第16話 出張講習
辞令は今度も、美しい封筒で来た。
──願文統制方式の普及のため、下記三神殿への巡回講習を命ずる。期間五日。同行、監察官ヴォス。
「同行」と、リゼアは二度読んだ。
「監察対象の出張だからな」トバイアスは目を合わせずに言った。「対象が動けば、監察も動く。様式どおりだ」
様式どおり。最近この言葉を聞くたび、様式の向こうで誰かが別のことを考えている気がする。封筒はいつも美しく、文面はいつも正しい。
かくして、監察官との二人旅が始まった。ヴォスの旅装は行李一つで、宿では毎晩同じ時刻に帳面をつけ、朝は毎回、宿の階段の段数を数えて下りてきた。三日目にリゼアが「数えるの、癖なんですか」と訊くと、ヴォスは一秒だけ考えて答えた。
「段数の変わる階段に、二度、遭遇したことがあります」
この世界の監査官は、伊達に神々を相手にしていない。
道中、会話はほとんどなかった。だが、二日目の峠の茶屋で、ヴォスが注文を「同じものを」と言ったのをリゼアは聞いた。同じもの、は様式にない言葉である。誰かの選択に相乗りする言葉である。指摘はしなかった。記録もしなかった。ただ、書かない欄の隣あたりに、そっと置いた。
*
海神殿は、港の突堤の先にあった。講習の前に現場を見せてもらった。見て、リゼアは講習の内容を半分捨てた。教えることが、あまりなかったのである。
「風を変えてください」
祭壇の前で、海神付きの神官が言った。手元に気象図と海流図。目は沖の雲。
「どちらへ」と、海から声が返る。
「南南東。三刻だけ」
「波は」
「そのまま」
「潮は」
「触らないでください」
それで終わりだった。願文も査読もない。あるのは積み上がった観測記録と、一語ずつ削られた運用語彙と、呼吸のような応答速度。管制である。祈りというより、管制だった。
講習では、統制の基礎と、査読の観点と、事故報告の書式を教えた。質疑の最後に、若い神官が手を挙げた。
「あの……言祝ぎ神殿では口頭修正が通ったというのは、本当ですか」
会場が少し静かになった。海の男たちの静かさだった。
「通しました。一度だけ。帰投後の書面化を条件に」
「うちでやったら」と、若い神官は上司を見た。上司の海神付きは即答した。
「浜に上がった魚から順に書面化するのか? 却下だ」
会場が笑い、リゼアも笑い、笑いながら、自分の作った前例が海を越えて運用の議題になっていることを、胃の底で計量した。通ったものは様式になる。様式にならなくても噂になる。噂は様式より速い。
「うちは速度が命なので」と、海神付きは講習後に言った。「嵐は査読を待ってくれません。その代わり、語彙を絞ってあります。うちの運用で使っていい単語は、二百六十語です」
「二百六十」
「言祝ぎの御神付きの方には、少なく見えるでしょうが」
「いえ」リゼアは首を振った。むしろ震えていた。二百六十語の檻で海を運用する。その檻の設計に、何十年かかったのか。「──美しいです。語彙表、写していいですか」
海神付きは、初めて表情を緩めた。同業者の顔だった。
*
火神殿は、鍛冶の町の真ん中にあった。
「火を強くしてほしい、という祈願です」講習の実演で、火神付きが申請書を見せてくれた。「まず何を確認しますか」
「対象の範囲です。炉だけか、町全体か」
「うちの様式では、聞かれる前に書いてあります」
差し出された様式には、見覚えのある骨格があった。対象。期限。方法の上限。三点留め。欄の並びまで、ほとんど同じ。
「これ……」
「言祝ぎ神殿の統制様式を、うちに合わせて改めたものです。十年前から」火神付きは事務的に言った。「半径の欄と、延焼順位の欄を足しました。よその様式を使うのは業腹ですが、燃えるよりましなので」
自分が受け継いだ様式の骨格が、自分の知らない町で、自分の知らない火を統制していた。リゼアは様式の写しを両手で受け取った。書いた文章が世界の仕様になる感覚には覚えがある。あれの、もっと静かで、もっと広いやつが、いま手の中にあった。
その晩、宿の帳面にヴォスが何かを書いている横で、リゼアも手帳に書いた。業務の欄に、二百六十語の檻と、半径の欄のこと。書かない欄には、何も書かなかった。書かない欄に書きたいことは、五日間、丘に置いてきたままだった。
*
最終日が、戦神殿だった。
「戦神様。本日の案件は、国境警備隊の戦勝祈願です」
「勝たせればいいのか」
「いえ。敵国側にも、あなたの信徒がいます」
「面倒だな」
「なので『自軍の損害を最小化し、任務目的を達成する』までにしてください」
「戦を小さくする祈願ばかり持ってくるな」
「あなたを大きく使うと、死人が増えるので」
「三割は勝たせろ」
「三割は勝ちます。損害最小でも勝ちは勝ちです」
「勝ちの定義を狭めるな」
「広げると死人の定義も広がるので」
塩、であった。リゼアは講習を忘れて聞き入った。畏怖はある。手続きも完璧である。その上で、この神官は戦の神に、経費を切り詰める経理の顔で接していた。神殿ごとに、神との正しい付き合い方がある。五日かけて三つ見て、三つとも違って、三つとも正しかった。
講習が終わり、帰り支度をしていると、頭の上から声が降ってきた。
「言祝ぎの」
戦神だった。条約の日と同じ、天井を気にする立ち方で、こちらを見下ろしている。
「お前のところ、距離近くないか」
「……どこの情報ですか」
「有名です」と、戦神付きが横から言った。
「あれ、普通か」戦神は自分の神官に訊いた。
「普通ではありません」
「だよな」戦神は腕を組んだ。「──で、悪いのか」
「は?」
「普通でないことは、悪いのか、と訊いている」戦神は誰にともなく言った。「俺の得物にも、規格外が何本かある。規格の内で作った剣は、規格の内の仕事をする。規格の外のやつは──手入れが面倒なだけだ」
戦神付きが、咳払いを一つした。
「戦神様。それは監察官の前で仰る話では」
「事実を述べた」
どこかで聞いた台詞だった。神々は、種類が違っても、どこか根が同じらしい。
戦神は確認を終え、うなずき、それ以上は何も言わなかった。何も言わないまま、リゼアの後ろ──控えていたヴォスの帳面を一瞥して、また祭壇へ戻っていった。神々は人間の制度に口を出さない。出さないが、見てはいる。
*
帰りの街道で、リゼアは気づいてしまった。
この五日、自分は完璧に業務をこなした。講習は成功し、三神殿から礼状が出るという。丘を離れても、統制官リゼア・ヴァレスは問題なく機能する。──それが、証明されてしまった。
隣で、ヴォスの帳面は五日分、正確に厚くなっている。この出張の様式上の名前は講習で、様式の向こうの名前は、多分、予行という。
丘に着いたのは夕方だった。石段を上り、聖堂の扉を開けると、神はいつもの位置にいた。
「ただいま戻りました、コトホギヌス」
「五日だった」
「……数えてたの」
「数は、数える」
それだけだった。それだけの返答の、それだけではない部分を、リゼアは受け取り、受け取ったことは顔に出さなかった。二歩後ろで、ヴォスの帳面が開く音がした。
夕方の聖堂に、三人ぶんの沈黙がそれぞれ別の形で立っていた。
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