第四章 終焉の魔女
『……』
ヤガミは無言でふたりを見つめていた。
先程までの遥香とは、明らかに何かが違っている。
遥香の長く美しい黒髪は月光を受けて微かに銀色の輝きを纏い、何よりその瞳の奥には、深い闇を切り裂くような鋭い紅い光が灯っていた。
それはまるで、冷たい底冷えする闇の底に宿った小さな炎のようだった。
「遥香……」
レインが息を呑むように呟く。
その声に促されるように、遥香は彼を振り返った。
「レイン?」
「……うん」
レインは戸惑ったように自分の手を見つめ、微かに震わせる。
「なんだろう……すごく変な感じがするんだ」
「何がだ?」
「身体の中を、冷たい水が勢いよく流れていくみたいで……」
「水……?」
「ああ」
レインがそっと手を掲げると、不思議なことに、空気中に漂っていた無数の微細な水滴が彼の周囲へと引き寄せられるように集まり始めた。
「……っ!」
水滴は瞬く間に一つに融合し、レインの掌の上で綺麗な球体を描く。
「空気中の水分まで……」
レイン自身が信じられないといった面持ちで目を丸くした。
「僕……これを操れる」
彼が指を軽く動かすと、水球は細長い槍へと姿を変え――次の瞬間、
パキンッ! と乾いた音を立てて凍りついた。
「氷まで……」
言葉を失うレインに、ヤガミが静かに頷いて見せる。
『それがお前の本来の力だ』
「本来の……?」
『水を媒介とし、周囲の魔力を循環させる力。そして――』
ヤガミの視線が、隣に立つ遥香へと向けられた。
『お前の力を安定させる役割も、その血には担われている』
「……!」
遥香とレインは顔を見合わせる。
「つまり……」
レインは自分の胸に手を当てた。
「僕が、遥香の調整役?」
『そうだ』
ヤガミは肯定した。
『終焉の魔女の力はあまりにも強大すぎる。故に、一人では完全に制御することが難しい』
遥香は自分の掌を見つめた。
先程から身体の奥底で、今までにないほどの莫大な力が渦巻いているのが分かる。
しかし、不思議と暴走する気配はなかった。
むしろ――。
すぐ隣にいるレインの存在を感じるたび、その荒ぶる力が嘘のように静かに収まっていく。
「……なるほど」
遥香は小さく息を吐いた。
「お前がいるから、この力を制御できるのか」
「うん」
レインは嬉しそうに、けれどどこか切なそうに笑った。
「だから僕らは、二人で一つなんだね」
「……そういうことらしいな」
遥香もまた、わずかに口元を緩めた。
その穏やかな時間は、しかし、突如として破られる。
――ズンッ……!
「っ!」
突如として、足元の大地が大きく揺れた。
遥香とレインがハッとして顔を上げる。森の向こう、先程まで静寂に包まれていた夜空が、おぞましいほどに赤黒く染まり始めていた。
「……なんだ?」
ヤガミが険しい顔で森の先を睨みつける。
直後、耳をつんざくような轟音が響いた。まるで大地そのものが引き裂かれたかのような音だった。
「今の音は……!」
「聖堂の方だ!」
レインが叫ぶ。三人が一斉に視線を向けたその先で、古の聖堂が猛烈な炎を上げて燃え盛っていた。
巨大な火柱が夜空を焦がし、その黒煙がゆっくりと立ち昇っていく。
『まさか……』
ヤガミが青ざめたように呟いた。
『奴が……』
遥香の胸が、ドクン、と激しく脈打つ。
「奴って、誰だ?」
ヤガミは答えず、ただ燃え盛る聖堂を見つめたまま固くなっている。
その時――。
『――ようやく、見つけた』
「っ!」
背筋が凍るような、低く冷たい声が森の奥から響いた。
それを聞いた瞬間、ヤガミの表情が完全に凍りつく。
『……アルフェン』
その名が、冷たい夜の空気に落ちた。
そして――。
闇の底から、一人の青年が姿を現した。
長く艶やかな銀髪。燃えるような紅い瞳。整いすぎた端正な顔立ちは、人間離れした美しさを放っている。
その姿を目の当たりにした瞬間、遥香は息を呑んだ。
「……っ」
――似ている。
何故そう思ったのかは分からない。
姿かたちが同じというわけではない。
だが、その存在の根源や纏う空気が、自分と酷く似ていると直感した。
アルフェンは静かに歩を進め、遥香を見つめていた。
まるで、何百年もの長きにわたって探し求めていた最愛の何かを、ようやく見つけたかのように。
『……お前か』
アルフェンは微かに微笑んだ。
『私と同じ血の運命を持つ者よ』
「……私は、お前など知らない」
『そうだろうな』
アルフェンは楽しげに笑う。
『だが、私は知っている』
一歩、彼が距離を詰める。
その気配を察知したレインが、咄嗟に遥香の前へ身を挺して立ちふさがった。
「それ以上、近寄るな」
アルフェンの冷徹な視線が、レインへと向けられる。
そして――。
『……その瞳』
「……?」
『なるほど』
アルフェンは目を細めた。
『“裏切り者”の血か』
その言葉に、レインの表情が強張る。
「……裏切り者、だと?」
ヤガミの顔色もさらに険しくなった。
遥香が戸惑いながらレインを見る。
「どういう意味だ?」
「僕にも……分からない」
アルフェンは愉悦に満ちた笑みを浮かべた。
『知らされていないのか。哀れなものだな』
「何のことを言っている!」
『お前の祖先は――』
『黙れ』
ヤガミが鋭く遮った。
アルフェンは視線をヤガミに戻す。
『……相変わらずだな、ヤガミ』
『アルフェン……』
『四百年経とうとも、お前のその頑なさだけは何も変わらぬ』
その言葉に、ヤガミの瞳が微かに揺らいだ。
だが、アルフェンはそれ以上追及せず、再びふっと遥香へ視線を戻す。
『それより――』
紅い瞳が、遥香の全身を射抜くように捉える。
『お前だ。お前の中に眠っている力』
『それは私と同じものだ』
「違う」
遥香は強く否定した。
『何故そう言い切れる』
「私は、お前のように世界を滅ぼしたいなどとは思っていない」
『今は、な』
アルフェンの笑みが深く歪む。『お前はまだ、自分の本当の姿を知らない』
その瞬間、アルフェンの視線が遥香の胸元へと落ちた。
遥香の身体がわずかに強張る。
『……なるほど』
アルフェンは満足そうに目を細めた。
『そういうことか』
「何がだ?」
『お前の母親は……』
「……っ!」
遥香の表情が凍りつく。
「何故、母のことを知っている?」
『知っているとも』
アルフェンは淡々と告げた。
『お前の中には、随分と古い呪いが残されている』
「……呪い?」
遥香は思わず自分の胸元を押さえた。
脳裏によみがえるのは、母親の最期の記憶…母が遺した言葉。
――“貴方の純潔を守らなければいけない”。
――“貴方が貴方自身を守る力を失わないために”。
アルフェンは、その呪いの存在を――遥香自身よりも正確に見抜いていた。
『お前の母親は、お前の力が悪しき者に利用されぬよう、その身を縛って封じたのだ』
「……!」
『その呪いがある限り、お前は自分の力を完全には使えない』
背後で、レインが心配そうに遥香を振り返る。
「遥香……」
『だが』
アルフェンの声が低く、甘たるい響きを帯びる。
『私なら、それを解ける』
「……!」
『お前を縛っているものを、すべて壊してやろう』
その言葉には、ただの強者としての欲望だけではない、異様な執着が混じっていた。
『お前は私と同じだ。だから、私の隣に来い』
「断る」
迷いのない即答だった。
アルフェンの顔から、微かに笑みが消える。
「私は、お前とは違う」
『……何故だ』
「私は――」
遥香は、すぐ隣に立つレインを見る。
レインは何も言わない。ただ静かに、まっすぐに遥香を見つめ返している。
「私には、レインがいる」
「私には、守りたいものがある」
その言葉を聞いた瞬間、アルフェンの瞳孔が縮み、初めて明確な怒りがその顔に浮かび上がった。
『……守りたいもの、だと?』
殺意を孕んだ低い声。
『そいつが? お前からすべてを奪うかもしれぬ、その存在が?』
「何を……」
『いずれ分かる。お前が、私と同じ絶望を味わう日が来る』
黒い魔力が、アルフェンの足元から噴き出し、周囲を闇に染め上げていく。
「レイン!」
「分かってる!」
レインが腕を大きく振るう。空気中の水分が一斉に凝縮され、凄まじい密度を持つ巨大な氷壁がふたりの前にそびえ立った。
――ドォンッ!!
激しい衝突音。黒い魔力と氷がぶつかり合い、散っていく。
「ぐっ……!」
レインが歯を食いしばる。氷壁には瞬く間に亀裂が走った。
「レイン!」
「大丈夫だ!」
レインはひるまず、さらに周囲の水分を集める。
砕けた氷の欠片が新たな水を取り込み、無数の巨大な氷槍へと姿を変えた。
「――これならどうだ!」
無数の氷槍が、アルフェンへと一斉に放たれる。
しかし――アルフェンはわずかに片手を掲げただけだった。
噴き出した黒い霧がすべての氷槍を飲み込み、一瞬にして粉々に砕き散らす。
「……っ!」
『まだ未熟だな』
「……だったら何度でも!」
レインはなおも遥香の前に立ちふさがる。
「僕は、何度だって強くなる!」
『何故そこまでして守る?』
「決まってるだろ」
レインは傷だらけになりながらも笑った。
「遥香が、僕にとって何よりも大切な存在だからだ」
その言葉を聞いたアルフェンは、ふっと表情を完全に消し去った。
そして――。
『……そうか』
それは、酷く冷たく、静かな声だった。
『ならば覚えておけ』
アルフェンは遥香を真っ直ぐに見据える。
『私は必ず、お前を迎えに来る』
「……!」
『力だけではない。お前自身を、な』
その宣言を残し、アルフェンの姿がぐにゃりと歪み、黒い霧へと溶けていく。
「待て!」
遥香が叫び声をあげて手を伸ばすが、すでにそこには何の気配も残されていなかった。
あたりに、重苦しい静寂が戻る。
レインは息を荒らげながら、無言で遥香を見た。
「……遥香」
「……なんだ」
「僕……あいつ、本当に嫌いだ」
「奇遇だな」
遥香は小さく息をつき、静かに言った。
「私もだ」
だが、ふたりの背後で、ヤガミだけは一人、険しい顔のまま黙り込んでいた。
「ヤガミ」
遥香が振り返る。
「アルフェンの言っていた母の呪いとは何だ。そして、レインの祖先が裏切者だというのは……どういう意味だ」
ヤガミは答えようとしない。
その重い沈黙の中で、レインが静かに口を開いた。
「……そうなんだね」
ヤガミがハッとしてレインを見る。
「僕の祖先は……かつて、アルフェンの側にいたんだね」
『……そうだ』
ヤガミは目を伏せる。
『だからこそ、人々から“裏切り者”と呼ばれ、その血は忌み嫌われた』
「そっか……」
レインはゆっくりと俯いた。いつもの太陽のような笑顔はそこになかった。
遥香が心配そうに声をかける。
「レイン…」
「…大丈夫だよ」
レインは無理に笑ってみせる。けれど、その笑顔が普段と違うことは誰の目にも明らかだった。
そんなふたりの様子を一瞥し、ヤガミは燃え落ちる聖堂を見つめながら、独りごとのように呟いた。
『……四百年前も、こうだった』
「四百年前?」
『あの時も……すべてがこうして燃え盛っていた』
ヤガミは痛ましげに目を閉じる。
脳裏に鮮烈によみがえる記憶。
燃え盛る森。崩れ落ちる大地。
そして――血まみれになりながら、自分を絶望の瞳で見つめていた一人の青年。
蒼玉色の瞳。震える手。そして、自分の名を呼ぶ掠れた声。
――ヤガミ。
(……フランシス)
言葉を失うヤガミの姿を見て、遥香とレインは顔を見合わせるしかなかった。
四百年前、アルフェンとの最後の戦いで自らの命と引き換えに奴を封印したヤガミ。
その最期を目の前で見届け、最後の封印を託された男――フランシス。
彼は、ヤガミにとってただ一人の、かけがえのない存在だったのだ。
『……あの時と同じだ』
ヤガミは呟く。
『…いや、だが、同じではない』
その声に、いつの間にか戻ってきていたエヴェンが答えた。
彼もまた、燃える聖堂を見据えている。
『今回は、まだ終わっていない』
「エヴェン……?」
エヴェンは遥香を見つめ、それから静かにレインに視線を移した。
『むしろ、ここからが本当の始まりだ』
「お前、何か知っているのか?」
遥香の問いに、エヴェンは口を真一文字に結んで沈黙した。
「答えろ、エヴェン!」
『今は言えない』
「何故だ!」
遥香が詰め寄る。
するとエヴェンは、苦しげに目を伏せて静かに言った。
『……アルフェンが、なぜ世界を支配しようとしたのか。その本当の理由を知れば――』
一瞬だけ、エヴェンの瞳に耐え難い悲しみが浮かんだ。
『お前たちは、魔女そのものを信じられなくなるかもしれない』
「……!」
『だから今は、まだ知らない方がいい』
遥香は悔しそうに唇を噛み締めた。
何も分からない。
自分の力も、母親の呪いも、アルフェンの真の目的も。
そして、レインの血に隠された忌まわしい過去も。
ただ一つ確かなのは、この夜を境にして、自分たちの穏やかな日常はもう二度と戻らないということだけだった。
* * *
そして――森の遥か彼方。
闇に溶け込むように、朧気な影が歩いていた。
アルフェン。
彼は夜の闇の中で、ふと足を止める。
『……遥香』
その端正な顔の口元に、狂おしいまでの笑みが浮かんでいた。
『必ず迎えに行く』
そして、独りごとのように呟く。
『今度こそ、私と同じ苦しみを、お前には味わわせない』
その言葉は一見すると優しい響きを帯びていながら、しかし、あまりにも歪んでいた。
『……私だけがお前を理解できる』
雲間から差し込んでいた月が、すっかりと闇に隠される。
『私だけが、お前を救えるのだから』
闇の奥へと消えていく影の背中は、どこまでも孤独で、そして底知れぬ狂気を纏っていた。
* * *
燃え落ちた聖堂を前に、誰も言葉を発することが出来なかった。
夜空を焦がす激しい炎。
無惨に崩れ落ちた石壁。
もうもうと立ち昇る黒煙と共に、夜風に舞い上がる無数の灰。
先程までそこにそびえ立っていた古の聖堂は、もはや原形を留めていなかった。
「……」
遥香は黙って、その崩壊した残骸を見つめていた。
胸の奥には、先程から妙な感覚が残り続けている。
熱い。けれど、決して不快ではない。
むしろ、自分の身体の奥底に、遥か昔から眠っていた巨大な何かが、ゆっくりと目を覚ましつつあるような――まるで自分の中にもう一人の自分がいるかのような、奇妙で圧倒的な感覚だった。
「遥香」
すぐ隣から、レインの声がした。
「……何だ?」
「大丈夫?」
「……ああ」
そう答えたものの、心配そうに自分を見つめるレインの顔を見た瞬間、不思議と胸の奥にあった激しいざわめきがスーッと静かになっていくのを感じた。
「……?」
遥香は僅かに眉を寄せる。気のせいだ、と頭の中で打ち消そうとした。
だが――。
『……やっぱり』
エドワードが眼鏡を押し上げながら、鋭い眼差しで二人を見つめていた。
「何だ?」
『いや……少し気になりまして』
エドワードは二人へと歩み寄る。
『遥香。すみませんが、少し魔力を放出してみてくれませんか』
「今か?」
『ええ。ほんの微かで構わない』
遥香は訝しげにしながらも、言われた通りに右手を前へ突き出し、意識を集中させた。
すると――。
遥香の掌から、禍々しくも美しい紅黒い光がじわりと滲み出した。
「……っ!」
それを見た瞬間、驚くべきことが起きた。
レインの身体からも、突如として眩い蒼い光が漏れ出し始めたのだ。
「え……?」
レイン自身が信じられないといった面持ちで自分の手を見る。
遥香の放つ魔力に呼応するように、彼から溢れる蒼い光は勢いを増していった。
紅と蒼。
まったく異なる二つの魔力が空中で交わり、そして―― シュゥゥ……と静かな音を立てて、一つの強大な光へと変化していく。
「……っ!」
エドワードの目が見開かれた。
『これは……』
ヤガミもまた、無言で二人の現象を見つめていた。
あまりの異常さに、遥香は慌てて魔力を引っ込めた。
それに引っ張られるように、レインの光も同時に消え失せる。
「今の……何なんだ?」
レインが戸惑いながら呟く。
「私にも分からない」
遥香は首を振った。
だが、エドワードは眼鏡を外し、険しく目を細めた。
『分からないというより……あり得ない』
「何がだ?」
『魔力の性質が全く異なる二人が、互いの魔力を打ち消し合うどころか――』
エドワードは二人を交互に見据えた。
『循環させている』
「循環……?」
『そうです。遥香の魔力がレインへ流れ、レインの魔力が遥香へ還っている。そして、その循環によって双方の魔力が増幅し続けている』
息を呑むエドワードは、さらに続ける。
『まるで、一つの魔力を二人で完全に共有しているような状態です』
レインは隣の遥香を見た。
「……僕達、そんなことになってたの?」
「いや……私に聞くな」
「だよね」
困ったように苦笑いを浮かべるレイン。
しかし――その横で、エヴェンだけは青ざめたような、酷く険しい顔をしていた。
『……違う』
「エヴェン?」
エヴェンは二人から視線を外さず、低く呟いた。
『循環なんかじゃない』
『共鳴している……』
「共鳴……?」
遥香が聞き返す。
エヴェンは答えなかった。
ただ、その瞳には隠しきれない動揺の色が浮かんでいる。
「エヴェン、答えろ」
遥香がもう一度呼ぶが、エヴェンはぷいと視線を逸らした。
『……まだ、何も分からない』
「ならば何故、そんな不穏な言葉を口にした!」
『エヴェン』
ヤガミが静かに、しかし制するように遮った。
『……』
エヴェンはヤガミを見つめる。二人の間だけで、言葉にならない重い何かが交わされていた。
遥香はそのやり取りを不審に思い、詰め寄る。
「ヤガミ。お前は何か知っているのか?」
『……今は知らなくていい』
「またそれか!」
遥香の眉間に深い皺が寄る。
「私達は何も知らされていない。アルフェンのことも、母の遺した呪いのことも。私自身の身に起きている力のことも、そして……レインの血に隠された秘密についても!」
「遥香」
レインが静かに彼女の名前を呼んだ。
遥香がハッとして振り返る。
「……なんだ」
「僕なら、大丈夫だよ」
レインはいつものように、穏やかに笑っていた。
だが、その瞳の奥には、わずかな不安と痛みが揺れている。
「仮に僕の祖先が裏切者だったとしても、それは僕自身の選択じゃない。僕は僕だから」
「……ああ」
遥香は小さく頷いた。
「お前が何者の子孫だろうと、お前自身が変わるわけではないな」
「……遥香」
レインの顔に、嬉しそうな、愛おしげな笑みが綻ぶ。
「ありがとう」
「別に……礼なんて要らない」
そう言いながら、遥香は照れくさそうにふっと視線を逸らした。
そのやり取りを、少し離れた場所からフランシスがじっと見つめていた。
いつもの軽口や茶化すような笑みは完全に消え失せている。
そして――。
『……ヤガミ』
『なんだ』
『……あの二人、僕たちと同じなのかな』
『……』
『僕には、そう見えてしまうよ』
フランシスの声には、これまでにない寂寥感が漂っていた。
ヤガミはわずかに目を伏せる。
『……フランシス』
『うん?』
『余計なことを口にするな』
『……分かってるさ』
フランシスは笑った。
けれど、その笑みはどこまでも切なげだった。
四百年前の記憶が、脳裏をかすめる。
最後の戦い。
燃え上がる森と、崩れ落ちる大地。
そして――自分の腕の中で、静かに目を閉じていったヤガミの姿。
『……フランシス』
『なんだい』
『最後の封印を……頼む』
『嫌だそんなの……君を置いていくなんて、僕にはできない』
『……頼む』
あの時、ヤガミが最後に残した魔力は、フランシス自身の身体へと流れ込んできた。
まるで、二人の存在そのものが永遠に一つに結ばれるかのように。
その温もりと痛みを、フランシスは一日たりとも忘れたことがなかった。
だからこそ――今、遥香とレインの間に見た魔力の奔流が、酷く懐かしく、そして恐ろしかった。
『……フランシス?』
アーシェが不思議そうに彼の顔を覗き込む。
『どうしましたの、そんな難しい顔をして』
『ん? いや、何でもないよ』
『……そうですの?』
『うん、何でもないって』
『あなた、昔からそういう時は大抵何かを隠していますわよね』
『アーシェは本当に鋭いなぁ』
『褒めていませんわ』
『はいはい』
普段通りの軽口を叩きながら、しかしフランシスは心の中で拳を強く握り締める。
まだだ。まだ、口にしてはならない。
その隣で、エドワードが眼鏡の位置を直した。
『……実に興味深い』
『何がですの、エドワード?』
『先程の二人です。あの共鳴、ただの偶然とは到底考えにくい』
「どういう意味だ?」
遥香が鋭く尋ねる。
『遥香とレイン。君たちは出会った当初から、互いの魔力に対する親和性が異常に高かったのではないいですか?』
「……っ」
遥香はハッと思考を巡らせる。
確かにそうだ。
レインと出会ってから、なぜか彼と一緒にいると妙に心が落ち着いた。
逆に、彼が近くにいないと理由もなく苛立ったり、胸がざわついたりすることがあった。
「……そうかもしれない」
『やはりな』
エドワードは納得したように頷く。
『ならば、二人の血筋そのものに、ただならぬ深い因果関係がある可能性が高い』
血筋。ヤガミの血。裏切者の血。そしてアルフェンという存在。
四百年という途方もない時間を経て、様々な因縁の言葉が遥香の頭の中で複雑に絡み合う。
「分からない……」
遥香は苦しげに自分の胸元を押さえた。
「何も……分からない」
その瞬間、レインがそっと遥香の手に自分の手を重ね合わせた。
「大丈夫だよ、遥香」
「……」
「少しずつ、紐解いていけばいいんだから」
触れ合ったその瞬間――。
遥香の胸の奥で、真紅の光がわずかに、しかし強く瞬いた。
同時に、レインの美しい蒼い瞳も微かに光を放つ。
「……っ!」
その変化を、ヤガミとフランシスが見逃すはずもなかった。
二人は無言で顔を見合わせる。ヤガミの瞳が微かに揺らぎ、フランシスはただ静かに、ヤガミのすぐ横へと寄り添うように立った。
――四百年前と同じように。気づけば、いつも隣にいる。
『……また、始まってしまったね』
フランシスが小さく呟く。
『……ああ』
ヤガミが静かに答える。
『今度こそ――』
フランシスはそこで言葉を飲み込んだ。
ヤガミもそれ以上続けなかった。
二人だけが知っている。
四百年前、自分たちがどうしても守り通せなかった後悔。
そして今度こそ、命にかけて守らなければならない未来が、目の前の若者たちの中に宿っていることを。
「……帰りましょう」
御堂が重い沈黙を切り裂くように、静かに言った。
「今日はもう遅い。これ以上、崩壊した聖堂の近くにとどまるのは危険だ」
『そうですわね』アーシェも同意して頷く。
『遥香もレインも、今日はもう十分に休むべきですわ』
「うん、そうだね」
レインが素直に頷く。
遥香もそれに続こうとして――ふと、視線を燃え盛る聖堂の残骸へと戻した。
『……アルフェン』
その名前を頭の中で反芻した瞬間。
遥香の胸の奥で、激しい痛みが走った。
ズキン……!
「……っ!」
「遥香!?」
レインが息を呑み、心配そうに彼女の顔を覗き込む。
「……私は、大丈夫だ」
顔を歪めながら、遥香は胸元を強く押さえた。
だが、その直後。
脳裏に、かつて見たこともない「他人の記憶」のような光景が、激しいフラッシュバックとなって流れ込んできた。
--------。
凍てつく城。
誰もいない暗い部屋。
その中央にぽつんと佇む――一人の銀髪の少年。
『……どうして』
少年は、絶望に満ちた声で呟いていた。
『どうして、私だけが……こんな運命を背負わされるのか』
そして、その少年の前に――もう一人の人物が歩み寄る。
眩い金色の髪。どこか切なげな蒼い瞳の青年。
『アルフェン様……』
--------。
「……っ!」
あまりの衝撃に、遥香は大きく目を見開いた。
「遥香! しっかりして!」
レインの必死の声で、かろうじて現実へと引き戻される。
「……今のは……」
「どうしたの、真っ青だよ」
「いや……何でもない」
言葉にできなかった。
今見たビジョンが何を意味するのか、自分でもまったく理解できなかったからだ。
けれど――胸の奥に焼きついたあの青年の姿は、あまりにも鮮烈だった。
遥香は恐る恐る、隣に立つレインの横顔を見上げる。
「……レイン?」
「ん? どうしたの?」
「……お前に、よく似ていた」
「……え?」
レインの優しい笑顔が、ぴたりと凍りついた。
そして、その瞬間。
遥香の胸の奥で、硬質な音が響いた。
――カチッ。
それは、四百年前から固く閉ざされていた、もう一つの「記憶の扉」が開く音だった。
* * *
その頃。
月明かりだけが頼りの深い森の奥。
一人の影が、音もなく闇の中を歩いていた。
アルフェン。
彼は不意に足を止め、月夜の下でゆっくりと自分の手のひらを広げた。
『……』
先程の戦い。遥香の圧倒的な魔力。
そして、傍らに寄り添っていた――レインの存在。
『……共鳴、か』
アルフェンの端正な口元が、冷たく、そして狂おしく歪む。
『まさか、あの忌々しい血脈が、まだ現代にまで残っていたとはな』
四百年前。
自分を幾度となく阻み、ついには封じ込めた魔女たち。
その中心にいた、最も強大な魔力を持つ女――ヤガミ。
そして、最後まで自分の傍らにいながら、自分を裏切り続けたあの男。
『……traitor(裏切り者)』
アルフェンの脳裏に、金髪と蒼い瞳を持つ青年の姿が浮かび上がる。
『フランシス』
彼の紅い瞳が、一層鋭く細められた。
『まさか、お前の血が……あの少年に色濃く流れているとはな』
さらに、アルフェンは遥香の姿を思い返す。
『……ヤガミの血を受け継ぐ者』
そして、
『フランシスの血を引く者…』
遥香とレイン。
本来であれば決して交わるはずのない相反する二つの血が、今、一つの力として強く結びつき始めている。
『……面白い』
アルフェンは闇の中で、声もなく低く笑った。
『ならば、私の知らない四百年の答えを……お前たち自身の口から、たっぷりと聞かせてもらおう』
夜風が吹き抜け、彼の銀色の長髪を優しく揺らす。
『遥香』
アルフェンは、愛しい恋人に囁くかのように呟いた。
『お前だけではない』
闇の奥で、彼の紅い瞳が異様な光を放つ。
『――レインもまた、私には必要なのだから』
そうしてアルフェンは、再び夜の闇へと溶けるように姿を消していった。
誰もまだ知らない。
遥香とレインの間に起きた「共鳴」こそが、四百年前に途切れたはずの二つの血と魔力を再び繋ぎ合わせ、運命の歯車を大きく回し始めていることを。
そして――その共鳴こそが、アルフェンが四百年の長きにわたり決して手に入れることのできなかった、「終焉」の力を完全に完成させるための、唯一にして最大の鍵になるということを。
* * *
夜中。
館へと戻った遥香とレインは、いつものように二階の自室へと向かっていた。
しかし――
「……」
遥香は何度目か分からないほど、密かに自分の胸元へ手を当てていた。
「遥香?」
「……何でもない」
「さっきからずっとそう言ってるけどさ」
「本当に何でもない」
「でも――」
「何でもないと言っているだろう」
「……はい」
ぴしゃりと言い放たれ、レインは小さく肩を竦める。
だが、その瞳には隠しきれない心配の色が残っていた。
遥香はその視線に気づきながらも、言葉を飲み込むしかなかった。
胸の奥にある妙な違和感――まるでそこに、自分とは別の何かが確かに息づいているような感覚が、どうしても消えなかったからだ。
母の声。
終焉の魔女という宿命。
アルフェンという脅威。
そして、レインとの間に起きた「共鳴」。
一見するとバラバラに見えるそれらの断片が、どこか深いところで不気味に繋がり始めている予感がした。
自室の扉を開け、レインが静かにそれを閉める。
その瞬間――
カタッ……。
「……?」
窓際に飾られていたガラスの花瓶が、音を立てて微かに揺れた。
風が吹き込んだのかと思ったが、窓は固く閉ざされている。
「今の、何だったんだ?」
レインが怪訝そうに眉をひそめる。
「さあな」
遥香が花瓶へと近づいたその時。
花瓶の中に溜まっていた水が、ふわりと重力を失ったように宙へと浮かび上がった。
「……っ!」
二人が同時に息を呑み、目を見開く。
水は空中で美しい小さな球体へと姿を変え、意志を持つかのようにゆっくりと遥香の方へ近づいてきた。
「遥香危ない!」
レインが反射的に手を伸ばして庇おうとする。
その瞬間、不思議なことに水球はぴたりと動きを止めた。
遥香が恐る恐るその水球へ手を差し出すと、それは吸い寄せられるように遥香の掌へと落ちてきた。
「……何だ、これ」
「僕、何も魔力は操ってないよ……?」
「……私もだ」
二人は顔を見合わせ、言葉を失う。
そして次の瞬間――遥香の掌にあった水が、眩い蒼い光を帯び始めた。
「……!」
パラパラと、水がみるみるうちに凍りついていく。
小さな氷の結晶が、遥香の掌から冷たいきらめきを伴って舞い上がった。
「これって……僕の力?」
レインが自分の両手を見つめて驚愕する。
「いや」
遥香は激しく首を振った。
「私が、お前の力を使っていたというのか……?」
「そんなこと、あり得ないのに……」
レインにも理由が分からない。
ただ、動揺する遥香が思わずレインの手をしっかりと握り締めた瞬間――。
宙を舞っていた氷が一斉にパキンと音を立てて砕け散り、まるで祝福の星屑のように光を散らして消えていった。
「……」
二人はただ立ち尽くし、何も言うことができなかった。
やがて遥香がゆっくりと手を離すと、奇妙な魔力も嘘のように霧散した。
「……やっぱり」
レインが青ざめた顔で呟く。
「何だ」
「僕たちが触れ合った時、何かが起きてるんだよ。確実に」
「……」
遥香は自分の白く冷えた掌を見つめた。
昼間、エヴェンが呟いた言葉が脳裏に蘇る。
――共鳴。
その二文字が、頭から離れてくれなかった。
「……明日、エドワードに詳しく聞いてみよう」
「うん……そうだね」
レインは不安そうに頷いた。
だが、その直後。
「……っ」
レインが苦しそうに自分の胸元を片手で押さえた。
「レイン!?」
「っ……何でもない、ちょっと……」
「お前まで『何でもない』で済ませる気か」
「……」
レインは痛みを隠すように、引きつった笑みを浮かべる。
「ただ……急に変な感じがしただけだよ。胸の奥が……ものすごく熱くなって……」
「……っ」
不思議なことに、その言葉と同時に、遥香の胸の奥も激しい熱を帯びて高鳴り始めた。
二人はまだ気づいていなかった。
今この瞬間、二人の心臓が、まるで一つの鼓動であるかのように全く同じタイミングで脈打っていたことを。
一方その頃。
館の一階に設けられた広間では、古の魔女たちが眠ることなく集まり、重苦しい空気を漂わせていた。
「……で、あの現象をどうお考えですか」
御堂が静かに問いかける。
エドワードは腕を組み、険しい顔で眼鏡のブリッジを押し上げた。
『先程の現象は、もはや偶然などと言える範疇を超えている』
『やはりそうか……』
ヤガミが低く呟く。
『二人の魔力は、明らかに互いの領域へと干渉し合っている』
『しかし、私にはどうしても理解できん』
エドワードは首を横に振った。
『魔力というものは本来、その者の魂と不可分に結びついている。他者の魔力とここまで完全に同調するなど、常識的に考えてあり得ない』
『でも、あの二人は現に起きている』
アーシェが不安そうに言った。
『ええ』
エドワードが重々しく頷く。
『まるで――』
そこで言葉を途切れさせる。
『まるで、最初から一つの魂だったかのように、な』
広間全体が、凍りついたような静寂に包まれた。
フランシスだけが、ただ静かに目を伏せていた。
『……それ』
沈黙を破るように、ヤガミが低い声で切り出す。
『何だ』
『昔さ』
フランシスは顔を上げ、どこか遠くを見るような目を向けた。
『似たようなことがあったよね』
ヤガミの表情が、一瞬だけ微かにこわばる。
『……何のことを言っている』
『とぼけないでよ』
フランシスは笑ったが、その笑みには耐え難いほどの悲しみが滲んでいた。
『僕たちの魔力も……あの最後の戦いの時、まさにそうだったじゃないか』
『……っ』
アーシェとエドワードが、ハッとして二人の顔を見比べる。
ヤガミは何も言わなかった。
すると、静かに控えていたエヴェンが、抑えた声で口を開いた。
『……まだ早い』
『エヴェン?』
『あの二人には、まだ何も知らせなくていい』
その言葉に、フランシスは再びゆっくりと目を伏せた。
『……そうだね』
『フランシス?』
『僕も同意見だ』
いつもの軽薄な響きは消え失せ、その声には底知れぬ重みがあった。
『まだ……知るべき時じゃない』
その瞬間、ヤガミがフランシスを見据えた。
フランシスもまた、彼女を見返す。
わずかな間の沈黙のなかで、四百年前の記憶の断片が二人の間に鮮やかに蘇る。
――血に染まった最後の戦場。
力尽きようとするヤガミの手を、必死に掴み取ったあの日のフランシス。
『……私の魔力を、すべてお前へ渡す』
『嫌だ、そんなの……』
『フランシス』
『僕は、君と一緒に行く。置いていかないでくれ』
『……駄目だ』
『君を一人になんて、絶対にしない……!』
あの時、ヤガミの魔力とフランシスの魔力は完全に混ざり合い、術式の限界を超えて、二人の魂そのものを一つに結びつけた。
『……』
フランシスは小さく息を吐き、目を閉じる。
そして、誰にも聞こえないほどの小さな声で呟いた。
『……今度は、絶対に失いたくないな』
その言葉は、静まり返った広間でヤガミの耳にしっかりと届いていた。
『……フランシス』
『ん?』
『……なんでもない』
ヤガミはそれ以上言葉を続けず、ただスッと目を伏せた。
* * *
翌朝。
――聖堂の火災は、学園中に知れ渡っていた。
幸い、御堂と教師たちの迅速な避難誘導のおかげで、生徒に怪我人は一人も出なかったという。
火災の原因は、老朽化した聖堂への落雷によるものと発表された。だが、昨夜の地響きと轟音を耳にしていた生徒は少なくなく、食堂のあちこちで、不安そうに囁き合う声が絶えなかった。
焼け落ちた聖堂の周囲は立ち入り禁止とされ、学園は表向き、いつも通りの朝を迎えていた。
* * *
「……眠い……」
食堂の椅子に座るなり、レインはテーブルに突っ伏してぐったりしていた。
「おい、お前、昨夜はよっぽど夜更かしでもしたのか?」
「してないよ……」
「では何故そんなに眠そうなんだ」
「……変な夢を見たんだよ」
夢うつつな声でレインが顔を上げる。
「すごく不思議な夢……」
「どんな夢だ」
「分からない。ただ、誰かがずっと僕の名前を呼んでいて……」
「誰が呼んでいたんだ?」
「それが……思い出せない」
レインは頭を抱えるように眉を寄せた。しかし、次の瞬間。
「でも……」
「?」
「夢の中で誰かが、『裏切り者』って言ってたんだ」
「……っ!」
その言葉を聞いた瞬間、遥香の表情がサッと変わった。
レインは自嘲気味に苦笑を浮かべる。
「はは、僕の祖先のことかなぁ……嫌な夢だよね」
「……」
遥香は言葉を失い、ただこぶしを握り締めた。
その時――。
『レイン』
背後からかけられた低い声に、二人はハッとして振り返る。
そこには、いつの間にか食堂の入口に立っていたヤガミの姿があった。
「……なんだよ、ヤガミ」
『昨夜、夢を見たのか』
「……うん」
『何を見た』
「……だから、誰かに『裏切り者』って呼ばれる夢だよ」
ヤガミはわずかに目を細め、押し黙った。
「ヤガミ? 何か知ってるのか?」
『……そうか』
「ぐらつかせるなよ。あなたは何か知ってるだろ!」
『……』
ヤガミは一切語ろうとしない。
「……嘘だ」
レインの声がわずかに低く、怒気を帯びる。
「あなたは、僕たちの血に隠された何かを知っているはずだ!」
『……』
相変わらず沈黙を貫くヤガミ。
その緊迫した空気を断ち切るように、ひょっこりと姿を現した者がいた。
『まあまあ、そんなに詰め寄らないでおくれよ、レイン!』
軽やかな笑みを浮かべて歩み寄ってきたのはフランシスだった。
『今はまだ――』
しかし。
フランシスに視線を向けた瞬間、レインの瞳を見た瞬間。
『……っ!』
フランシスの顔から、いつものふざけた笑みが完全に消え去った。
レインのまっすぐな蒼い瞳。
その眼差しと色合いを見た瞬間、フランシスの脳裏に、封印していたはずの四百年前の記憶が生々しく蘇る。
『アルフェン様……』
――自分がかつて、その口で親愛を込めて呼んでいた名前。
フランシスは息を呑み、思わずその場に立ちすくんだ。
「……フランシス?」
『……っ』
「どうかしたの? 顔色が悪いよ」
『……いや、何でもないさ』
フランシスは慌てて作り笑いを貼り付けた。
『ただ……君のその目が、昔の僕の知り合いにそっくりだなと思ってね』
「なんだそりゃ。変な例えだな」
レインが苦笑して肩をすくめる。
だが、フランシスから笑みが戻ることはなかった。
彼の瞳には、隠しきれない激しい動揺が渦巻いていた。
その日の放課後。
遥香とレインは、エドワードの研究室の扉を叩いていた。
『……では、もう一度魔力を解放してみてくれないか』
エドワードの促しに従い、二人はそれぞれの魔力を引き出す。
遥香の纏う禍々しくも美しい紅い魔力。
レインの放つ透き通るような蒼い魔力。
二つの力が空中で触れ合った瞬間――!
部屋中に配置されていた数々の魔道具が一斉に激しく反応した。
『……っ!』
測定器の針が振り切れ、ガタガタとけたたましい音を立てて振動し始める。
『これは……!』
エドワードはただ事ではないと察し、慌てて装置の出力を強制停止させた。
「どうしたの、エドワード」
『いまの数値……信じられない』
エドワードは慌てて眼鏡を押し上げ、計器の数字を凝視する。
『二人の魔力は、ただ単に足し算されているわけじゃない』
「というと……?」
『掛け合わされているんだ』
「掛け合わされている……?」
『そうだ。二人がこうして共鳴状態に入ると、単独で放つ時の何倍もの爆発的な魔力増幅が起きている』
『……っ』
遥香は思わず息を呑み込んだ。
「つまり……私達は、一緒にいる方が戦闘力的に有利だということか?」
『それだけではない』
エドワードの表情はますます険しさを増していた。
『問題は……君たちが離れた時です』
彼は青ざめた計器のグラフを指し示す。
『共鳴の反動か、君たちが離れた瞬間、互いの魔力回路が一時的に極度の不安定状態に陥る』
「……っ!」
レインの顔から、さっと血の気が引いた。
「離れたら……弱くなるってこと?」
『正確に言えば、魔力バランスを崩して自滅しかねない危険な状態になるということだね』
研究室に、重苦しい沈黙が落ちた。
遥香は隣に立つレインを見上げる。
レインもまた、不安そうな瞳で遥香を見返した。
「……困ったな」
レインは乾いた笑みをこぼす。
「これじゃあ、僕はますます遥香のそばから離れられなくなっちゃうね」
「……」
遥香は何も言い返すことができなかった。
だが、その胸の奥を覗いてみると、奇妙なことに恐れや焦りではなく、むしろ妙な安心感が広がっている自分に気づく。
レインがそばにいる。
ただそれだけで、自分の体内で暴れようとする力がスッと落ち着いていく。
そして――自分自身もまた、レインが自分の近くにいてくれることを強く望んでいるのだと、認めたくない本音が頭をもたげていた。
この胸のざわめきと結びつきは、果たして一体何なのだろうか。
遥香には、まだその答えを出すことができなかった。
* * *
その日の夜。
遥香は自室の窓辺に一人立ち、夜空にぽっかりと浮かぶ冷たい月を見上げていた。
「……母さん」
無意識に、熱を帯びた胸元へと手を当てる。
「あなたはいったい、私に何を残していったんだ……?」
もちろん、夜風の吹き抜ける部屋に返事などない。
だが、目を閉じた瞬間――脳裏にあの優しい、けれど切迫した母親の声が再び響いた。
『……遥香』
「っ……!」
『決して、その力を恐れてはならないわ』
「母さん……どこにいるんだ?」
『でも――』
声が次第に遠ざかっていく。
『決して、誰かにその力を……奪われてもいけない』
「待ってくれ!」
遥香は思わず手を伸ばした。しかし、残酷なまでにそこで声はプツリと途切れた。
「……っ」
静寂が部屋を支配する。
遥香は自分の胸元をぎゅっと強く握り締めた。
その時――。
コツコツ、と控えめなノックの音が響く。
「遥香」
「……レインか」
振り返ると、半開きになった扉の隙間からレインが顔を覗かせていた。
「どうした、こんな時間に」
「ううん、何となくさ……」
レインは照れくさそうにはにかむ。
「何となく、遥香の顔が見たくなってさ」
「……お前は本当に……」
ため息をつきつつも、遥香は窓辺のスペースを空けた。
レインは嬉しそうに歩み寄り、遥香の隣に並んで立つ。
二人で並んで夜空の月を眺めた。
その瞬間――!
遥香の胸元に刻まれた印と、レインの首筋に浮かび上がった印が、示し合わせたかのようにほんの一瞬、眩く同時に光を放った。
当事者である二人は、月の光に目を奪われていてその変化に気づかない。
だが――。
館から遥か離れた、漆黒の闇に包まれた森の奥。
『……ふむ』
闇に溶け込むように佇んでいたアルフェンが、夜空を見上げながら不敵な笑みを浮かべた。
その紅い瞳が、遠く離れた館の方角を正確に見据えている。
『……やはり、共鳴しているな』
アルフェンの細められた瞳に、狂おしいほどの歓喜の色が宿る。
『ならば――』
彼の白い掌の上で、禍々しい黒い魔力がドス黒く渦を巻き始める。
『まずは、その脆い片割れの方を壊せばいい』
狙いは遥香ではない。
レインでもない。
アルフェンが最初にターゲットとして定めたのは、他でもない――今まさに二人の間を結びつけている「絆」そのものだった。
『お前たちが互いを求め、必要とすればするほど……その繋がりは、私にとって最高の餌となる』
ククク、と静かな笑い声を立てながら、アルフェンが手を振ると、無数の黒い霧が夜空へと舞い上がっていった。
『……本当に、楽しみだ』
遥香とレイン。
二人の運命の歯車を狂わせる「共鳴」は、まだ始まったばかりに過ぎなかった。
次章、第五章 共鳴する二人




