第108話 兄を捕らえていた檻
レザリア王宮。
宰相執務室。
窓の外には王都が広がっていた。
数か月前まで。
ここは自分の執務室だった。
レザリア王国宰相。
王の弟。
王国の頭脳。
だが今は違う。
机上にはダッキ軍の兵站計画。
壁には草原の軍略図。
今やメフィストはダッキ族の王女シュイの婚約者であり、ダッキ軍統帥だった。
――自分で選んだ立場だ。
なのに。
(・・・この妙な違和感は、なんだ)
その時だった。
扉が叩かれる。
「報告です」
側近が入室した。
「北部領主が徴兵命令を拒否」
「東部騎士団が行軍を拒否」
「西部商人連合が納税を停止」
「港湾都市も兵糧搬入を停止しています」
メフィストは黙って聞いていた。
想定内だ。
だが面倒だった。
「さらに」
側近は続ける。
「アレクシス王が脱獄しました」
その瞬間だけ。
メフィストの指が止まった。
「そうか」
短い返答。
だが側近が去ったあとも、その一言だけが部屋に残った。
静寂。
メフィストは窓辺へ歩いた。
兄上。
思い出す。
幼い頃。
兄はいつも最前線にいた。
継母の虐待。
毒。
暗殺未遂。
陰謀。
兄は全部知っていた。
そして全部先回りして潰していた。
剣も。
政治も。
交渉も。
人心掌握も。
兄は常に完璧であり完全な人間だった。
少なくとも、幼かった自分にはそう見えた。
気づけば問題は解決している。
戦いは終わっている。
そして振り返って言うのだ。
『もう大丈夫だ』
あの笑顔が嫌いだった。
優しいからではない。
守られていると分かるからだ。
子ども扱いされているようで。
追いつけない現実を突きつけられるようで。
認めてほしかった。
兄を超えたかった。
だから奪った。
王位を。
初恋の女を。
王妃を。
兄からすべてを。
それでようやく、対等になれると思った。
兄の後ろではなく、隣に並び立つ人間になれると。
兄と対峙できる人間でありたいと。
だが。
まだ勝てない。
牢へ入れた。
権力を奪った。
孤立させた。
それなのに。
兄は牢の中から国を動かした。
地方領主を動かし、商人を動かし、騎士を動かし、民を動かした。
王冠を失ってなお、兄は誰よりも王だった。
メフィストは目を閉じた。
そしてようやく理解する。
――自分は一つだけ見誤っていた。
兄上を縛っているのは王位だと思っていた。
王冠だと思っていた。
責務だと思っていた。
だから奪った。
だが違った。
兄上を縛っていた檻は。
ラゴウ王妃その人だったのだ。
草原から迎えた年若い妻。
あの女だけが。
兄上を理性的な人間でいさせていた。
ラゴウがいたから、兄は完璧な王を演じた。
あの女の前でだけ、兄は温厚で品行方正かつ公明正大な王の仮面をつけたのだ。
犠牲を最小限に抑え、各国と和平を保ち、草原との同盟を維持するために。
あの女だけが。
兄上に未来を見せていた。
だから兄上は王でいた。
自ら望んでラゴウという檻に捕らわれたのだ。
ラゴウ王妃が、兄を縛る唯一の鎖だった。
そして自分は、愚かにも、その鎖を断ち切ったのだ。
協定を壊し、王と王妃を引き裂いた。
その結果。
王を失ったのではない。
獣を野に放った。
メフィストは苦く笑う。
「見誤ったな」
かすれた声だった。
「あの女は、兄上の弱点だと思っていたのに」
違った。
むしろ。
ラゴウ王妃という檻が、兄を閉じ込めていたのだ。
窓の外に王都が広がる。
兄が守ろうとした国。
自分が作り変えようとした国。
その両方が軋み始めている。
「まったく」
小さく息を吐く。
「兄上は昔から」
そして呟く。
「敵に回すと、とことん質が悪い」
◇ ◇ ◇
窓辺に立つメフィストの背へ、シュイが近づく。
「何を考えているの?」
メフィストは答えない。
シュイは笑った。
「あなたは、よく分からないひとね」
そう言って、窓の外を見る。
「つかみどころがない。あなたという男がどんな人間なのか、把握しかねるわ」
王都。
そして遠くの草原。
「でも」
「嫌いじゃないわ」
メフィストが眉をひそめる。
シュイは続けた。
「わたくしは勝者に嫁ぐと決めているもの」
沈黙。
少しだけ遠くを見る。
まるで昔を思い出すように。
「覚えている?」
「同盟交渉」
「アレクシス王が草原へ来た時のこと」
メフィストは黙る。
もちろん覚えている。
レザリアと草原。
同盟のため。
皇太子アレクシスは正妃候補を探していた。
王弟として自分も同行していた。
シュイも候補だった。
ダッキの王女。
美貌。血筋。政治力。
どれを取っても不足はない。
誰もが思っていた。
選ばれるのはシュイだと。
「だから不思議だったの」
シュイは小さく笑う。
「どうしてラゴウだったのか」
沈黙。
「兄上は合理だけで生きる人間じゃない」
むしろ。本来は。
獰猛で、直情的。
処世術のために隠していただけだ。
そのほうが都合が良かったから。
「そうね」
シュイは頷く。
「考えたわ」
「何が足りなかったんだろうって」
「容姿?」
「血筋?」
「教養?」
「政治力?」
「全部比べた」
シュイは肩をすくめる。
「すべてに優っていたのはわたくしなのに、なぜ選ばれなかったのか」
「おもしろくないものは、退屈だからだ」
それくらい酔狂なことを、本音では考えていたはず。
シュイが黙る。
「兄は元々、興味のないものには、とことん無関心だ」
「君がいくら兄の気を引いたところで」
「最初から兄の眼中になかった」
沈黙。
「それに」
メフィストは眼下に広がる王都に目をやりながら言う。
「ラゴウ王女は兄に恋をしていた」
・・・どんなきっかけがあったのかは分からないが。
その数年前、はじめて使節団として兄が草原を訪問した時に、兄を見染めたらしいと聞いている。
レザリアに嫁ぐことを、自ら望んだと。
「兄は策略家だ。権力を志向する女より、自分に執心する無垢な王女のほうが扱いやすい」
「・・・兄は計略でラゴウを選んだのだと、当時の私はそう考えていた」
「だが」
シュイが視線を上げた。
「違ったのかもしれぬ」
どんな動機であれ。
どんな打算であれ。
兄はラゴウを愛した。
そして。
ラゴウもまた兄を選んだ。
それだけは確かなのだろう。
しばらく沈黙。
やがてシュイは言う。
「でも」
美しい双眸が細くなる。
「今は違うわ」
「アレクシスは王位を失ったも同然」
「ラゴウは草原に返還され、いずれカヨウのものになる」
「草原も割れた」
「そして」
シュイはメフィストを見る。
「あなたは王都を手に入れた」
少し笑う。
「だから今の勝者はあなたよ」
メフィストは答えない。
シュイはさらに近づく。
「だから婚約したの」
「あなたが勝つと思ったから」
その言葉は甘い。
だが冷たい。
愛ではない。
信仰でもない。
純粋な勝者への賭け。
まさしくダッキの王女だった。
ふ、と、メフィストは笑う。
「なら婚約は解消した方がいい」
シュイが眉を上げる。
「なぜ?」
メフィストは窓の外を見る。
「兄上が自由になった」
沈黙。
「今の兄上は」
「誰にも止められない」
メフィスト回でした。
兄に勝ちたかった弟の話です。
王位も奪った。
王妃も奪った。
牢にも入れた。
なのに兄が全然諦めてくれない。
むしろ前より厄介になった。
そんなメフィストの頭痛の種がよく分かる回だったと思います。
次回はいよいよ草原へ。
再会の前に、まだひと波乱ありそうです。
引き続きお付き合いいただけると嬉しいです。




