第9話 今日は何も望まぬのか
「監査室が来る」
朝いちばんの石段を、トバイアスは二段飛ばしで上ってきた。三十年勤めた顔から血の気が引いていた。
「監査って、来るものなんですか」
「来ない。来ないんだ、普通は。書類は向こうから読める。それなのに来るというのは、書類の外に確かめたいことがあるということだ」
「たとえば」
「たとえば、書類を書いてる人間の顔だ」
リゼアは自分の顔を触った。規程内の顔である。少なくとも、そのつもりの顔である。
「いいか、何も隠すな」トバイアスは石段を上り切って、息を整えながら言った。「隠すな。取り繕うな。監査室相手に隠し事をすると、隠したという事実のほうが様式に載る」
「隠すようなこと、ありましたっけ」
「家が回って、雨が消えて、あんたは空を飛んだ」
「全部書類にしてあります」
「そうだ。全部書類にしてある」トバイアスは遠い目をした。「書類にしてあるってことが、たまにいちばん怖い」
*
監査官は昼前に着いた。小柄な中年の女性で、名乗りは姓だけだった。ヴォス。神殿局監査室主任。挨拶は正確で無駄がなく、体温がなかった。石段を上る足取りは一定で、リゼアは後で聖堂の窓から確かめて、この人は段を数えて上っていたのだと気づくことになる。
書類鞄が美しかった。留め具の位置、綴りの角の揃い、しおり紐の色分け。開いた瞬間、リゼアの内側の職業的な部分が、敵味方の判定より先に敬意を表明した。
(この鞄はいい鞄だ。中身の様式が外形になってる。人間、鞄はこうでないと──いや、感心してる場合じゃない。この人はわたしを見に来た人)
質問は様式の欄の順番どおりに進んだ。発生日時、範囲、継続時間、復旧措置、原因、所見。ヴォスは質問を飛ばさず、戻らず、重ねなかった。日誌の綴りをめくる速度も一定だった。
昼を挟んだ。ヴォスは持参の包みから、切り分けたパンと乾酪を出して食べた。出す順、食べる順、包み直す順が決まっていた。リゼアは茶を出した。ヴォスは一礼して受け取り、飲み、何も言わなかった。感想のない飲み方だった。神と正反対である、と思ってから、比較の基準が神になっている自分に気づいた。
一箇所だけ、止まった。
着任五日目の日誌。所感の欄。二重線で消された一行の上でヴォスの指が止まり、三秒静止し、次の頁へ進んだ。何も言わなかった。リゼアも何も言わなかった。言わない同士の三秒は、聖堂の長い沈黙とは別の種類で、リゼアの背中を薄く冷やした。
条約関連の綴りでは、起草時の語彙削除の一覧に時間を使った。恒久。永遠。精神。御加護。ヴォスは一覧を最後まで読み、初めて質問ではない言葉を発した。
「美しい削除です」
「……恐れ入ります」
「削られた語の一覧は、その統制官の思想です。あなたの一覧には迷いがない」
褒められているのか測られているのか、判定できなかった。
飛行の件の綴りでは、ヴォスは空中昼食の項を一定の速度で読んだ。地面から拳ひとつの高さ、隙間があります、の記述の上でも指は止まらなかった。止まらないことが、逆に恐ろしかった。この人の中では、巫女が宙に浮いて昼食を取ることと、雨漏りの桶の位置は、同じ書体で綴じられている。
「一点、確認します」帳面から顔も上げずにヴォスは言った。「様式第三号の二、新設欄の名称は『巫女の私的祈願』。この欄への記入は、今後も継続する見込みですか」
「……職務の範囲では、統制を継続します」
「質問の答えになっていません」
「継続する見込みです」
「結構」
結構、が何に対して結構なのか、様式のどこにも書いていなかった。
*
視察の最後にヴォスは聖堂へ入った。祭壇の前で完璧な旧式の礼をとり、許可を得て神へ直接質問した。
「御神に伺います。当巫女の統制に、不服はおありですか」
「ない」
「制止をお受けになった回数は、記録上十四回です。相違ありませんか」
「十六回だ」
リゼアは横で小さくむせた。二回、様式に載っていない制止がある。「その顔やめて」の件と、言いかけて記憶から抹消していたもう一件である。ヴォスは表情を変えずに帳面へ数字を書き入れた。神は嘘をつく必要を感じない。分かっていたことだった。分かっていたことだったが。
「もう一点」ヴォスは帳面をめくらずに言った。暗記している、ということである。「着任五日目の受付にて、実行方法の候補提示を請求。規程第七条。同条の行使は記録上、過去四百年で三例です」
「……そうなんですか」
「三例のうち二例は、行使した神官が事後に転属を願い出ています」
「三例目は」
「あなたです」
ヴォスの声にはどの欄の感情も載っていなかった。
「以上です」ヴォスは帳面を閉じた。「良い統制を見ました」
「……あの。これは何の判定なんでしょう」
「判定ではありません。観察です」ヴォスは鞄の留め具を音もなく留めた。「観察とは、まだ判定していない、という意味です」
そして帰っていった。石段を、来た時と同じ速度で。
*
夕方の聖堂は静かだった。リゼアは文机を片づけ、終業の式文を唱え、階段の二段目に座った。今日は視察対応で一日が消えた。茶も淹れそこねた。手帳の本日の欄には業務しかない。
神がこちらを見ていた。
「なに」
「今日は、何も望まぬのか」
「今日は別に」
「昨日は七つあった」
「数えてるんだ……」リゼアは手帳を閉じた。「今日は監査の日だったの。さすがに自重します」
「じちょう」
「自分で重しを乗せること。わたしにもできるんです、一応」
神は炎の方を向いた。何も言わない横顔が、何か言っていた。
「何、その不満そうな顔」
「不満ではない」
明らかに不満だった。
「あなた、わたしが願うの待ってるでしょう」
「……待っていない」
「今の間は」
「間ではない」
「間だったよ。願いに聞こえても待つ人が、願いがないと待てないんだ」
「……語の使い方が不正確だ」
「どこが」
神は答えなかった。答えられない時のこの神は、いつも炎を見る。燭台の炎は今夜も規定の数だけ揺れていて、五百年ぶんの沈黙の置き場所としてちょうどよい明るさをしていた。リゼアは階段の二段目で膝を抱え、その横顔をしばらく眺めた。五百年、願われることだけをしてきた神が、願われない一日を持て余している。この観測結果を手帳のどの欄に書くべきか、彼女はもう考えないことにした。
「じゃあ、逆にさ、コトホギヌス」
思いつきで言った。
「あなたは? 何か叶えてほしいこと、ある?」
神が止まった。炎が二度揺れるあいだ、完全に止まっていた。それから、ゆっくりとこちらを向いた。
「……検討する」
「検討に何日かかるの」
「五百年待て」
「長いよ!!」
「では急ぐ」神は真顔だった。「四百年」
「値切り方!!」
聖堂にリゼアの声だけが響いた。神は炎に向き直っている。その横顔は平常どおりで、ただ、祭壇の燭台がひとつ、いつのまにか指二本ぶんずれていた。あとで直しておこうとリゼアは思い、思ってから気づいた。この神が、燭台のずれを放置している。着任の日に一晩で全部直した神が、である。
手帳を開き、書かない欄の隣の、まだ名前のない欄に書いた。
──検討中。多分、お互いに。
*
同じ夜、麓の神殿局。窓のない部屋。ヴォスは観察記録の二冊目を開き、本日の視察の頁を整え、最後に一行だけ書き足して綴じた。
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