第14話 二冊目の隣の空き
月の石には様式がなかった。
「地外の物品を持ち帰った場合の欄がない」トバイアスは新様式の紙面を裏返し、表に戻し、もう一度裏返した。「ないんだ。四百年、誰も月から石を持って帰らなかったからな」
「備考欄では駄目なんですか」
「備考欄は備考を書く欄だ。月の石は備考か?」
「石の側の気持ちで言えば本文だと思います」
「そもそも所有者の欄に何と書く。月の石の所有者は」
「誰のものでもない、と御神が」
「『誰のものでもない』は様式に書ける言葉じゃない。所有者欄が空欄の物品は、規程上、遺失物か禁制品だ」
「月の遺失物……」
「落とし主の欄に月と書くのか? 月が取りに来たらどうする」
「取りに来たら多分わたしが一番見たいです」
「あんたはそうだろうよ!!」
翌週、様式第三号の三が出た。「地外物品」の欄がある。局の様式係はこの三月で三度目の改定作業であり、聞くところによれば様式係の主任は改定のたびに丘の方角を一度睨むのが習慣になっているという。制度は着実にリゼアの形に変形しつつあった。
*
ヴォスが二度目に来たのは、月行きの報告が綴じられた十日後だった。
前回から二月しか経っていない。三十年来なかった監査が、二月で二度である。トバイアスは先触れの書状を握って石段を上り、上りきったところで言うべき警句が尽きたらしく、結局ひとことだけ言った。
「……頑張れ」
「何をですか」
「分からん。分からんが頑張れ」
先触れはあった。本人より四半刻早く届いただけで、予告としてはほとんど役に立たなかった。朝の聖堂に石段を数える足音がして、扉が開いた。書類鞄は前回と同じく美しく、質問は前回と同じく様式の順で進んだ。飛行。海底。口頭修正。受理基準。月。
途中、一度だけ空気が硬くなった。
「手帳を拝見します。業務記録の欄を」
リゼアは手帳を出した。業務の欄を開いて差し出す。ヴォスは頁をめくった。一定の速度で、業務の欄だけを。速度が変わらないことを、リゼアは祈りに近い集中で見守った。この手帳には業務の欄のほかに、書かない欄と、まだ書かない欄がある。まだ書かない欄の一番新しい頁には書きかけの見出しが一行だけある。──次の検証:。
ヴォスの指が業務の欄の最後で止まった。
「私物の頁は審査の対象ですか」と、リゼアは先に訊いた。訊かれる前に訊くのは統制の基本である。
「現時点では、いいえ」
「現時点では」
「様式は変わるものです」ヴォスは手帳を返した。「あなたが一番ご存知でしょう」
「最後に、様式外の質問をします」
帳面を閉じてからヴォスは言った。様式外、という語をこの人が使うのを、リゼアは初めて聞いた。
「巫女殿。あなたは、止まれと命じられたら止まりますか」
聖堂が静かになった。祭壇の前の神がこちらを見たのが分かった。リゼアは三秒考えた。正直に答えることにした。この人に取り繕いは通らないし、取り繕った答えは多分、取り繕ったという事実ごと綴じられる。
「……業務なら止まります」
「業務なら、ですか」
「はい」
ヴォスは帳面を開き直し、一行書いた。書き終えて、顔を上げた。
「参考までに。同じ質問に歴代の担当巫女は全員、『止まります』と即答しました」
「……それで」
「全員、三年以内に辞めるか、逃げるか、聖堂に入れなくなりました」ヴォスは鞄の留め具を留めた。「即答しなかったのはあなたが初めてです」
それが良いことなのか悪いことなのか、ヴォスの声からは読めなかった。彼女は一礼して扉へ向かい、途中で一度だけ足を止めた。祭壇の前の神と階段の二段目の巫女を、等分に視界へ入れる位置だった。
「観察という語には」と、ヴォスは誰にともなく言った。「期限があります。様式上」
そして帰っていった。石段を数えながら。
*
「今の、聞いた?」
夕方、リゼアは階段の二段目で膝を抱えた。
「聞いた」
「観察には期限がある。つまりいつか判定になる」
「うむ」
「……あなた、判定ってされたことある?」
「ない」神は炎を見ていた。「私は五百年、判定する側の道具だった。願いが成立するか。言祝げるか。成就したか。判定は常に、私を通って人間へ降りた」
「初めてだね、じゃあ。される側」
「うむ」
「感想は」
長い検討だった。茶の三倍。傘と同じくらい。
「──妙な椅子に座らされている気分だ」
「その妙な椅子は、座り心地が悪い?」
「分からない。比較の対象がない」神は少し間を置いた。「ただ、椅子の向こうに、お前が座らされる椅子も見える。そちらの方が気になる」
リゼアは膝を抱えた腕に顎を載せた。五百年、判定を通す側だった存在が、判定される側になって最初に見たものが、自分の椅子ではなく隣の椅子だった。この観測結果を書く欄は手帳のどこにもない。どこにも書かず、ただ覚えた。
「感想が上手くなってる」リゼアは笑い、笑った勢いのまま前から決めていたことを言った。「ね。名のない場所、見に行く日、そろそろ決めようと思う」
神が炎から視線を外した。
「三に一つ、だぞ」
「知ってる。だから準備する。願文を書く。今までで一番長いやつ。知覚の帰還条項だけで十項は要る。半年かかるかも」
「急ぐ理由があるのか」
リゼアは膝を抱えたまま、少し黙った。観察には期限がある。期限が来たら判定になる。判定の中身は分からないが、判定というものは大抵、何かを終わらせるためにある。──と、いうようなことは、言わなかった。言えば形になる。形になった言葉がどう届くか、この聖堂では誰より知っている。
「急いでないよ。決めるだけ」
「そうか」
「そうか、が今日も出ました」
「出る」神は炎に戻った。「最近、よく出る」
「ん。じゃあ、今日の締めです。お茶のおかわりは」
「──」
神はカップを持ったまま、三秒黙った。三秒が五百年の詭弁と戦って、負けた。
「……頼む」
リゼアは噴き出しながら注いだ。頼む、が出た。催促の第一号である。
*
その夜、麓の神殿局。窓のない部屋。観察記録の二冊目が締められた。飛行願文の写し。海底願文の写し。口頭修正の書面化書類。受理基準全九条と、欄外の二語。月行きの報告と、地外物品の欄の新設稟議。二度の視察の帳面。時系列に、良いものと悪いものを分けず、ただ綴じる。
月行きの綴りには、局の検算係の付記が挟まっていた。
願文第十二項、月面温度の下限条項に、単位の誤記があった旨。誤記のまま成就していれば、祈願者は月面で凍死していた旨。しかるに成就の記録によれば、実施は誤記ではなく、正しい値で行われた旨。誰が、いつ、どの手続きで訂正したのかは、記録上不明である旨。
付記の末尾に検算係の私見が一行だけあった。私見の記入は様式違反であるが、違反のまま綴じられていた。
──巫女の統制が神を守っているのか、神の裁量が巫女を守っているのか、当係には判別できない。
一冊目と違うことが二つあった。
一つ。綴りの厚さが一冊目の倍あった。半分の期間で、である。
二つ。綴りの小口に付箋が挟まっていた。これまでの観察記録に付箋はなかった。付箋は几帳面に切り揃えられ、同じ幅で二枚ずつ、七箇所。色が二色あった。
どの頁にどちらの色が挟まっているのかは綴りだけが知っている。ただ様式の世界では、付箋が二色になった綴りの行き先は決まっている。会議である。
観察記録の棚の、二冊目の隣の空きは、まだ広かった。
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