第12話 魔法の傘
雨の日は、二度目だった。
正確には着任から十一度目だが、聖堂で神と二人で雨音を聞く雨としては二度目である。一度目は世界から雨が消えた。あの日の教訓により、雨漏りの位置には朝のうちから桶が置いてある。備えは完璧だった。完璧だったのに、雨漏りのほうが位置を変えた。屋根というものは、こちらの成長に合わせて成長する。
リゼアは新しい雨漏りに二つ目の桶を置き、袖を絞り、文机に戻った。今日の書類は月次の集計で、ひとたびインクが滲むと三行書き直しになる種類のものだった。
「雨を、止めてもよいか」
神が言った。リゼアは顔を上げた。祭壇の前の神はいつもの姿勢のまま、こちらを見ている。
(訊いた。消さずに、拾わずに、先に訊いた。「これは感想か」の次の段階。確認から提案に進んでる)
観測としては大進歩であるが、回答は決まっていた。
「農家が困るからだめ」
「では、お前の上だけ止める」
「それもちょっと怖い」
「怖い」神は復唱した。「安全は保証する」
「安全の話じゃないの。わたしの頭上だけ雨が避ける聖堂って絵面が。トバイアスさんが見たら様式が一枚増える」
神は黙った。黙って考えていた。長い検討だった。焼き菓子の三倍、「よく笑う」の二倍。リゼアは書類に戻り、三行書き、また滲ませ、四行目でそれが来た。
雨音の中に別の音が加わった。こつ、と床を突く音。
見ると、神の手に傘があった。傘、と呼ぶべきなのだと思う。骨は銀色で、張りは夜明け前の空の色をしていて、完全な半球で、持ち手は祭具の意匠だった。神はそれを開き、検分し、リゼアの文机の横まで歩いてきて掲げた。
雨漏りの真下である。
「……傘」
「傘だ」
「聖堂の中で」
「雨漏りは雨だ。お前の上にだけ、降らなくなった」
理屈は通っていた。雨は世界のもので、農家のもので、消してはいけない。だが雨漏りの一筋がリゼアの書類に届くかどうかは、世界と無関係である。世界を消す代わりに、傘を差す。五百年の権能が長考の末にたどり着いた解が、傘。
突っ伏す前に、統制官の部分が先に起動した。
「──待って。今の傘、わたし、願ってないよね」
「願われていない」
「じゃあこれ、どうやって出したの。権能は願いが要るはずでしょ」
「権能ではない」神は傘の張りを見上げた。「これは、もとから私のものだ」
「どこにあったの」
「私の側に」
リゼアは傘の骨を見た。銀の骨は本物の銀で、張りは本物の布だった。五秒前まで、人の世界のどこにも存在していなかった。「神学院が聞いたら学会が三日止まるんだけど」
「では言うな」
「言わないけど、コトホギヌス! 記録はしていい?」
「するだろう、どうせ」
観測記録がまた一頁増えた。願いを介さず、神自身の意志で、人間のために行った動作。その第一号が、雨漏り対策の傘。燭台を直すのとは話が違う。あれは自分の祭壇の話である。リゼアは笑いを噛み、噛みきれず、書類に突っ伏した。
「なぜ笑う」
「ごめ、だって、あなた──世界でいちばん大きい力で、世界でいちばん小さい解を出した」
「規模の指定はなかった」
「なかったね。うん。なかった」
顔を上げると、傘はまだそこにあった。夜明け前の色の内側から見上げる聖堂の天井は、いつもより暗く、狭く、そして妙に落ち着いた。雨漏りの雫が張りを打って、こつ、こつ、と鳴る。桶より、いい音がした。
*
夕方、雨は止まなかった。終業の式文を唱え、外套を着て扉を開けると、雨脚は朝より太くなっていた。官舎まで、丘の中腹を下りて数分。走れば濡れる。歩けばもっと濡れる。
「送る」
背後で、神が言った。振り向くと、傘を差した神が立っていた。
「……送る?」
「傘とは、そのように使うものだと観測している」
「あなた、濡れないでしょ」
「濡れない」
「じゃあ傘、要らないでしょ」
「私にはな」
理屈が、また通ってしまった。リゼアは口を開け、閉じ、傘の下の空いている側を見た。傘は大きい。二人ぶんある。最初から二人ぶんの大きさで作られていたということに、今、気づいた。
石段を下りた。
「明日も雨?」
「観測では、否」
「そっか。晴れか」
「……残念か」
「なんで!?」
「雨の日の書類は三行ずつ滲む。お前はそれを厭う。だが今日のお前は、平常より」神はそこで、語を選ぶ間を置いた。「──楽しそうに見えた。観測との差異を確認した」
「観測、精度上げるのやめてくれる?」
「観測は私の仕事ではない」と神は言った。「仕事ではないものが最近多い」
それはこちらの台詞でもあったので、リゼアは黙った。
傘の内側で、雨音は屋根の音になった。神の歩幅は正確で、傘の中心は正確にリゼアの上にあった。つまり神の肩は、半分、傘の外にあった。濡れない存在の肩に雨が当たって、当たった雨が、濡らせないまま流れていく。それを横目で三回確かめて、リゼアは三回とも何も言わなかった。
(頬が熱いのは)
(──湿度)
(湿度、で……)
処理が通らなかった。
着任から今日まで、彼女の内部監査はあらゆる案件を「湿度」「高度」「日差し」で決裁してきた。甘い監査だった。甘さには定評があった。その監査が、今日、初めて差し戻しを出した。理由欄にはこうあるはずだった。──雨の日に湿度で通すのは、さすがに様式の濫用にあたる。
(じゃあこれ、何て書けば)
隣を見上げた。神は前を向いていた。夜明け前の色の下で、その横顔は五百年ぶんいつもどおりで、いつもどおりのくせに、傘の柄を握る手の位置だけが、教本の持ち方より少し、こちら寄りだった。
リゼアは前に向き直った。官舎までの数分が今日は妙に短かった。短い、という感想が発生した。道の長さは不変である。不変であることは統制官が誰より知っている。知っているのに、短い。
この矛盾を手帳のどの欄にも書かないことを、玄関の前で決めた。
官舎の玄関の前で二人は止まった。雨は止んでいなかった。傘の下は止んでいた。この差を数分ぶん歩いてきて、リゼアは今、傘を出るという工程の重さを、生まれて初めて計量していた。
「着いた」と神が言った。
「着いちゃった」と口が言った。
言ってから、しまった、と思った。神は「ちゃった」の解析に入った顔をしていた。解析される前に、リゼアは礼を言って、玄関に入って、扉を閉めた。閉めた扉に背中をつけて、しばらく立っていた。
雨音が、遠くなっていた。
*
翌朝は晴れた。
玄関を出ると、傘が立っていた。閉じて、壁に寄せて、行儀よく。夜明け前の色は畳まれてもきれいで、祭具の持ち手が朝日を受けていた。神は持ち帰らなかったらしい。「私にはな」と言った傘が、こちらに残っている。
リゼアはそれを持ち上げ、重さがほとんどないことを確かめた。晴れた空の下で開いてみると、夜明け前の色は朝日を透かして、内側に薄い群青の空をもう一枚作った。傘の中にだけ、昨日の続きの空がある。三秒眺めて、閉じた。
しばらく考えて、手帳を出した。備品の欄に書いた。
──傘(神具)、一。貸与者:言祝ぎの御神。保管場所:官舎。返却方法:未定。
未定の二文字は、われながら正直だった。返しに行けば済むのに、未定。内部監査は差し戻しの山を抱えたまま、今日も開庁した。
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