと笑った。

「覚えておけ」

 その声だけが、妙に真面目だった。

「飛ぶ時は」

 ラゴウは目を瞬く。

「飛ぶ?」

「迷うな」

 老婆は言った。

「自らが選んだものを信じよ」

 沈黙。

 天幕の外で風が鳴った。

 ラゴウはその言葉の意味を理解できなかった。


 飛ぶ時は。

 迷うな。

 自らが選んだものを信じよ。


 縫天婆は立ち上がる。

「少し休め」

「まだ見回りがある」

「休め」

「井戸と橋と羊が」

「休めと言っておる」

 杖が再び額を狙ったので、ラゴウは黙った。

 縫天婆は天幕を出る前に、一度だけ振り返る。

「ラゴウ」

「何だ」

「おぬしは誰かのものではない」

 ラゴウは息を止めた。

「王のものでも」

「草原のものでも」

「運命のものでもない」

 縫天婆は笑う。

「忘れるな」

 そう言って。

 老婆は外へ出ていった。

 ラゴウはしばらく動けなかった。

 気づけば日が傾いていた。

 西の空がゆっくりと色を変えていく。

 昼間はどこまでも青かった空が、地平線の近くから金色に染まり、橙へ変わり、さらに深い紅へ沈んでいく。

 草原には遮るものがない。

 だから夕暮れは大きい。

 空そのものが燃えているようだった。

 遠くの羊の群れが黒い影になる。

 馬たちが群れへ戻っていく。

 遊び回っていた子どもたちも家族のもとへ駆けていく。

 一日が終わる。

 空はなお燃えていた。

 黄金。

 朱。

 紫。

 藍。

 幾重にも重なった色彩が地平線へ溶けていく。

 その境界は曖昧で。

 どこまでが空で、どこからが大地なのか分からなくなる。

 ラゴウはこの時間が好きだった。

 昼でもない。

 夜でもない。

 世界が一度だけ息を止めるような時間。

 やがて。

 最後の光が地平線へ沈む。

 燃えていた空が静かに色を失う。

 朱が消え。

 紫が深まり。

 藍が広がる。

 世界がゆっくり夜へ沈んでいく。

 誰かが天幕の外で火を起こした。

 小さな灯が一つ。

 また一つ。

 草原に灯りが生まれていく。

 夜の匂いがした。

 冷えた土の匂い。

 焚火の煙。

 乳茶を煮る香り。

 遠くで馬が鳴く。

 羊が身を寄せ合う。

 空を見上げれば、いつの間にか最初の星が瞬いていた。

 そして月。

 白い月が静かに浮かんでいる。

 月蝕が近い。

 風が吹く。

 夜が来る。

 広大な草原を包み込むように。

 ゆっくりと。

 静かに。

 何かが終わり。

 何かが始まろうとしていた。


第110話「誰のものでもない」でした。

今回は縫天婆回です。

相変わらず肝心なことは説明せず、「選べ」「飛ぶ時は迷うな」と意味深なことばかり言っていますが、このひとなりにラゴウを信じているのだと思います。

今回書きたかったのは、

「ラゴウは誰のものでもない」

ということでした。

王妃でも、王女でも、運命の駒でもない。

ラゴウ自身が何を選ぶのか。

その答えが近づいています。

月蝕まで、あと少し。

次回もお付き合いいただけると嬉しいです。

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