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Satanic Children   作者: Lily
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第五章 共鳴する二人

 

 聖ルシエル教会附属学園には、先日の惨劇が嘘だったかのような、穏やかな静けさが戻っていた。


 聖堂は激しく損壊していたものの、幸いにも生徒や教職員に負傷者はなく、御堂の強力な魔術によって火の手も綺麗に消し止められていた。


 しかし――。


 「……」


 遥香は教室の窓辺に立ち、ぼんやりと外の景色を眺めていた。


 遠くに見える聖堂の残骸。


 黒く焼け焦げた屋根の骨組みと、無惨に崩れ落ちた石壁。


 昨日まで当たり前の風景としてそこに存在していたものが、今はもう元の形を留めていない。


 「遥香」


 すぐ隣から、聞き慣れた声が掛けられる。


 「……何だ」


 「授業、とっくに終わったけど?」


 「……そうか」


 レインが困ったような苦笑を浮かべる。


 「ずっと窓の外ばかり見てたよ」


 「……少し、考え事をしていただけだ」


 「アルフェンのこと?」


 「……」


 遥香は答えなかった。


 ただその沈黙だけで、レインには彼の胸の内が十分に伝わった。


 「怖い?」


 「……怖くはない」


 「本当に?」


 「……」


 遥香はほんのわずかに目を伏せる。


 「……分からない」


 「そっか……」


 レインはそれ以上、深く追求しなかった。


 ただ、いつものように優しく、しかし確かな存在感を持って遥香の隣に立ち続けている。


 それだけだった。


 「……レイン」


 「ん?」


 「あの夜のことだが」


 「うん」


 「お前は、私を守ると言ったな」


 「言ったね」


 「……何故だ?」


 「何故って?」


 「何故、そこまで私に執着する?」


 「……」


 レインがほんの一瞬だけ言葉を詰まらせた。


 だが、すぐにいつもの柔らかい笑顔を浮かべる。


 「大切だからだよ」


 「……それだけか?」


 「それだけじゃ、駄目?」


 「いや……」


 遥香は歯切れ悪く言葉を濁す。


 「……よく分からないだけだ」


 「僕も、自分のことなのに、よく分からないよ」


 レインはふと、窓の外の空へと目を向けた。


 「ただ……遥香がいなくなるのは、嫌だ」


 その言葉だけは、冗談でも作り笑いでもなかった。


 底知れない切なさを伴った、本物の響きがあった。


 「……そうか」


 遥香は小さく頷いた。


 その瞬間――。


 「……っ」


 二人に刻まれた呪印が、示し合わせたように同時に熱を帯びた。


 「っ……!」


 遥香が思わず片手で胸元を押さえる。


 「レイン……?」


 「……今、感じた?」


 「ああ……」


 二人は驚いたように顔を見合わせた。


 だが、それ以上の変化は起きず、熱はすぐにスーッと引いていった。


 ――まだ、この時の二人は知らなかった。


 共鳴とは、単に魔力が循環し、増幅するだけの現象ではないということを。


 それは魂を繋ぎ、感情を溶かし、記憶を映し出し、そして心の奥底に隠された「願い」や「渇望」までも互いに伝染させてしまう、あまりにも危険で深遠な力なのだということを。


 放課後。


 エドワードの研究室。


 『もう一度、試してみましょう』


 エドワードは机いっぱいに広げた古びた魔導書をめくりながら、眼鏡の奥の目を光らせた。


 『今回は、魔力を放出するだけで構いません。昨日のように、互いに身体を触れ合わせる必要もないはずです』


 「分かった」


 遥香とレインが向かい合って立つ。


 『始めますわよ』


 少し離れた場所から、アーシェが腕を組んで見守る。御堂もまた、無言で二人の様子を鋭く観察していた。


 『……では、起動します』


 エドワードが手元の魔道具のスイッチを入れた。


 ふわり、と遥香の周囲に禍々しくも美しい紅い光が浮かび上がる。


 それに呼応するように、レインの周囲にも透き通るような蒼い光が満ちていく。


 最初は、ただそれぞれの魔力が漂っているだけだった。


 しかし――。


 遥香がレインを見る。


 レインもまた、遥香の瞳を見返す。


 視線が交差したその瞬間。


 紅と蒼の魔力が、まるで意思を持つかのようにゆっくりと互いに歩み寄り、混ざり合い始めた。


 「……っ!」


 魔道具の計器の針が、凄まじい勢いで跳ね上がる。


 『これは……!』


 エドワードが息を呑み、思わず一歩踏み出した。


 数値は天井知らずに上昇していく。


 『エドワード、これ以上は危険なんじゃありません……!?』


 アーシェが声を荒らげる。


 『いや……まだだ』


 『でも――』


 『もう少しだけ、この現象を観察したい』


 その緊迫した空気の中、突如として――。


 遥香の視界が、真っ白な光に塗りつぶされた。


 「……え?」


 目の前にいたはずのレインの姿がかき消える。


 代わりに、見知らぬ景色が脳裏に雪崩れ込んできた。


 炎に包まれる街。


 逃げ惑う人々。


 その中心で怯える、一人の幼い少年。


 冷たく暗い石造りの牢獄のような部屋。


 「……なんだ、これ……?」


 そして、その少年を取り囲み、冷酷な目を向ける黒づくめの男たちの姿。


 ――まるで、かつて自分と母を執拗に追い詰めてきた者たちと酷似した影。


 『お前は忌み子だ』


 『悪魔の血を引く者め』


 浴びせられる罵声の中、少年はただ歯をくいしばり、うつむいていた。


 「……違う」


 胸の奥がギュッと締め付けられるような痛みが走る。


 これは――レインの記憶だ。


 「レイン……!」


 次の瞬間、景色が激しく明滅し、別の場面へと切り替わった。


 今度は、幼い頃の遥香自身の姿だった。


 母の手を必死に握りしめ、逃げるように走り回る記憶。


 燃え盛る森、追いかけてくる得体の知れない黒い影。


 そして――。


 『遥香……!』


 目の前で母親が微笑み、そして泣いていた。


 『あなたは……生きて。忘れないで、母様はあなたを心から愛しているわ。いつまでも。そして、あなたは来るべき“その時”まで、守り抜かなければならないの……あなたの“純潔”を。あなたが、あなた自身を守る“力”を、失わないために……。母様は、そのための“呪い”をあなたにかけて逝くわ……』


 「待って……母様……っ!」


 轟く雷鳴、焼き尽くす炎、そして耐えがたいほどの眩い光と絶叫。


 「……っは……!」


 激しい衝撃と共に、遥香は現実の空間へと引き戻された。


 「遥香……!」


 目の前には、青ざめた顔をしたレインが立っていた。


 彼もまた、冷や汗を流して荒い息をついている。


 「大丈夫……っ?」


 「お前……」


 遥香は震える両手を握り締め、かすれ声で問いかけた。


 「今……私の記憶を見たのか?」


 「……っ」


 レインは気まずそうに、しかし隠しきれない動揺を浮かべて頷いた。


 「……うん」


 「……!」


 「遥香も……僕の記憶を見たの?」


 「……ああ……」


 研究室の隅で、エドワードが青ざめた顔で息を呑んだ。


 『まさか……魔力の共鳴によって、精神の奥底にある記憶まで共有してしまったというのか……?』


 「そんなことが……」


 御堂が低く呟く。


 アーシェも険しい表情で眉間に皺を寄せた。


 『それでは……二人が近くにいればいるほど、互いの内面やプライベートな領域までが勝手に繋がってしまうということですの?』


 『その可能性は極めて高いですね』


 エドワードは険しく頷く。


 『そして何より問題なのは――どこまで深く繋がってしまうか、です』


 遥香はレインを見つめた。


 レインもまた、複雑な瞳で遥香を見返している。


 「僕……」


 レインが唇を噛む。


 「遥香の記憶を、全部見たわけじゃない。でも……」


 「私もだ。すべてを見たわけではない」


 「でも……」


 レインは自分の胸元をぎゅっと掴んだ。


 「遥香がこれまでどんな思いで、どれだけの恐怖や孤独を抱えて生きてきたのか……少しだけ、分かった気がするんだ」


 「……」


 遥香は何も言い返すことができなかった。


 それは、自分が人生で最も隠したかった、誰にも見せたくなかった記憶だった。


 母を失った絶望の日のこと。


 誰も頼れず、ただ一人で震えていた夜のこと。


 それを、今レインに覗き見られた。


 それなのに――不思議と、怒りは湧いてこなかった。


 「……嫌ではない」


 遥香は絞り出すように呟いた。


 「え……?」


 「……お前になら……見られても、嫌とは思わない」


 レインの蒼い瞳が大きく揺れる。


 「遥香……」


 「ただし」


 遥香は少しだけトーンを落として釘を刺す。


 「勝手に私の記憶を覗くような真似は、二度とするな」


 「あはは……気を付けるよ」


 レインは力なく、しかしどこか嬉しそうな苦笑いを浮かべた。


 そのやり取りを少し離れた場所から見つめながら、フランシスは静かに目を伏せた。


 『……やっぱり、そうか』


 「フランシス?」


 遥香が振り返る。


 『いや、何でもないよ』


 フランシスはいつもの調子で笑ってみせたが、その笑みはどこまでも痛々しかった。


 エヴェンだけが、その表情の裏にある真実を見抜いていたように、静かに口を開く。


 『……フランシス』


 『なに?』


 『……四百年前と、同じだな』


 フランシスの顔から、作り物の笑顔が綺麗に消え失せた。


 『……違うよ』


 『本当にそうか?』


 『……』


 エヴェンはそれ以上何も追及せず、ただ深い沈黙の中に身を引いた。


 その夜。


 遥香は一人、静まり返った館の廊下を歩いていた。


 どうしても眠気が訪れず、頭の中でレインと共有した記憶がぐるぐると渦巻いていたからだ。


 ふと、視線を上げると、薄暗い廊下の向こうに人影が立っていることに気づいた。


 「誰だ」


 『……私だ』


 「ヤガミか」


 そこに立っていたのは、月明かりを背負ったヤガミだった。


 「こんな夜更けにどうした」


 『少し、お前に話しておかなければならないことがある』


 「何だ」


 ヤガミはわずかに間を置いてから、重い口を開いた。


 『今日、レインと記憶を共有したそうだな』


 「ああ……知っていたのか」


 『……そうか。ならば話が早い』


 「何か問題があるのか?」


 『問題というより……警告だ』


 ヤガミは冷徹な瞳で遥香を据える。


 『これ以上、共鳴を安易に深めるな』


 「どういう意味だ」


 『共鳴は、単に魔力を増幅させ、便利にするための力ではない。二人の間にある“境界”を曖昧にする』


 「境界……?」


 『そうだ。感情も、記憶も、さらには意志さえも、それが互いのものなのか、あるいは相手から流れ込んだものなのか、やがて判別がつかなくなる』


 「……っ!」


 『お前が抱いた激しい怒りや哀しみが、本当にお前自身の心から生まれたものか、それともレインから流れ込んだものか――。それを見極められなくなった時、共鳴は力ではなく、互いを破滅へと導く最悪の「呪い」と化す』


 ヤガミの言葉が、遥香の胸に重く突き刺さる。


 「では、どうすればいい」


 『己を失わぬことだ』


 ヤガミは静かに、しかし断固とした口調で告げた。


 『レインを信じることと、レインという存在と完全に一つになってしまうことは、根本的に違う。それを忘れるな』


 その忠告の意味を噛み締めながら、遥香は思わず自分の胸元をきつく押さえた。


 同じ頃。


 レインは自分の自室で、一人窓の外の闇を見つめていた。


 「……っ」


 昼間に見た、遥香の記憶。


 母親を失い、冷たい世界にたった一人取り残された遥香の孤独な背中。


 その哀しみの記憶が、脳裏からどうしても離れてくれなかった。


 「……守らなきゃ」


 レインは自然と口に出していた。


 「僕が……遥香を絶対に守らなきゃいけないんだ」


 拳を強く握り締める。


 「もう二度と、あんな顔をさせない。僕が傍にいて、すべてから守って見せる……」


 だが、その決意の裏側で、彼の内面からドス黒い別の感情が這い上がってくるのを感じていた。


 ――誰にも渡したくない。


 ――自分だけが遥香の支えでありたい。


 ――自分だけを頼り、自分だけを見ていてほしい。


 純粋な庇護欲とは異なる、ねっとりとした執着と独占欲が、胸の奥を黒く染め上げていく。


 「……」


 レインは自分の心の歪さに気づき、自嘲気味に息を吐いた。


 「……僕って、本当に嫌な奴だな」


 その時だった。


 『――レイン』


 「……っ!」


 突然、彼の頭の中に直接響くような、不気味で冷たい声が割って入った。


 聞いたこともない、鳥肌の立つような声。


 『お前は本当に、遥香を守りたいのか?』


 「……誰だ!?」


 『それとも――』


 その声は、悪意に満ちた笑みを湛えて囁いた。


 『お前の手で、すべてを縛り付けて……自分だけのものにしたいと、そう望んでいるのではないのか?』


 「……っ、ふざけるな……!」


 レインは跳ね起きるように立ち上がり、誰もいない部屋の中で辺りを睨みつけた。


 返事はない。


 ただ、彼の首元に刻まれた呪印が、ジリジリと黒く不気味に明滅し始めた。


 「……遥香……」


 胸をかきむしるように押さえながら、レインは混乱する頭で自分自身に問いかける。


 「僕は……本当は、何をしたいんだ……?」



 その頃。


 学園から遠く離れた深い森の奥。


 鬱蒼と茂る木々に囲まれた古びた廃墟の中に、一人の人影があった。アルフェン。


 彼は崩れかけた石の床に腰を下ろし、手元にある一冊の古びた魔導書を開いていた。


 表紙には不気味な逆十字と「X」の刻印が刻まれている。


 『……ふむ。ついに共鳴が本格的に始まったか』


 アルフェンは目を細め、満足げに微笑んだ。


 『やはり、あの二人は私が生み出した宿命通りの器だったということだ』


 ページをめくる。


 そこには、赤と蒼の対照的な魔女の姿が描かれていた。


 『皮肉なものだな。四百年前は、私を完全に封じ込めるための厄介な術式として使われた「共鳴」が……今度は私を解放する鍵になるとは』


 アルフェンは美しい指先で、魔導書に描かれた二つの印をなぞる。


 『終焉の魔女の力を真に覚醒させ、その限界を超えるには――やはり“媒介者”との深い共鳴が不可欠なのだ』


 紅い瞳が、妖しく、残酷な光を放つ。


 『共鳴の絆が深まれば深まるほど、二人の心と精神の境界は溶け合い、やがて一つに混ざり合う。ならば……その片方を精神的に追い詰め、あるいは壊してやればいい』


 しかし、そこでアルフェンはふと動きを止め、満足げな笑みを消した。


 脳裏に、ふいに蘇る記憶があった。


 四百年前の戦場。自分の側に忠実に仕えながら、ついには自分を裏切ったあの青年の姿。


 蒼い瞳。金色の髪。そして、自分に投げかけられた最後の言葉。


 『アルフェン様……』


 ――フランシス。


 『……』


 アルフェンの表情から温度がすっかり抜け落ちる。


 『……裏切り者め』


 静かな、しかし底冷えするような声。


 『貴様はあの時、私を裏切り、すべてを台無しにした。そして今度は……お前の血を受け継ぐ者が、再び私の邪魔をするというのか』


 周囲の空気が凍りつき、おぞましい黒い魔力が彼の足元から渦巻いて立ち上る。


 『……いいだろう。ならばまず――』


 アルフェンの視線は、遠く離れた聖ルシエル教会附属学園の方角を正確にとらえた。


 『レクセイン・D・アルファード』


 その名前を、愛おしむかのように、同時に呪うかのように呟く。


 『お前から徹底的に壊してやろう』


 その声には、四百年越しの強烈な憎悪と、それ以上にねじ曲がった奇妙な執着が入り混じっていた。


 『そうすれば、終焉の魔女は必ず私を直視せざるを得なくなる』


 雲の切れ間から、冷たく冴えわたる月が顔を出す。


 アルフェンはその月を見上げ、深く息を吐いた。


 『……遥香』


 まるで最愛の恋人に囁くかのような、甘く優しい声。


 『お前に、本当の孤独というものを教えてやろう』


 そして、彼は冷酷に笑った。


 『その時こそ――お前は、私以外の何者も必要としなくなるのだから』


 二人の間に芽生えた「共鳴」は、確かな絆となって彼らを繋ぎ始めた。


 しかしそれは同時に、互いの精神の奥底へと踏み込み合い、いつかどちらかを致命的に狂わせかねない、あまりにも危うく残酷な諸刃の剣でもあった。


 * * *


 翌朝。


 レインは、一睡もできなかった。


 ベッドに横になり、重いまぶたを閉じるたびに、昨日の共鳴で流れ込んできた記憶がフラッシュバックのように脳裏を駆け巡る。


 ――炎に包まれる森。


 ――幼い遥香の怯えた瞳。


 ――母の最期の言葉。


 そして、自分の醜い内面を覗き見られたときの、遥香の複雑な表情。


 「……っ」


 レインは重苦しい息を吐き出しながら、冷え切った天井を見つめた。


 昨日の共鳴は、単に互いの魔力が循環しただけの現象ではなかった。


 遥香の生々しい記憶や傷跡が自分の中に流れ込み、逆に自分の隠しておきたかった内面もまた、遥香の目にさらされた。


 それはまるで、二人を隔てていた頑丈な壁が、音を立てて一枚剥がれ落ちたかのような感覚だった。


 レインは無意識に自分の胸元に手を当てる。


 そこには、昨夜から消えない微かな熱がまだ残っていた。


 ――遥香を守りたい。


 その純粋な願いは、出会った頃から一度たりとも変わっていない。


 しかし、昨日初めて自覚してしまったのだ。


 その切実な庇護欲の裏側に――『誰にも渡したくない』という、ドス黒い独占欲が混ざり合っていることに。


 「……最低だな、僕」


 自嘲するような呟きが、静まり返った自室に虚しく溶けていく。


 その瞬間だった。


 『――そう思うか?』


 「っ……!」


 背筋に冷たいものが走り、レインの身体が激しく硬直した。


 まただ。


 昨日、頭の中に直接響いた、あの声。


 低く、どこか静かで、人の苦悩を愉しむかのような底意地の悪い響きを持つ声。


 「……誰だ」


 『お前は、自分の心の中に芽生えた感情を自分で否定している』


 「……っ」


 『何故だ?』


 「うるさい……消えろ」


 『あの者が、お前以外の誰かを選んだらどうする?』


 「……っ」


 『御堂かもしれない』


 『学園の仲間かもしれない』


 『あるいは――全く別の、誰も知らない男かもしれない』


 「やめろ……!」


 『もし、お前だけを見なくなったら?』


 「やめろと言っている!」


 レインは両手で頭を抱え込み、ベッドの上で身を縮こまらせた。


 胸の奥が、焼け付くように締め付けられる。


 ――嫌だ。そんな想像、したくない。


 遥香が自分以外の誰かを選び、自分の手の届かないところへ行ってしまう。その光景を思い浮かべるだけで、狂いそうなほどの嫉妬と恐怖が内臓を焼き尽くしていくようだった。


 その瞬間。


 ピリリ、と首筋に耐えがたい熱が走った。


 「……っは……!」


 レインが慌てて首元を押さえる。


 皮膚の下で、何かが生々しく蠢く感覚。


 そして鏡を見ると、彼の首筋に黒く裂けたような不気味な紋様が、一瞬だけ禍々しく浮かび上がっていた。


 『ならば――』


 声は、悪魔のように甘美な囁きを重ねてくる。


 『私が、お前のその願いをすべて叶えてやろう』


 「何を……言っている……」


 『遥香を、誰にも奪えないお前だけのものにするのだ』


 レインの蒼い瞳が大きく揺らぐ。


 「……っ」


 その誘惑に、ほんの一瞬、心が傾きかけた。


 だが次の瞬間。


 レインは歯をくいしばり、わなわなと震える拳を強く握り締めた。


 「……違う」


 絞り出すような、しかし揺るぎない声。


 「僕は……遥香を無理やり僕のものにしたいわけじゃない」


 『ほう……?』


 「遥香が……自分の意思で、僕を選んでくれることを望んでるんだ」


 『……』


 「だから……お前なんかの力には、絶対に頼らない!」


 プツリ、と頭の中に響いていた声が途切れた。


 重苦しい静寂が部屋に舞い戻る。


 レインは荒い息を何度も吐き出しながら、びっしょりと冷や汗の滲んだ首元に触れた。


 鏡を覗き込むと、先ほどまで不気味に浮かび上がっていた黒い紋様は、嘘のように綺麗に消え失せていた。


 しかし、胸の奥に残ったドス黒い澱のような感覚だけは、どうしても拭い去れなかった。


 「おはよう、レイン」


 「……おはよう、遥香」


 食堂。


 いつものように並んで座る、見慣れた朝の光景。


 遥香は温かい紅茶を一口飲みながら、ふと隣に座る少年の顔をじっと覗き込んだ。


 「……睡眠不足か?」


 「え?」


 「ひどい顔色だ」


 「ああ……昨夜は少し、考え事をしていてね」


 「昨日の共鳴のせいか?」


 「……まあ、それもあるかな」


 遥香はわずかに眉を寄せ、心配そうな、しかしどこか鋭い視線をレインに向ける。


 「無理はするな」


 「うん、分かってる」


 「お前は昔から、すぐに自分の限界を超えて無茶をする」


 「遥香のためなら、これくらい――」


 「そういうところだ」


 「え?」


 「自分をもっと大切にしろと言っている」


 「……っ」


 レインは意表を突かれたように目を見張り、次の瞬間、抑えきれない愛おしさを滲ませて柔らかく笑った。


 「……分かったよ」


 「何故笑う」


 「いや……」


 レインは片手で頬杖をつき、優しく目を細める。


 「遥香がこうして僕の心配をしてくれるのが、なんだか嬉しくてさ」


 「……馬鹿か、お前は」


 遥香はわずかに頬を赤らめ、すっとそっぽを向いてしまった。


 「はいはい、ごちそうさま」


 いつもの朝。


 いつもの掛け合い。


 けれど、遥香は気づいていなかった。


 レインの首元の、ちょうど襟に隠れたわずかな隙間に――昨日まで決して存在しなかった、微かに黒く亀裂いた紋様の痕跡が、再びうっすらと熱を帯びていたことに。


 * * *


 昼休み。


 エドワードの研究室では、特製の魔導具が青白く冷たい光を放っていた。


 『非常に興味深いデータが出ていますね』


 エドワードは目の前の測定モニターを見つめながら、真剣な面持ちで眼鏡の位置を直した。


 『昨日の共鳴以降、二人の魔力の波長が、以前とは比べ物にならないほど近接し合っている』


 「近接している、とは?」


 遥香が怪訝そうに尋ねる。


 『ええ。昨日までは、意図的に共鳴させた瞬間だけ波長が一致していましたが、今は――』


 「……常に、か?」


 『完全に固定されたわけではありませんが、お互いの魔力が磁石のように引かれ合い、同調し続けている状態です』


 アーシェが腕を組み、不服そうに唇を尖らせた。


 『それって、魔術的な連携としては良いことですの?』


 『一概にそうとも言えません』


 エドワードは首を横に振る。


 『むしろ、危険な側面の方が大きい』


 『危険、というと?』


 『共鳴の強さは、二人の精神的・物理的な距離に比例します。そして――』


 エドワードは研究室にいる遥香とレインを交互に見据えた。


 『魔力だけではありません。感情の機微までもが、お互いの心にダイレクトに流れ込んでしまうリスクが高まっている』


 遥香は横に立つレインを見上げた。


 「感情が……?」


 『怒り、恐怖、悲しみ、歓喜……それだけではない』


 エドワードはわずかに言葉を区切った。


 『もっと厄介な感情も共有されます』


 『例えば何ですの?』


 『……執着、あるいは独占欲といった、ねっとりとした負の情動です』


 その言葉に、レインの表情がわずかにこわばった。


 同時に、部屋の隅で静かに控えていたフランシスの表情から、すっと笑顔が消え去る。


 『……エドワード』


 『何ですか、フランシス?』


 『もし仮に、その共鳴している二人のどちらかに……外部から意図的に強力な魔力を送り込んだとしたら、どうなる?』


 エドワードはハッとして顔を上げ、すばやく魔導具の操作盤を叩いた。


 『……理論上の話ですが』


 モニターの数値が不吉な赤色に染まる。


 『共鳴の鎖で結ばれたどちらか一方に外部魔力が侵入すれば――』


 エドワードの指がピタリと止まった。


 『遮断されることなく、もう一方の精神や肉体にもそのまま流れ込む可能性があります。最悪の場合、共鳴そのものが暴走を引き起こすでしょう』


 「……」


 フランシスは何も言わず、ただ固く拳を握り締めた。


 その瞳の奥には、遥か昔の、二度と思い出したくないような悲惨な光景が鮮明に蘇っていた。


 ――四百年前。


 壮麗ながらもどこか冷ややかな王宮の地下研究室。


 まだあどけなさが残る、若き日のアルフェンが傍らに立つ中、フランシスは古びた魔導書のページをめくっていた。


 「これは……?」


 アルフェンが興味深そうに覗き込む。


 「魂と魔力を強制的に結びつける、古い時代の禁術だ」


 「結びつける?」


 「ああ」


 フランシスは険しい顔で説明する。


 「二人の魔力を完全に共鳴させることで、一方の負担や魔力をもう一方へ肩代わりさせ、あるいは流し込むための術式だ」


 「……ふうん」


 「だが、極めて危険だ。繋がった二人は、単なる魔力の共有だけに留まらず、互いの感情や精神の深部まで過剰に影響し合うことになるからね」


 「感情、か……」


 アルフェンはその術式が描かれたページをじっと見つめ、無邪気とも狂気ともつかない笑みを浮かべた。


 「ならば……この術を使えば、誰かと完全に、永遠に一つになれるということか?」


 フランシスは眉をひそめ、首を横に振った。


 「そういう意味ではないよ、アルフェン。これは共依存を生むだけの呪いに近いものだ」


 「……そうか」


 その時のアルフェンは、まだ無邪気な笑みを浮かべていた。


 しかし、彼がその禁断の術式を心の底に深く刻み込み、決して忘れることはなかったと知る者は、当時のフランシスを含めて誰もいなかった。


 * * *


 現在。


 現実の記憶から引き戻されたフランシスは、歯を食いしばる。


 『……嫌な予感がする』


 隣に立っていたヤガミが、低い声で問いかけた。


 『アルフェンか?』


 『……ああ』


 フランシスは暗い瞳で頷いた。


 『奴は、ただ力任せに人を痛めつけたり、真っ向から心を壊したりするような真似はしない』


 『……?』


 『もっと残酷だ。人間が一番耐えられない方法を選ぶ』


 フランシスの声が微かに震える。


 『――人間自身に、自分の手で自分や大切な人を壊させるんだ』


 放課後。


 静まり返った夕暮れの校舎を、遥香とレインは並んで歩いていた。


 「今日は一日中、なんだか疲れたね」


 「……ああ、そうだな」


 「このあとさ、夕飯は何がいい?」


 「……何でもいい」


 「それ、料理する側が一番困るやつだよ」


 レインが困ったようにクスリと笑う。


 その瞬間だった。


 遥香がぴたりと足を止め、鋭く周囲に目を走らせた。


 「……レイン」


 「ん? どうしたの?」


 「今……何か、変な音がしなかったか?」


 「え……?」


 二人が同時に足を止め、緊張した面持ちで周囲を警戒する。


 校舎の廊下には誰もいない。


 だが、次の瞬間――。


 『――遥香』


 「……っ!」


 『――レイン』


 頭の中に直接響く、悍ましいまでの冷たい声。


 レインは反射的に一歩前へ踏み出し、遥香を背に庇うように身構えた。


 「誰だ!」


 薄暗い廊下の突き当たり。


 空間が歪み、ドス黒い霧がモヤモヤと湧き上がってきた。


 霧はみるみるうちに人の形へと凝縮され、やがて冷ややかな笑みを浮かべた姿を現す。


 鮮烈な、紅い瞳。


 「……アルフェン」


 遥香が歯をむき出しにして警戒の魔力を高める。


 『久しいな』


 「何故、こんなところに現れた……!」


 『決まっているだろう。お前たちに会いに来ただけだ』


 「ふざけるな!」


 『随分と冷たい歓迎だ』


 アルフェンの視線が、遥香の前に立つレインへとスライドした。


 『そして……お前にも、少しばかり興味が湧いてね』


 「僕に?」


 『ああ』


 アルフェンは面白そうに目を細める。


 『その血の匂い――どこか見覚えがある』


 「……誰のことを言っている?」


 『知らなくていい。少なくとも、今はな』


 アルフェンがふっと妖しく微笑むと同時に、足元の黒い霧が爆発的に膨れ上がった。


 「遥香!」


 レインが叫び、遥香の手を強く掴む。


 その接触を触媒にしたかのように――二人の胸元から、紅い魔力と蒼い魔力が同時に爆発的な勢いで解き放たれた。


 「……っ!」


 激しい二色の光の奔流が、周囲の空間を抉るように広がる。


 押し寄せようとしていた黒い霧は、その圧倒的な共鳴の圧力の前に弾き飛ばされ、アルフェンの実体化していた姿さえも激しく揺らいだ。


 『……なるほど』


 アルフェンは顔色一つ変えず、むしろ愉しげに口角を吊り上げる。


 『ここまで深く、共鳴の絆を育んでいたとは』


 「消えろ……!」


 レインが怒号と共に、蒼い炎のような魔力を一気に撃ち放つ。


 アルフェンはその魔力の嵐に包まれながら、完全に消え去る直前、不敵に囁いた。


 『レイン』


 「……っ!」


 『お前は、遥香を守りたいのだろう?』


 「……それがどうした」


 『ならば――』


 アルフェンの声が、底意地の悪い響きを持って低く沈む。


 『お前自身の手が、いつか一番大切な遥香を深く傷つけることになるかもしれない』


 「……なに……!?」


 『共鳴とは、そういうものだ。愛おしければ愛おしいほど、毒もまた深く混ざり合う』


 次の瞬間、黒い霧は跡形もなく消え去り、廊下には再び重苦しい静寂が戻ってきた。


 荒い息を整えながら、遥香はレインの手をしっかりと握り締めたまま見上げた。


 「……遥香」


 「……何だ、レイン」


 「僕が……もし、自分の意思とは関係なく、君を傷つけるようなことがあったら……その時は」


 遥香はレインの目を真っ直ぐに見据え、さらに強く手を握り返した。


 「私が、お前を止める」


 「……っ!」


 「だから、一人で抱え込んで闇に沈むな」


 「……」


 「私たちは今、共鳴しているのだろう?」


 「ああ」


 「ならば――」


 遥香の紅い瞳に、強い光が灯る。


 「お前が闇に引きずられそうになったら、私が何度でも引き戻してやる」


 レインは息を呑んだ。


 胸の奥底で渦巻いていた不安や恐怖の黒い霧が、その言葉によって綺麗に洗い流されていくような気がした。


 彼は小さく、しかし心からの笑みを浮かべる。


 「……そうだね」


 「?」


 「じゃあ、逆に――遥香がもし闇に飲まれそうになったときは、僕が全力で引き戻すよ」


 「……」


 「お互い様だね」


 「……ああ、そうだな」


 二人の間に、静かで美しい光景が生まれた。


 それは激しく暴れ回るものではなく、紅い光と蒼い光が、まるで互いを優しく包み込むように、静かに、そしてしっかりと重なり合う光だった。


 少し離れた中庭の陰から、その様子をじっと見つめる三つの影があった。


 エヴェン、フランシス、そしてヤガミ。


 『……思った以上に厄介だな』


 エヴェンが眉をひそめる。


 『何がだ?』


 フランシスが鋭く問い返す。


 『アルフェンが、二人の共鳴の深さに気づいてしまった』


 『……っ』


 ヤガミは、穏やかな光を放ち続ける遥香とレインの背中を見つめながら、小さく息をついた。


 『だが――』


 その声には、わずかな安堵の響きがあった。


 『あいつらの共鳴は、アルフェンが知っているような薄汚い代物とは違う』


 『どういうことだ、ヤガミ?』


 フランシスが聞く。


 ヤガミは静かに答えた。


 『支配し、依存させるための繋がりではない』


 『……』


 『互いを信じ、守り抜くための本当の絆だ』


 エヴェンは滅紫色の瞳を細め、険しい表情を崩さなかった。


 『それでも……甘いな』


 『エヴェン』


 『アルフェンは、必ずその繋がりを利用する。奴は四百年前から、この共鳴という現象のすべてを研究し尽くしていた』


 フランシスの顔色が一気に青ざめる。


 『……四百年前から、だと……?』


 『ああ』


 エヴェンは静かに告げる。


 『奴はただ二人の心を繋ぐだけでは終わらせない。繋がった絆を利用して、その力を――一方からもう一方へ完全に逆流させるつもりだ』


 その場に、冷たい沈黙が落ちた。


 誰も言葉を発することができない。


 その時。


 遠くで、遥香の胸の奥で――小さな、しかし不気味な脈動が一度だけ鳴り響いた。


 紅い光の奥底に、わずかにちらついた「黒い影」の正体に、まだ誰も気づいてはいない。


 * * *


 ――四百年前。


 同じ夜の、遥か過去の記憶。


 王宮の地下深くにある冷たい石造りの研究室。


 一人の少年が、机の上に広げられた古びた魔導書を一人でじっと見つめていた。


 銀色の長髪。


 妖しく光る紅い瞳。


 アルフェン。


 まだ世界を破滅へと導く前の、ただの孤独な少年。


 その開かれたページには、魔力と魂を繋ぐ複雑な術式が描かれていた。


 中心に描かれた二つの魂、そしてそれらを繋ぐ一本の直線。


 「……共鳴、か」


 アルフェンは低く呟いた。


 だが、その術式のすぐ傍らには、別の残酷な魔法式が書き添えられていた。


 それは、繋がった魔力を一方の精神からもう一方へ強制的に流し込み、相手の自我を完全にすり潰すための「逆流の式」だった。


 「……」


 アルフェンはその式から目を離さない。


 その表情には、年相応のあどけない少年の面影がまだかすかに残っていた。


 しかし、その瞳の奥底にはすでに――『二度と誰にも自分を捨てさせない、奪わせない』という、底知れぬ狂気と執念が静かに宿り始めていた。


 そして、その執念がどうして生まれ、何を引き起こしたのかを、遥香とレインはまだ知らない。


 それは、四百年前に出会った――。


 たった三人の少年たちから始まった、あまりにも長くて悲しい物語の始まりにすぎなかった。


 アルフェン。


 フランシス。


 そして、ヤガミ。


 その三人がまだ手を取り合って笑い合えた、世界が壊れる前の記憶の断片だった。


次章、第六章 受け継がれたもの

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