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第102話 人の気も知らずに

 アレクシスの救出は、シキとユイに、任せるしかない。

 分かっている。

 分かってはいるのだが。

 ラゴウはしばらく黙り込んだ後、小さくつぶやいた。

「・・・眠れているだろうか」

 シキは荷を括る手を止めない。

「眠るだろう」

「怪我は」

「しているかもしれん」

 即答だった。

 ラゴウが顔をしかめる。

「おい」

「安心しろ」

 シキは肩をすくめた。

「そういう心配は無用だ」

「なぜ」

 シキは淡々と続ける。

「奸計によって捕らえられたとはいえ、相手は仮にも一国の王だ」

「最低限の敬意は払う」

「五体満足で生かしておくことは徹底されているはずだ」

 少し間を置く。

「それに」

「拷問に屈する男でもあるまい」

 ラゴウは黙った。

「むしろ」

 シキがため息をつく。

「心配すべきは監獄の方だ」

「・・・なに?」

「バテレノアは各国の犯罪抑止装置として機能している」

「気まぐれや遊び半分で潰されては困る」

 ラゴウが呆れた顔になる。

「さすがにそれは言い過ぎだろう」

 シキはラゴウを一瞥し、すぐに目を逸らした。

「言い過ぎかどうかは行ってみれば分かる」

 不愉快そうな声音を隠そうともせず、シキはっきりと言った。

「むしろ監獄の側がタチの悪い災厄に見舞われているようなものだ」

 珍しくあからさまに不機嫌な様子のシキに、ラゴウは困ったように言う。

「機嫌なおせよ。アレクを頼む」

 シキは無言だった。

 やがて。

「なら」

 低い声が返る。

「おれの機嫌を取ってみろ」

 ラゴウは目を瞬く。

「どうやって」

「考えろ」

 しばらく沈黙したあと。

 ふと思いついたように言った。

「じゃあ、髪を結ってやろう」

 ラゴウはシキの後ろへ回る。

 さらり。

 櫛が長い黒髪を滑る。

 昔から何度も触れた髪だった。

 子どもの頃。

 退屈すると勝手にシキの髪をおもちゃにして編んで遊んだ。

「伸びたな」

「切る暇がなかった」

 ラゴウは小さく笑う。

 そして。

 自分の髪を束ねていた結紐をほどいた。

 するり、と。

 赤い髪が肩へ流れ落ちる。

 シキは思わず振り返った。



 雨季のあいだ、ラゴウは王庭からほとんど出なかった。

 その代わり、ジョカ族の王女としての装いを身につけていた。

 深紅の長衣。

 袖口には女媧族特有の刺繍。

 耳元では銀細工と青玉が揺れる。

 長く伸びた赤い髪は幾筋にも編み込まれ、色鮮やかな組紐と装飾布が織り込まれていた。

 異国の旅人が見れば、草原の精霊か神話の女神かと見間違えるかもしれない。

 そして。

 そこにもう幼い少女の面影はなかった。

 フェルンで。

 あの男と想いを通わせた。

 愛を知った。

 抱き合うことの悦びを知った。

 笑う時の目元。

 歩く時の仕草。

 伏せた睫毛。

 何気ない所作のひとつひとつが、まるで香気立つようだった。

 シキは目を伏せる。

 ――あの男が、ラゴウを変えた。

「なんだ」

「・・・いや」

 ラゴウは、自分の髪を束ねていた結紐を、シキの髪に当てた。

 赤と黒。

 ジョカ族の紋様が織り込まれた細い紐。

 それを器用にシキの黒髪へ編み込んでいく。

「おまえの結紐か」

「ああ」

「旅の無事を祈るまじないだ」

「まじない?」

「<向こう>の世界では」

 ラゴウは少し笑う。

「試験とか試合の前につけるんだ」

「妹がよくやってた」

(・・・ミサンガみたいなもんだな)

 思い出して、ラゴウは目を細めた。

 ケイトの髪を結ぶのも、自分の役目だった。

 朝の光。

 制服姿のケイト。

『お兄ちゃん、結んで』

 眠そうな顔。

 文化祭の日。

 受験の日。

 試合の日。

 ほどけないように。

 願いを込めて。

 何度も結んだ。


 沈黙。

 シキは黙る。

 ――その結紐は。

 さっきまでラゴウの髪にあったものだ。

 ラゴウの匂いがした。

 ふと。

 昔を思い出す。

 幼いラゴウはよく自分の膝の上で眠った。

 腕の中で笑った。

 手を引いて草原を走った。

 転べば泣き、木に登れば落ち、草原を駆け回っては泥だらけになった。

 その頃のラゴウは軽かった。

 抱き上げれば腕の中に収まった。

 泣けばあやし、怒れば叱り、眠れば運んだ。

 世界のすべてが自分の手の届く場所にあった。

 育てるべき弟子であり、守るべきジョカの末裔だった。

 だが今は違う。

 もう自分の知らない顔をする。

 自分の知らない男を想う。

 自分の知らない夜を知っている。

 シキは静かに目を閉じた。

 昔は。

 髪を結うことすら嫌がった。

 結い上げれば鬱陶しいと文句を言い、飾り紐をつければ邪魔だと外し、気づけば草原を駆け回って泥だらけになっていた。

 髪など興味のない子どもだった。

 それが今では。

 迷いなく髪を編み、均等に力をかけ、崩れないよう結び目を整える。

 驚くほど器用だ。

 その器用さは。

 ラゴウのものなのか。

 ジンナイのものなのか。

 もう分からない。

 包帯を巻く手。

 傷を縫う手。

 薬を量る手。

 命を救う手。

 ふたりは混じり合い、境界は薄れ、今や区別すらできない。

 だが。

 そんなことはどうでもよかった。

 ラゴウでも。

 ジンナイでも。

 そのどちらでもない何かでも。

 ただ目の前にこの女が存在していれば。

 それでよかった。

「ラゴウ」

「なんだ」

「おれが大切か」

 あまりにも自然な声音だった。

「もちろん」

 ラゴウは即答する。

 迷いもなく、考えせず、当たり前のように。

 だからこそ。

 シキは小さく息を吐いた。

「そうか」

 少しだけ。

 本当に少しだけ。

 諦めたように。

「・・・あの男のどこがそんなにいいんだか」

 ラゴウは真顔で考える。

「顔」

 シキが眉をひそめる。

「からだ」

「・・・身もふたもないな」

「あとは、髪もきれいだな」

「月の光を集めたような銀色」

 シキは額を押さえた。

「もういい」

 ラゴウは首を傾げる。

 シキはしばらく黙る。

 そして。

「・・・銀に染めればいいのか」

 真顔だった。

 ラゴウが吹き出す。

「なんだそれ」

「違うのか」

「違うだろ」

 ラゴウはおかしそうに笑う。

「そういう問題じゃない」

 その笑い声を聞きながら。

 シキは馬に跨った。

 ――だから勝てない。

 一度も、勝てたことがない。この女に。

「・・・まったく」

 ――人の気も知らずに。

「行ってくる」


第102話「人の気も知らずに」でした。

今回はほぼシキの回です。

何千年もラゴウを見守り続けてきた男が、ようやく少しだけ本音を漏らしました。

とはいえ、ラゴウは相変わらずです。

シキも頭を抱えます。

一方のラゴウも、本当は今すぐ監獄へ飛んで行きたい。

ですが、草原には草原の事情があります。

自分の役目を放り出すことはできません。

そして当のアレクシスですが。

本人は本人で、

「あと五日あれば監獄を潰せる」

くらいに考えています。

心配する側とされる側で温度差がすごい。

アレクシスとシキは、おそらく、お互い相手を高く評価していて、お互い相手が気に入らない。

次回もお楽しみください。 

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