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第109話 雨季のあと

 

雨季が終わった。

数日前まで荒れ狂っていた空は、嘘のように晴れ渡っている。

草原には高い青空が広がっていた。

風が吹く。

乾いた風だった。

湿った大地を撫で、草の匂いを運び、夏の名残を洗い流していく。

ラゴウは馬上から遠くを見た。

どこまでも続く草原。

雨に洗われた草は青く、羊の群れは白く、空は高い。

思わず息を吐く。

――雨季明けの草原が好きだった。

大雨は多くを奪う。

川は氾濫する。

天幕は倒れる。

橋は流される。

家畜も、人も、ときに命を落とす。

けれど。

雨が終わったあとの草原は美しい。

まるで世界そのものが一度洗われたようだった。

遠くで子どもたちが泥だらけになって走っている。

羊を追う声。馬の嘶き。煮炊きの煙。乳茶の匂い。

干し草を運ぶ女たちの笑い声。

全部が懐かしかった。

全部が愛おしかった。

「ラゴウ様」

後ろから声がかかった。

ラゴウは馬を止める。

遊牧民の老人だった。

雨で崩れた井戸の修繕について、しきりに訴えている。

ラゴウは最後まで聞いた。

「井戸は先に直せ」

「水がないと冬を越せない」

「若い者を五人出せ。資材は王庭から回す」

老人が深く頭を下げる。

次の集落では、流された橋の相談を受けた。

さらに次の放牧地では、羊が数頭倒れていると聞いた。

病か。

水か。

餌か。

ラゴウは馬を降り、羊の口元と目を確かめた。

「水を替えろ」

「このあたりの溜まり水は飲ませるな」

「雨季明けは腹を壊す」

指示を出す。

人が動く。

また馬に乗る。

気づけば昼を過ぎていた。

「王女様、一緒にごはんを食べよう!」

集落の子どもたちに誘われて、馬を降りた。

一瞬。

視界がわずかに揺れた。

鞍に手をつく。

「ラゴウ様?」

「なんでもない。平気だ」

笑ってみせる。

だが、平気ではなかった。

雨季明けは体調を崩しやすい。

十三の頃。

火事の天幕から異国の皇太子を助け出した時に負った傷が原因だと、縫天婆は言った。

まあ、その皇太子が、のちにレザリアの王位を継ぐアレクシスだったわけだが。

思い起こすと、今とはだいぶ印象が違っていた気がする。

なんというか。

横柄で、底意地が悪かった。

(・・・だいたい、わたしの名前すら覚えてなかったし)

二年後に再会したときは、あのときの少年だと、気づきもしなかった。

(薄情なやつ)

なのに。

恋をした。

形だけの政略結婚をして。

義務の夜に耐えて。

身投げまでした。

それでも。

まだ好きだった。

どれほどはまっているのか。のめりこんでいるのか。

こんなに、ぜんぶ、溺れるなんて。

距離を置けば冷めるのかもと思わなかったわけじゃない。

ジンナイのときはいつもそうだったから。

本気になりかけたら、意図的に距離を置く。

誰かに本気で惚れるなんて、ばからしいと思っていた。

そんな面倒なことに時間と感情をかけるなんて。

なのに。

冷めるどころか。


――アレクは、無事だろうか。

監獄で。傷は。食事は。


簡単に折れる男ではないと知っていても、四六時中考えてしまう。


少し、頭痛がした。

額に手を当てて、小さくため息をつく。

目ざとい子どもたちが、口々に草原の王女を心配する。

「ラゴウ様、具合わるいの?」

「うちで休んで!」

「・・・大丈夫だ」

笑いながら、子どもらの頭をなでる。


傷は消えても。

火毒だけが身体の芯に残ったのだと、縫天婆が言った。

だから季節の変わり目になると熱を出す。

身体が重くなる。

食欲も落ちる。

寝込むほどではない。

だが調子は良くない。

それがいつものことだった。

ただ。

今回の雨季明けは少し違った。

身体が重い。

疲れやすい。

それは同じだ。

だが何かが違う。

上手く言葉にできない。

久しぶりに草原へ戻ったからだろうか。

三年もの間、月白花の毒に侵されていたのだ。

ようやく解放された身体が、まだ環境に馴染んでいないのかもしれない。

ジンナイと同化して目覚めてから、もう半年以上が過ぎた。

徹底した食事管理。

毎日の鍛錬。

以前の身体を取り戻したつもりだった。

不順だった月の巡りも、戻っていた。

それなのに。

体内の熱が、妙に上がっているのを感じる。

朝になると、理由もなく身体が重い。

――疲れているだけだ。

ラゴウはそう結論づけた。

考えることが多すぎる。

眠れていないのだろう。

それだけだ。

そう思うことにした。

丘の上に出ると、風が強くなった。

ラゴウは肩に掛けた外套を引き寄せる。

雨季が終わると、草原は急に冷え込む。

昼はまだ暖かい。

だが朝晩は別だ。

夏の湿気が去り、秋の冷たさが一気に入り込んでくる。

遠くで渡り鳥の群れが空を横切った。

季節が変わっていく。

世界が動いている。

ラゴウは空を見上げる。

白く薄い月が、昼の空に浮かんでいた。


第109話「雨季のあと」でした。

今回は久しぶりにラゴウ視点のお話です。

監獄から脱獄したアレク陣営とは対照的に、草原では雨季が終わり、季節がゆっくりと移り変わっています。

雨季明けの草原は、個人的にこの物語の中でも特に好きな風景です。

大雨は多くを奪います。

けれど雨が去った後の世界は、まるで一度洗い流されたように美しい。

そんな景色の中で、ラゴウは王女として民の暮らしを見て回っています。

井戸や橋や羊の話ばかりで、派手な戦いや陰謀はありませんが、こういう時間こそラゴウらしい気もします。

そして少しずつ、月蝕の夜が近づいてきました。

ラゴウ自身も気づいていませんが、身体にも小さな変化が現れ始めています。

それが何を意味するのかは、もう少し先のお話で。

次回は縫天婆が登場します。

そしてラゴウは何を選ぶのか。

引き続きお付き合いいただけると嬉しいです。

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