第13話 なぜ望みを小さくする
その夜は、月が大きかった。終業後の聖堂の扉を開けたまま、リゼアは階段の二段目に座って丘の上の月を見ていた。茶は二杯目、菓子は残り一つ。神は祭壇の前で、いつもの姿勢で同じ月を見ている。
「空を飛びたいと言った」
不意に神が言った。
「叶えた。海の底を見たいと言った。叶えた」
「実績の確認? 監査対策なら書類はもう」
「月は」
リゼアはカップを持ったまま止まった。
「月は、と訊いている。目録の次はあれであろう。お前は今夜、三度あれを見た」
「……行ける?」
「行ける」
「……本当に?」
言ってから、自分の声の小ささに自分で気づいた。神が祭壇を離れ、階段の上からこちらを見下ろした。
「なぜ望みを小さくする」
夜の聖堂に、その問いは長く残った。
(──今、わたし、小さくした。欲望にブレーキがないはずの口が、月の前で一回怯んだ。「行ける」と言われて「本当に」と訊き返した。世間の言い方に翻訳すると、身の丈を知れ、の親戚だ。わたしの口からあれの親戚が出た)
(そしてそれを見逃さない人がここにいる)
世界中の人間は言う。そんなこと無理。欲張るな。現実を見ろ。二十数年、聞き飽きるほど聞いて、聞き流す技術だけが上達した。目の前のこれは、五百年生きていて、その全部を言わない。それどころか、こちらが一瞬でも望みを縮めると、なぜだ、と訊く。
「……行きたい」と、リゼアは言い直した。「月。行きたい。すごく」
「よい」
よい、の二文字が、いつもと同じ速さでいつもと同じ重さで落ちた。家を回した時と、空の時と、海の時と、同じ「よい」だった。月でも同じなのだ。この人の「よい」には大小がない。リゼアはそのことを、カップの底の茶と一緒にゆっくり飲み込んだ。
*
願文は五晩かかった。過去最長である。呼吸、温度、光、重さ、帰還、月面での移動範囲、滞在の上限。前例のない環境は条項を太らせる。第三十八項まで書いて、最後に一項、われながら統制官にあるまじき条文を足した。
第三十九項。月面の石、一個に限り持ち帰りを認める。
提出の日、トバイアスは綴りを受け取り、表紙を読み、今回は二度読みしなかった。
「月」
「上です」
「知ってる。月は上だ」彼は受理印を捺した。「……なあ。次は何なんだ。先に教えてくれ。心の準備というものがある」
「未定です」
「未定が一番怖いんだ」
「ねえ、コトホギヌス。月の石って誰のものなの」と、読み上げの前に神へ確認した。
「誰のものでもない」
「じゃあ一個だけ」
「よい」
誰のものでもない、はこの世界で一番危ない言葉の一つである。知っていて、一個だけと言った。文鎮が欲しかった。それだけの理由で月から石を取ってくる巫女として、観察記録に一行増えるのだろう。増えればいい。あの綴りはどうせもう戻れない厚さをしている。
*
月は音の無い場所だった。
海は音が短かった。月は無い。願文の第七項が音を通す小さな領域を二人ぶん作っていて、その外側は完全な無音が地平まで続いている。灰色の砂は足の下で乾いた光り方をして、影は刃物で切ったように黒かった。
そして、空に世界が浮かんでいた。
青くて、白い渦を巻いていて、片側だけ夜だった。東の国境がある。麓の神殿局がある。窓のない部屋と、観察記録と、代書屋の看板と、マルタの村がある。ぜんぶあの中にあって、ここからは指の腹で隠れた。
(尺度が壊れる)
(わたしの願いは大きすぎるって、ずっと誰かに言われてきた。家が回って、雨が消えて、確かに大きかった。でも見て。ここから見たら、全部、あの青いののどこかで起きた、小さいこと。願いの大きさなんて、測る場所で変わる。だったら最初から──)
(──最初から、測らなくていいんだ)
砂の上に影が二つ並んでいた。一つは自分ので、もう一つは神のだった。影がある、と思った。聖堂の薄暗がりでは気にしたこともなかった。月の白い光の下で、五百年の神は、律儀に影を一つ持っていた。世界の側が、この人を照らせるものとして扱っている。その当たり前が、なぜか今夜は、当たり前に見えなかった。
それから、目録の奥の引き出しが、勝手に半分開いた。慣性の逃げる、名のない場所。三に一つ。今度でいい、と延期したままの、あれ。月まで来られたのなら、あれも──思考がそこまで進んで、リゼアは引き出しを手で押さえた。今夜は駄目だ。今夜は、月の夜にする。
振り向くと、神が立っていた。月の光の中の神は、聖堂の薄暗がりで五百年過ごした者とは思えないほどその場所に馴染んでいた。考えてみれば、こちらが先住民に近いのかもしれなかった。
「実験していい?」
リゼアは手袋を外した。
「接触で願いがどう届くのか。手、いい?」
神は自分の手を見た。それから、リゼアを見た。
「例がない」
「駄目?」
「不可はない。例がないだけだ」
五百年、誰もこの神の手に触れなかった。畏れは正当な危機管理である。正当な危機管理を、リゼアは月面で手袋を外すことで乗り越えた。神の手は冷たくも温かくもなく、ただ確かにそこにあった。
「願います。声には出さない。何か届いたら教えて」
目を閉じて、願った。内容は、手帳にも書かないと決めている願いにした。どうせ届かないなら、一番遠くまで願っておく。それが実験というものである。
長い無音のあとで、神が言った。
「……ある」
「ある?」
「願いがある。それは分かる。内容は──届かない。形にならない。ただ」
神は、繋いだ手を見下ろした。
「温度だけ分かる」
「どんな温度」
神は検討した。焼き菓子の三倍。傘の半分。
「──温い」
無音の月面でそれは、どんな音より確かに届いた。
リゼアはしばらく口がきけなかった。実験記録を取るべき右手は神の手の中にあり、左手は手帳を持ったまま動かず、内部監査は差し戻しの理由すら書かずに全件を突き返してきた。温い。茶の感想第一号と同じ言葉が、いま、わたしの願いに発行された。
「……記録します。実験結果。接触による伝達は、存在と温度のみ。内容の伝達には──」
「言語を要する」
「そう。言葉にしないと届かない」
想いであっても、である。この世界の仕様が、月の上で確定した。リゼアは左手だけで手帳を開き、書きにくさに三秒苦戦した。
「……これ、持って」
神は空いている手で手帳を受け取った。リゼアは右手を離さないまま、左手で記録した。字は不揃いだった。
実験結果の下に次の欄を作った。
──次の検証:
の先を、書かなかった。書かない欄ではない。まだ書かない欄である。この区別が手帳の中で発明されたのは、この夜が最初だった。
*
帰還は浜の時と同じ逆再生で、二人は聖堂の前庭に立っていた。月の石は約束どおり一個、袖の中にあった。
官舎の机でそれは文鎮になり、その夜リゼアは飛び起きることになる。石が光っていた。淡く、月色に、満ちるように。窓の外の月と同じ明るさで。
翌日の聖堂で、リゼアは石を突き出した。
「光るんだけど」
「月の石だ」
「聞いてない」
「訊かれていない」
備品の欄に一行増えた。
──月の石、一。挙動:月に同期して光る。就寝時:布を被せること。返却方法:未定。
未定の欄がまた増えた。増えた欄を数えるのは、やめることにした。




