第15話 特別監察
辞令は、美しい封筒で来た。
──観察記録に基づく審議の結果、言祝ぎの御神付巫女に対し、特別監察を実施する。監察官は現地に常駐し、業務および業務外の統制状況を直接に観察する。期間、判定まで。
「業務外の統制状況」と、リゼアは声に出して読んだ。
「業務外」という語が公文書に載る日が来るとは思わなかった。載せた側の気持ちは分かる。この丘の問題は最初から、業務外で起きている。家が回ったのも、月に行ったのも、傘も、石も、全部、終業の式文のあとの時間だった。
「常駐って、どこにです」トバイアスに訊いた。
「中腹の空き官舎だ。あんたの隣の」
「隣、空き家でしたっけ」
「歴代の巫女が使ってた方だ。三日で逃げた前任も、その前も」
つまり、逃げた者たちの家に、逃げない者が入る。制度というものは、たまに詩人より意地が悪い。トバイアスは受付台の向こうで声を落とした。
「特別監察は、おれが局に入ってから、過去に二回しか発動してない。一回目は横領した神官。二回目は──」
「二回目は」
「言うのをやめておく。とにかく、判定までヴォス主任が隣にいる。いいか、普段どおりにしてろ。普段どおりが一番いい」
「わたしの普段、家が回ったり月に行ったりですけど」
「…………普段どおりの定義を、局に問い合わせておく」
彼は本当に問い合わせたらしい。後日、回答が来た。「通常の職務慣行に従うこと」。丘の上に通常が存在しないことは、回答者も知っているはずだった。様式はたまに、書いた人間より正直である。
*
ヴォスの引っ越しは半日で終わった。
荷物は行李が二つ。二つとも同じ大きさで、同じ結び方で、紐の余りの長さまで同じだった。リゼアは手伝いを申し出て断られ、代わりに立ち会いだけした。行李の中身がちらりと見えた。衣類が畳まれて、書類が立てられて、隙間というものが存在しなかった。
(この行李は、いい行李だ)
(──いや、感動してる場合じゃない。この人はわたしを判定しに来た人。この行李は、わたしを判定する行李)
ヴォスの生活は時計より正確だった。夜明けとともに起き、決まった時刻に石段を数えて上り、決まった位置に座り、決まった速度で帳面をつける。食事は一人で、持参の帳面を読みながら、決まった順で食べる。三日目には、リゼアは彼女の巡回の足音で時刻が分かるようになった。四日目には、聖堂の雨漏りの桶の位置が、ヴォスの動線を計算に入れて三寸ずれた。
監察とはそういうものだった。何も咎めない。何も禁じない。ただ、そこにいる。
一度だけ、リゼアは巡回中のヴォスとすれ違いざまに訊いてみた。
「監察って、退屈じゃないですか」
「いいえ」
「何か面白いことありました?」
「観察対象に感想を述べる職務は、持っていません」
「じゃあ、職務外で」
「職務外を、わたしは現地に持ち込んでいません」
行李二つで来た人の言葉だった。説得力が、荷物の少なさと同じ形をしていた。
*
終業の式文を唱える。帳簿を閉じる。ここまでは、いつもどおりである。
いつもならここで盆を出す。カップを二つ。階段の二段目。勤務時間、終了しました。ここからは勤務外です──
リゼアは盆を出さなかった。
出せば記録される。「業務外の統制状況」の欄に、巫女は御神と茶を飲む、と書かれる。書かれること自体は事実だから構わない。構わないはずなのに、あの美しい帳面にあの夕方が書き取られると思うと、何かが嫌だった。夕方は書類ではない。書類にできないものを書類にされるのは、統制官としてではなく、もっと手前の場所が嫌がった。
「帰ります。おつかれさまでした、コトホギヌス」
「……うむ」
神の返事には、いつもより半拍の間があった。リゼアは気づいたが、振り返らなかった。振り返れば、その顔も記録される。
五日目の夕方も、六日目の夕方も、同じだった。
官舎に帰って、一人で夕食をとる。窓から聖堂の屋根が見える。あの中で、神はいつもの位置にいつもの姿勢で立っている。カップは盆の上で乾いている。
月の石に布を被せる。傘は玄関で行儀よく立っている。未定、未定、未定。この部屋は未定でできている。
七日目、帰り支度の途中で、神が言った。
「あの者の言葉は、箱の形が完璧だ」
「……ヴォスさんの?」
「祈りの形をして届く言葉の中で、五百年で、いちばん完全な箱だ。開けても、中に言葉の他に何も入っていない。感情の余りも、願いの染みもない」
「褒めてるの」
「観測を述べた」神は炎を見たまま続けた。「お前の言葉と、いちばん遠い」
それは多分、この七日間で一番の情報だった。リゼアは玄関で足を止めて、少しだけ考えた。輪郭が剥き出しで届く言葉と、完璧な箱で届く言葉。その両方に挟まれて、五百年の神は今、何を観測しているのだろう。
「……おやすみ、コトホギヌス」
「うむ」
挨拶。願意なし。成就不要。それでも返事は、返ってくる。監察はまだ、挨拶までは書類にしていない。
書類にされていない場所が、この丘にどれだけ残っているのか。数えるのはやめておいた。数えれば目録になる。目録は様式の親戚である。
*
十日目、ヴォスは備品の実地確認に来た。官舎に、である。
「貸与品および特異物品の目録照合です」
リゼアの手帳の備品欄と、現物が突き合わされた。傘(神具)、一。ヴォスはそれを開き、内側の群青を三秒見て、閉じ、記帳した。月の石、一。布を被せてあったのを外し、昼なので光っていないことを確かめ、記帳した。
「傘の貸与者は」
「……言祝ぎの御神です」
「貸与の期限は」
「未定です」
「返却の方法は」
「未定です」
ヴォスのペンは止まらなかった。未定、未定、と美しい字が二度書かれた。書かれてみると、未定という言葉は、書類の上ではずいぶん据わりが悪かった。据わりの悪さごと綴りに入った。
「以上です」ヴォスは行李と同じ結び方で鞄を閉じた。「……一点、様式外の所見を」
「はい」
「この官舎は片づいています。ですが、あなたの手帳の備品欄には『未定』が三つある」ヴォスは玄関で靴を履きながら、こちらを見ずに言った。「未定は、いつか定まります。様式の上では、定まらないものはありません」
「様式の外では?」
ヴォスは初めて、答えるまでに一秒使った。
「様式の外を、わたしは職務上知りません」
「職務外では?」
「──それは」ヴォスは靴紐を結び終えた。「観察対象からの質問としては、記録に値します」
「記録しないでください」
「では、なかったことに」
なかったことに、を様式の権化が言った。言ってから、本人がいちばん驚いた顔を、〇・五秒だけした。リゼアは見た。記録しなかった。お互いさまである。
戸が閉まった。足音が正確な間隔で遠ざかっていく。リゼアは手帳を開き、備品欄の三つの未定を眺め、それから、まだ書かない欄が今夜も白いことを確かめた。白いままで守り切れるのか、判定の日まで──とは、書かなかった。書けば形になる。この丘では、形になった言葉から順番に現実になっていく。
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