第二章 始まりの夜会
屋敷一階、応接間。
遥香とレインは、一通り遥香の見た夢について話し合い、食事と風呂を済ませた後、ここで思い思いに、和んでいた。
遥香は椅子に深くもたれ掛かり、本を読む。
レインはヴァイオリンを奏でている。
しばらく本に浸っていた遥香だったが、本を閉じ、レインのヴァイオリンに耳を澄ませる。
……レインの奏でるヴァイオリンは、透き通るような、そしてどこか切なさを含ませた音色をしていた。
遥香は静かに目を伏せ、瞳を閉じた。
穏やかな時間が部屋中を満たす。
その部屋の中を、レインの奏でるヴァイオリンの音色が響く。
その時、不意に、レインのヴァイオリンが、ふつりと止まった。
遥香は目を開け、不思議そうにレインに問いかける。
「……どうした、レイン。何故止める?」
「始まったね。学校のミサが……」
レインの言葉に誘われるように、遥香も立ち上がり、隣に並んで窓の外へ視線を向けた。
二人の視線の先――深い森の向こうに聳え立つ、聖ルシエル教会附属学園の校舎。
どこからともなく、風に乗って歌声が流れてきた。神を讃える賛美歌。
よく見れば、遠く校舎の周囲にぽつぽつと小さな明かりが揺れていた。教師や生徒たちが手々に蝋燭を掲げ、隊列を組んでゆっくりと歩んでいるのだ。
そして彼等は歌う。
『主よ、我らを導き給え――』
『御国を来たらさせ給え――』
神を崇め、敬い、慈しむための無垢な歌声。
無数の小さな灯火が夜の静寂の中に揺らめき、幻想的な光景を作り出していた。
二人は無言でその光景を見つめていたが、やがて遥香がふいと顔を背け、窓から離れて再び椅子へと腰を下ろした。
それを目で追ったレインは、遥香に問いかけた。
「ミサ、綺麗なのに見ないの?」
「ああ。それに私は神など信じてはいないからな」
「そう?そのわりにはいつも一生懸命お祈りしてるよね」
「……うるさい」
「またまたぁ、遥香ってば可愛いィッ」
「か、可愛いって言うなと言っているだろうっ!!」
禁句を突かれ、遥香が鋭く睨みつける。
レインは目元を細め、どこか安心したように柔らかく微笑んだ。
「よかった」
「……え?」
「遥香があまりにも悲しい顔をしていたから、どうしようかと思ったんだ。だから、そうやっていつもみたいに怒ってくれて……安心したよ」
遥香は一瞬だけ目を丸くした。だがすぐに不機嫌そうな表情に取って代わると、ぷいと顔を背けて短く吐き捨てた。
「別に悲しんでなんかいない。余計な心配をするな」
それきり目を合わせようとしない遥香を見て、レインはクスクスと笑った。
「フフ、遥香ってばホンと分かりやすいなぁ。本当はボクにありがとう、って言いたいクセに」
「……うるさい」
レインは目を細め、笑う。
「違う。素直だからこそ、なかなか言えないんだね」
「だから、うるさい!」
レインがクスクス笑う。
和やかなやり取りが交わされていた、まさにその時――。
――コン、コン……。
不意に、洋館の重厚な玄関扉をノックする乾いた音が響いた。
二人は顔を見合わせ、ぴたりと動きを止めた。
「……」
「……」
静まり返る応接間。耳を澄ませていると、再び――コン、コン、と控えめなノック音が届く。
「聞き間違いじゃないみたいだね」
「……ああ」
短く言葉を交わした二人は、静かに応接間を出て、玄関ホールへと向かった。
重い玄関扉の前に立ち、レインが警戒を孕んだ声で呼びかけた。
「どなたですか?」
二人の声に応答があった。
「夜神遥香殿、ならびにレクセイン・D・アルファード殿。お話したいことがあります。扉を開けていただけますか?」
聞き覚えのある声だった。
遥香が重い木製扉を押し開けると、夜色の外套に身を包み、柔らかな笑みをたたえた青年の姿があった。
二人同時に叫んだ。
「「理事長……!?」」
* * *
「こんな夜分遅くに押しかけてしまい、申し訳ありませんね」
「いえ、大丈夫ですが……」
「……」
応接間に通された青年――学園の理事長と、二人。
しばらくはレインと理事長の間で他愛のない雑談が交わされていた。
遥香は腕を組み、黙ってそのやり取りを聞いていたが、一向に本題に入ろうとしない二人に痺れを切らし、冷ややかに口を挟んだ。
「いい加減にしてください、理事長。貴方は私たちに何か用があってわざわざお越しになったはずだ。早急に用件を述べていただきたい」
遥香の刺々しい言葉にも、青年は少しも崩れることなく穏やかに微笑んだ。
「ええ、もちろんですよ。用もないのにこんな時間に尋ねたりはしません。今日は貴方がたに、極めて重要な『お話』があって伺ったのです」
年の頃は三十代後半。
青みがかった黒髪を肩まで伸ばし、眼鏡の奥の瞳を柔和に細めた、端正な顔立ち。古典的な外套を優雅に着こなす姿は一見すれば穏やかな好青年に見える。
だが遥香は、どこか胡散臭さを拭いきれない視線で彼を一瞥した。
「ならば話は早い。雑談はやめて、本題に移りましょう」
「……そうですね。そろそろ本題を話してください、御堂理事長」
レインの表情も真剣なものへと変わる。
聖ルシエル教会附属学園理事長――御堂亞雲英は、さらに笑みを濃くして言った。
「……せっかちな方々ですね。久々の身内同士の会話も疎かにするなんて……」
眼鏡の奥の瞳が僅かに細められる。
「……急かされずとも言いますよ。もっとも。貴方がたに聞く勇気がお有りでしたら、ですが」
顔は穏やかに笑っているというのに、その奥にある瞳は全く笑っていなかった。
御堂の放つ異様なプレッシャーを感じ取り、遥香たちは事の重大さを悟った。一瞬だけ互いに視線を交わすと、すぐさま御堂に向き直る。
「話を聞くのに勇気など……」
「僕たちはいつでも聞く準備ができてるよ、理事長」
「さあ、理事長。話を聞かせてくれ」
二人をじっと見つめていた御堂は、ふっと肩をすくめて軽く笑った。
そして、机の上で組んだ手に静かに顎を乗せる。
その瞬間、これまでの穏やかな笑顔が嘘のように消え去り、そこには凄絶なまでの緊張感が宿っていた。
「分かりました」
低く重い声が、静まり返った部屋に落ちる。
「それではこれから、貴方がたに全ての事をお話致しましょう」
遥香とレインは息を殺し、御堂の口元を見つめる。
「これから起こる災悪と、貴方がたの全てを」
御堂は静かに瞼を閉じると、闇の奥底から手繰り寄せるように、ゆっくりと語り始めた――。
* * *
「中世ヨーロッパ――人々が暗黒の時代と呼んだ、血と狂気に塗られた時代のことです」
御堂は静かに語り始める。
「当時、ヨーロッパには“魔女”、あるいは“魔法使い”、“錬金術師”、“霊媒師”、“預言者”……そう呼ばれる人々が存在しました。彼らは人知を超えた不思議な力を持ち、病や傷を癒やし、神や精霊、死者の声に耳を傾け、悪霊を祓い、未来を予知することができたのです」
語り口は淡々としているが、その言葉一つひとつが部屋の空気を重く湿らせていく。
「当時の人々は彼らを頼り、敬愛しました。ですが……その裏で、同時に深く恐れてもいた。彼らの持つ、理解不能な力そのものをね」
御堂はそこで一旦言葉を区切ると、眼鏡の奥から遥香とレインの様子を伺った。
二人は無言のまま、目で先を促す。
御堂は小さく苦笑すると、再び口を開いた。
「“魔女狩り”って、お二人はご存知ですか?」
「それは――」
「ええ、もちろん知ってます」
遥香が答えようとした言葉を遮り、レインが低く冷めた声で言った。
遥香が隣を見ると、レインの表情は硬く結ばれ、触れられたくない傷口を開かれたかのような、静かな怒りがその瞳に満ちていた。
「僕の国でも起きましたから。権力者や教会は“魔女”と聞けば見境なく人を拷問にかけ、殺した……その異能ゆえに」
そこまで言うと、レインは重い沈黙の中に押し黙っ た。
御堂は彼をじっと見つめ、静かにうなずく。
「その通りです、レイン。当時の権力者たちは無数
の魔女を捕らえ、凄惨な拷問の果てに絶滅へと追い込みました。……ですが、実際には魔女はこの世から完全に消え去ったわけではありません。彼らは、自らの血を引く子どもを残していたのです」
「子どもたちは世界中へ散らばり、気配を消してひっそりと暮らしました。しかし……」
御堂の言葉が重く沈む。
「ただの人とは違うその“力”、体に刻まれた“印”、そして“瞳の色”ゆえに、人々から忌み嫌われ続けた。ゆえに生き残った魔女の末裔たちは……こう呼ばれたのです」
一拍の溜めののち、御堂は重々しく口を開いた。
「Satanic Children――。悪魔の、あるいは魔王の落とし子たち、と呼ばれました」
「……貴方がたこそが、“魔女”、そして“Satanic Children”なのです」
* * *
遥香は大きく目を見開き、ただ固まっていた。身体が小刻みに震える。
呼吸が荒くなり、胸の奥で鼓動が激しく警鐘を鳴らし始める。
全身の血液が、耳元で狂ったように脈打っていた。
――理解した。
自分が何者であるのかを。
なぜこれまで世界から拒絶され、忌み嫌われてきたのかを。
そして、己の体に宿る不吉な能力の理由を。
「……そうか……っ」
そうなのだ。やはり自分は、人間などではなかったのだ。
「ふっ……ふふ……はははははっ!」
静寂を切り裂き、遥香の口から悲痛な笑いが漏れ出した。
御堂とレインは、ただ黙ってその姿を見つめることしかできない。
レインには、遥香の胸を切り裂くような痛みが痛いほど理解できた。
だからこそ、自分だけは取り乱すまいと心を殺した。
遥香の笑いはあまりにも切なく、いまにも崩れ落ちて泣き出してしまいそうだったからだ。
(遥香の悲しみを受け止めたい――)
レインの胸の奥で、切実な想いが込み上げる。
遥香が泣くのなら、自分がその涙を拭おう。
遥香が絶望に落ちるなら、自分がその手を引こう。
遥香が喜ぶなら、自分も一緒に喜ぼう。
――遥香は、僕が守る。
いつしか心の中に芽生えていた確固たる誓い。
誰に命じられたわけでもない。けれど、確かな鎖となってレインの魂に深く深く巻き付いた覚悟。その誓いが、レインを驚くほど強くさせた。
レインにとって、遥香は世界のすべてだった。
遥香といるだけで心が安らぎ、偽りのない笑みがこぼれた。温かな光を感じることができた。
遥香は、何も持たなかった自分に「居場所」をくれたのだ。今までどこにも与えられることのなかった、自分のいるべき場所を。
だからこそ、守る。
安らぎをくれた遥香のために。自分を受け入れてくれた遥香のために。
何よりもかけがえのない、遥香のために――。
* * *
乾いた笑いを浮かべる遥香と、神妙な面持ちのレイン。
御堂は二人を交互に見やった後、小さく息を吐き出した。
「……お二人とも、ショックが大きいのは無理もありません。ですが……いつまでも落ち込んでいる暇はありませんよ。時間が……ないのです」
その言葉に反応するように、遥香の笑いがピタリと止まった。
二人の視線が集まる中、遥香は強引にいつもの冷静さを引き戻し、凛とした声で問いかける。
「御堂理事長……貴方が私たちにすべてを教える
『来訪者』だったのか」
「あ……そうか! あの夢は、このことだったんだ……!」
レインの言葉に、御堂は意外そうに目を見開いた。
「貴方がたは、私がここへ来ることを事前に知っていたのですか? レイン、君の言う『あの夢』とは一体……? 差し支えなければお聞かせ願いたい」
遥香が静かに引き継ぐ。
「まさか貴方がここへ来るとは思っていなかった。ただ……私が見た夢の中で、『近いうちに私たちの元へ来訪者が現れる』と……“奴ら”が言っていたのだ」
「“奴ら”……とは?」
「分からない。だが、いつも私に不可解な言葉を残していく……」
御堂の瞳がスッと細められた。これまでにないほど険しい声で追及する。
「……その言葉とは、なんです?」
遥香はゆっくりと口を開いた。
「――『今、我等ここに集まらん』」
そのフレーズを聞いた瞬間、御堂の眉がピクリと跳ねた。
「――『戦が始まろうとしている。時は近い。心せよ、偉大なる我らが末裔』……と」
遥香は息を吐き出し、言葉を区切る。
静寂の中、レインと御堂は固唾を呑んで聞き入って
いた。
「……それ以外には、何か言っていましたか?」
「ああ。まだ言っていた」
遥香の瞳に、かすかな揺らぎが走る。
「――『我らが末裔よ。受け継ぎし呪われし血を解放し、世界を救え』……とな」
――スッ。
御堂がゆっくりと椅子から立ち上がった。
驚愕と感嘆の入り混じった眼差しで二人を見つめ、やがて静かに再び腰を下ろした。
「貴方がたが、既にそこまでの予知領域に達していたとは……驚きです。どうやら私がわざわざ出向く必要すら、なかったようですね」
一人納得したように語る御堂に、遥香は眉をひそめた。
「どういう意味だ?説明してもらいたい」
御堂は静かに微笑む。
「貴方は『夢』によって、ここへ来訪者が訪れることを事前に知っていた。ここまでは理解できますね?」
遥香とレインがうなずく。それを見届けて、御堂は言葉を継いだ。
「貴方がたの夢に現れ、言葉を残した存在……それこそが、他ならぬ彼らなのですよ」
御堂はどこか呆れたような、それでいて深い敬意を込めた溜息を漏らすと、再び立ち上がり、両腕を大きく広げて朗々と詩節を唱え始めた。
「――我が名の下に、その封印を解き、実体を与えん! 姿を顕現したまえ――Apparete!!」
次の瞬間――。
まるで部屋の中に雷が落ちたかのような激しい衝撃とともに、眩い光の柱が突き立った。一瞬にして視界を埋め尽くす閃光に、遥香とレインはとっさに腕で顔を覆う。
「っ……!?」
「くっ……眩しいっ……!」
『——我らを呼んだか?』
重厚で、あまりにも耳に馴染んだ声。
(この声は……まさか夢の中の……!?)
遥香がその声の主を悟った瞬間、室内を埋め尽くしていた光がサーッと引いていった。
ゆっくりと覆っていた腕を下ろした二人の目の前――。
そこには、古風で洗練された衣に身を包んだ、異国風の男女たちが静かに佇んでいた。
次章、第三章 魔女の覚醒




