第10話 これは感想か
石段の十一段目から、聖堂の屋根の向こうに海が一筋だけ見える。リゼアは毎朝そこで三秒だけ足を止める。誰にも言ったことのない、勤務前の私的な儀式である。今朝の海は晴れて、遠くて、一筋のくせに光っていた。
「海、見たいな」
口から出た。出てから、しまった、と思った。ここは丘の中腹、聖堂の扉まで残り二十段。可聴域か域外か、微妙な距離である。リゼアは三秒待った。雲は消えなかった。丘も動かなかった。海が玄関先まで来たりもしなかった。
(……セーフ)
セーフの根拠はなかった。域外だったのか。拾われなかったのか。それとも──リゼアは無意識に事故報告の様式を頭の中で開きかけ、発生していない事故の報告書を閉じた。職業病である。
聖堂に入る。神は祭壇の前にいた。いつもの位置、いつもの姿勢。リゼアが文机を出しかけたところで神が言った。
「……これは感想か」
手が止まった。
「聞こえてたんだ」
「うん、で答えよ」
「うん」
「そうか」
それだけだった。神は祭壇へ向き直り、リゼアは文机を出し終え、聖堂には通常の朝が流れ始めた。流れ始めた通常の底で、リゼアはひとり静かに騒然としていた。
(聞こえていた。願いに聞こえる形で届いていた。あの「海、見たいな」は、雨を消した日の「雨、嫌だな」と同じ形のはず。なのにこの神は──拾わずに持って確かめた)
五百年の事故録を持つ神が、である。冬を消し、湖を消し、雨を消してきた権能が、今朝は一筋の海の前で、訊く、を選んだ。手帳を開きかけて、やめた。これは書かない欄の件だ。
「ねえ、コトホギヌス」
代わりに、口が言った。
「感想なんだけど、願いにもしたい。海。ちゃんと書面で出すから」
「うむ」
「見たいのは上からじゃなくて──底」
神がこちらを向いた。
「海の、底」
「深いぞ」
「知ってる。だから見たいの」
*
願文は三晩で書けた。提出の書類仕事で麓へ下りると、トバイアスが受付で綴りを確かめ、二度読み、顔を上げた。
「今度は海」
「底です」
「底!?」
「浮上保証は第八項に。溺水対処は第二十二項です」
「対処の欄」トバイアスは綴りに目を落とした。「また『神』と書いてある」
「実績があります」
「実績があるのがどうかしてるんだ」
新設欄の二件目はこうして受理された。受理印を捺すトバイアスの手つきは、諦めというより、雪の日に雪かきをする人のそれだった。降るものは降る。飛行の時より早い。前例があると様式は加速する。
呼吸および発声・聴取の保証、水圧の無効、水温の維持、視界の確保、浮上の保証。期限は非番日の、日の出から日没まで。日没の定義、太陽の中心が稜線に重なった瞬間(神基準)。前回第二十四項の教訓により、途中浮上は終了と読まない旨を明記。落下ならぬ溺水時の対処、前回第二十二項に同じ。対処:神。
読み上げの日、聖堂で神は全項を聞き、一箇所だけ確認した。
「第三十一項。『途中の浮上は終了と読まない』」
「第二十四項の教訓です。もう空中で昼食は取りません」
「あれは観測として有益だった」
「どの欄の感想なの、それ。今回もいる、ってことでいいの」
「行く」
「あなたも見たいんだ、海の底」
「監視だ」
「統制はわたしの仕事だけど」
「では観測だ」
観測、が便利な言葉になりつつあった。お互いに。
*
降下はゆっくりだった。速くもできる、と神は言ったが、リゼアが断った。速いと観測が追いつかない。
水面を割った瞬間の、世界の音の切り替わり。浅瀬の光の網が肌の上を流れる速さ。深さ十尋のあたりで魚の群れに包まれ、群れが一斉に反転した時は銀の壁が視界ごと裏返った。リゼアは全部を数え、全部を覚えながら、記憶の器の容量を初めて本気で恨んだ。
海の底は、青の終わる場所だった。
降りるほど青は濃く、重く、静かになって、やがて色というより濃度になった。リゼアは砂の上に立った。祭服の裾が水の中でゆっくり開いて、髪が重さを忘れて、吐いた息だけが律儀に上へ帰っていく。
(静か)
(静か!! 音がないんじゃない、音の届く距離が短いんだ、世界が狭くて濃い!! 水圧無効化してるのに「深さ」は感じる、これ何の感覚? 皮膚じゃない、多分頭が勝手に換算してる──記録したい、手帳、手帳は)
手帳は浜にある。
出発前の最終確認で気づいたのだ。三十一項も書いて、防水の条項がない。濡れた手帳は乾かせても、滲んだ字は帰ってこない。手帳は浜の、畳んだ外套の上に置いてきた。わかっているはずなのに、手はもう三度、懐を探っていた。三度とも空を掴んだ。リゼアは声にならない声で呻き、記憶に刻む方式へ切り替えた。興が乗った記憶は字と同じで精度が上がる。しかし、悔しさは別勘定である。
横に神が立っていた。
海底に祭服のまま、丘の聖堂と寸分違わぬ姿勢で。魚が一匹、神の前で止まり、しばらく観察して去った。鳶と同じ反応だった。世界の先住民たちは、この神を風景として処理するらしい。
発光する小さな生き物の群れが流れてきて、二人のあいだを抜けた。青い点の川だった。リゼアは目で追い、追いきれず笑った。水の中の笑いは音にならず、泡になって上っていった。神はその泡をずっと目で追っていた。
「暗いほうへ行きたい」
水の中でも言葉は届いた。
「光が終わる場所を見たい。願文の範囲、深度をもう一段。口頭で修正申請します」
「口頭か」
「書面は濡れるので」
神は三秒黙った。この三秒が検討なのか呆れなのかは、五百年の記録だけが知っている。
「──受理する。深度、次の一段まで。ただし帰投後、修正内容を書面に起こして綴じよ」
「あなたが様式の話するの!?」
「お前が作った様式だ」
正論が水圧より重かった。リゼアは水中で一礼し、修正第一号の口頭申請者にして書面化義務の第一号となった。
沈んだ。青が濃度になり、濃度が闇になり、闇の中に生き物の光だけが残った。点、線、輪。呼吸のように明滅する誰かの輪郭。ここはもう、見るという行為が光の配給制になっている場所だった。リゼアは自分の指先が見えないことを確かめ、見えない指で、浜に置いてきた手帳の形をなぞった。
(前例を作った。口頭修正。通ってしまった。通ったものは、いつか様式になる。様式になったものは、いつか、わたしじゃない誰かも使う)
(──それは、あとで考える。今は配給された光を全部見る)
闇の中で隣の気配が言った。
「よく笑う」
「見えてないでしょ、今」
「泡で分かる」
帰り道──というものは、なかった。浮上保証の第八項が執行され、闇から濃度へ、濃度から青へ、青から光の網へ、来た道を全部逆再生して、二人は出発の浜に乾いたまま立っていた。畳んだ外套の上で、手帳が主を待っていた。祭服から一滴も落ちなかった。潮の匂いだけが髪に残った。可逆性の条項はよく仕事をした。匂いを残したのが手抜かりか温情かは、条文からは読めなかった。
*
夕方の聖堂で、リゼアは階段の二段目に座った。今日の記憶を、忘れないうちに手帳へ移す。字は、海の底を思い出すたびに良くなった。三頁書いてペンを置いて、ふと顔を上げた。
「あの朝の『そうか』だけど」と訊いた。「あれ、どういう『そうか』?」
「分類は保留している」
「またそれだ」
「保留の棚は広い」
「広くしたんでしょ、最近」
神は答えなかった。答えない横顔の向こうで、今朝までひとつだった祭壇の燭台のずれが、ふたつになっていた。リゼアは気づいて、直さず、手帳のいつもの欄に業務を書き、書かない欄はいつもどおり空けておいた。この聖堂の夕方は最近すこし長い。
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