第11話 破れない契約
麓の神殿局が混んでいた。受付の廊下に列ができている。列の中身は農夫でも病人でもなく、身なりのいい商人と、その代理人と、書記を連れた小役人だった。トバイアスは受付台の向こうで、書類の山に半分埋まっていた。
「何があったんです」
「条約だ」トバイアスは山の向こうから言った。「破れない条約の噂が商圏を三つ越えた。それでこうなった」
彼は山の一番上から三通抜いて寄越した。
一通目。西街道の穀物商。納品契約が期日どおり履行されますように。三点留め、完璧。期限、対象、方法の上限、全部ある。
二通目。貸金業者。借り主の返済の誓いが守られますように。これも書式は完璧だった。欄外に小さく、代書の署名がある。
「──代書屋?」
「出た。三点留めを勉強した代書屋が、街道沿いに三軒。看板を見たか」
見た。丘を下りる途中の辻に、真新しい看板があった。「願文起草承ります・言祝ぎ様式対応・三点留め保証」。リゼアは通りすがりに三秒で読み、期限条項の書き方に感心し、感心した自分に落ち込んだ。技術は正しく美しく、用途だけが間違っている。
三通目。どこかの荘園主。小作人一同との誓約が末永く守られますように。
「共同祈願の様式です、これ」
「そうだ。条約と同じ形だ。荘園主と小作人が『合意』して、『共同で願う』。書式の上では、東西の講和と区別がつかない」
ついでに、山の中程から四通目が滑り落ちてきた。息子の結婚相手に生涯の貞節を誓わせたい、という誰かの母親の申請だった。リゼアは無言で読み、無言で戻した。世界を書き換えられる権能の使い途として、人類は着実に最悪の方向へ創意工夫している。
リゼアは三通目をもう一度読んだ。末永く。曖昧語が残っている。査読なら差し戻せる。だが差し戻せば、次は完璧な書式で来る。書式の問題ではないのだ、これは。
「断りたい。断る根拠が要る」トバイアスは言った。「規程のどこにもない。あんたが条約でやったことと、この山と、何が違うのか──おれには、違う気がする以上のことが言えん」
*
「違いはある」
聖堂で、神は即答した。
「では訊くけど、コトホギヌス。たとえばあの荘園主の共同祈願。小作人たちが祭壇の前で、言わされた言葉を読み上げたら、あなたはどうするの」
「言祝がない」
「できないの? しないの?」
「できない」神は祭壇の燭台を見たまま言った。「願いには輪郭がある。自分の望みの形をした言葉だけが、願いの形で届く。強いられた言葉は形が死んでいる。死んだ形は言祝ぎの対象にならない」
リゼアは階段の二段目でゆっくりと息を吐いた。
(形が死んでいる)
(つまりこの権能は最初から、強要を弾く仕様だった。五百年、誰もそれを条文にしてこなかっただけで)
「……過去にあったの? 強いられた言葉が、ここまで来たこと」
「三百年前に一度」神の声は変わらなかった。「読み上げた者は泣いていた。言葉は死んだ形で届いた。泣き声は願いの形をしていなかった。どちらも言祝げなかった」
「それで」
「読み上げが終わり、連れて来た者が成就を待ち、成就は起きず、二人は帰った。それだけだ」
それだけだ、と言う声で、それだけではなかったことが分かった。
「じゃあ、逆に訊く。飢えてる小作人が、パンのために本心から『受け入れます』って願ったら」
「届く。生きた形で」
「……それが公正かどうかは」
「分からない」神の声に、迷いはなかった。「私に分かるのは、それが本人の願いかどうかだけだ。願いの中身がその者を損なうかどうかは、形には出ない。飢えた者の願いは、しばしば本物だ」
リゼアは階段の二段目で、今度は長く黙った。
(万能の防壁じゃ、ない)
(弾けるのは露骨な強要だけ。困窮が絞り出した「本心」は、生きた形で届いてしまう。構造は弾けない。構造を弾くのは──人間の仕事だ)
「それ、なんで今まで誰にも言わなかったの」
「訊かれなかった」
「訊けば答える?」
「私はそう言い続けている」
*
基準の起草に六日かかった。
最初の二日は失敗した。「悪用を禁ずる」型の条文は、悪用の定義で沼に沈む。誰にとっての悪か。誰が判定するか。三日目の夜、リゼアは発想を裏返した。禁止で守るのではない。語義で守る。この権能の名前は言祝ぎである。祝えないものは最初から対象ではない。
言祝ぎ祈願の受理基準、全九条。第一条、言祝ぎの対象は祈願者自身の望みであること。第二条、願いが本人のものとして生きて届いていること。この判定に限り、御神の知覚(願いの輪郭)を最終とすること。第三条、一方の不利益の恒久的固定を目的とする祈願は、言祝ぎの語義に反するものとして受理しないこと。第四条、共同祈願にあっては、合意の背景にある強制、従属、債務、その他の力の不均衡の有無を、局の審査官が人間の目で審査すること。御神の知覚はこの審査を代行しないこと──。
第四条の末尾の一文は三度書き直した。神に委ねていいのは「願いが本人のものか」まで。公正の判定まで神に外注したら、人間は考えることをやめる。それは多分、冬が消えるよりゆっくりで、悪い。
第三条を書いた夜、リゼアはペンを止めて、自分の書いた一行を長いこと見ていた。
言祝ぎとは、祝う言葉である。誰かを縛るために祝う者はいない。語義そのものが防壁になる。理屈としてこれ以上のものはない。美しくすらある。
(そして、この基準を書いているのはわたしだ。審査基準第二条、判定は御神の知覚を最終とする。つまり最終判定者は彼で、彼に判定を求める手続きを握るのは統制官で、統制官はわたしで、基準を書いたのもわたし)
(この国で何が「破れなく」なれるか。誰の契約が神前に届き、誰のが届かないか。それを決める文章をいま、丘の上の官舎で、巫女がひとりで書いている)
字が良くなっていた。
リゼアはペンを置き、手を見た。興が乗っている。国家間条約の夜と同じだった。止めるための文章を書いているのに、もっと書きたい。豊穣神の声が遠くで聞こえた気がした。あんたたち二人が発明したものは、戦争を終わらせる道具にも、次の戦争の理由にもなる。
(分かってますよ。分かってて楽しいんです。それがわたしのいちばん悪いところ)
書き上げた基準は、翌朝、麓へ送った。局は三日で承認した。速すぎる承認だった。断る根拠を局の全員が欲しがっていたのである。代書屋の看板は半月で二枚に減り、貸金業者の列は消え、荘園主の申請は第四条の人間審査で差し戻された。差し戻しの文面はトバイアスが書いた。荘園主は代理人を立てて抗議に来たが、トバイアスは第四条を読み上げ、「では審査のため、小作人の皆様おひとりずつの生活状況と債務の聴取を行いますので、全員ぶんの日程と帳簿を」と返した。代理人は日程も帳簿も持たずに帰り、二度と来なかった。トバイアスはその夜、三十年ぶりに晩酌を二杯にしたという。
*
「ところで聞いた。私は忙しいらしいな」
夕方の聖堂で神が言った。リゼアは茶を注ぐ手を止めずに答えた。
「あなたは暇です。忙しかったのはわたしと麓」
「列が消えたと聞いた」
「基準で断れるようになったので」
「私の権能の話を私に訊かずに条文にしたのか」
「訊いたでしょ、輪郭の話」
「あれは第二条だ。第三条は訊かれていない」
読んでる。全九条を、この神は読んでいる。リゼアはカップを渡しながら、少し考えて正直に言った。
「第三条はあなたの権能の仕様じゃなくて、言祝ぎって言葉の意味から書いた。……間違ってた?」
神はカップを受け取り、一口飲み、いつもの長さの検討をした。
「──正しい」と、神は言った。「五百年で、私の名の意味を条文にした人間はお前が初めてだ」
「神号でしょ。名前はまだ聞いてない」
「まだ、と言ったか」
「言ってない」
言った。二人ともそれ以上は触れず、茶は二杯目に進み、燭台のずれは今夜も直されなかった。
*
数日後。麓の神殿局、窓のない部屋。受理基準全九条の写しが、観察記録の二冊目に綴じられた。欄外に、ヴォスの字で小さく二行だけ書き込まれた。
──起草:巫女。承認:局。
二行のあいだの空白が、どの様式の欄よりも広く見えた。
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