第17話 本物の願い
その祈願申請書は完璧だった。受付日の朝、穀物商と、北西の村の代表三人が、申請を持ち込んだ。内容はこうである。商人は村に対し、穀物二百俵を即時に引き渡す。村は商人に対し、向こう五年、収穫の四割を納める。双方、この約定が記されたとおりに守られますように。
対象、明確。期限、五年。方法の上限、あり。曖昧語、なし。禁語、なし。署名、全員ぶん。申請書の起草の欄には、街道沿いの代書屋の名があった。基準の公布後に生き残った二枚看板のうちの一枚である。看板の期限条項に感心したことを、リゼアは思い出した。あの技術は死んでいなかった。基準に適合する形に、進化していた。
村の代表は三人とも、日に焼けて、痩せていた。真ん中の年嵩の男が書類を両手で扱った。書類を両手で扱う人間は、書類に人生を載せている。
「不作が二年続きまして」と、男は言った。「東の国境の戦の年から、雨の巡りがおかしいままで。……子どもらが、その」
言葉が切れた。切れた先を、リゼアは想像で埋めなくてよかった。頬を見れば書いてあった。
商人は丁寧な男だった。物腰は柔らかく、条件の説明は正確で、嘘はどこにもなかった。
「手前どもも、危険を負っております」と、商人は言った。「五年の内に飢饉が来れば、二百俵はただの損で消えます。四割という数字は、その危険の値です。もっと安くできるなら、手前もそうしたい」
それも多分本当だった。悪人がいれば、話は簡単だった。この申請には悪人がいなかった。
申請はその日のうちに神殿局へ回り、神官の手で正式願文に起草され、三人の査読に付された。手続きは一箇所の瑕疵もなく進んだ。進んでしまった。
「差し戻しの根拠を探しています」
その晩、リゼアは官舎で規程を全部めくった。四百年ぶんの規程と、自分の書いた九条。第一条、対象は祈願者自身の望み──双方の望みである。第二条、願いが本人のものとして生きて届いていること──届いてしまう。第三条、一方の不利益の恒久的固定──五年は恒久ではないため、自動の拒否は働かない。
そして第四条。力の不均衡の人間審査。
引っかかった。正しく、引っかかった。飢えた村と、穀物を持つ商人。これが力の不均衡でなければ、あの条文は何のためにある。三人の査読者は三人とも、所見欄に不均衡を認定していた。リゼアも認定した。審査は、機能した。
機能して、それからがなかった。不受理にすれば、二百俵は村に届かない。子どもらは今週も粥のままで、冬が来る。査読の所見欄には、三人の神官の字で同じ趣旨のことが書いてあった。──不均衡を認む。しかるに、不受理が村を利する道を、本職は示し得ない。受理が最善と判ずる。
規程は不均衡を発見できた。発見した先の、公正な第三の選択肢を作れなかった。条文は正しく働いて、正しく働いた手の中に、選べる札が二枚しかなかった。縛られて救われるか、自由なまま飢えるか。
(恒久、って書いたのはわたしだ。第三条が黙って通して、第四条が見つけて、見つけた全員が受理に票を入れた。わたしも入れる。入れるしかない。子どもが今日飢えてる村にとって五年後の飢えは「まし」で、その「まし」を選ぶ自由は、本物の自由なの?)
手帳の字は進まなかった。興が乗ると良くなる字が、今夜は一行ごとに痩せていく。この計器は、逆にも振れるのだ。
*
「コトホギヌス。……弾ける?」
翌朝、聖堂で訊いた。訊く前から答えは分かっていた。
「弾けない」神は言った。「願いは生きている。双方とも」
「本物なの。あれが」
「本物だ。飢えた者の願いは、しばしば本物だ」
三百年前の泣き声の話をした日と、同じ声だった。あの日は理屈として聞いた。今日は、受付台の向こうの、村の代表の削げた頬と一緒に聞こえた。
方法はある、と頭の隅が言った。実行方法は、神が決める。「守られますように」の実装を、彼なら緩くできる。五年目に猶予が生まれるように。四割が三割で済む余地が生まれるように。頼めば、多分──
(頼めば、多分、やる。この人は、わたしが頼めば、やる。月でやったように。黙って、記録に残らない形で)
リゼアはその考えを、頭の隅ごと閉じた。
それをやれば、彼は検算係の付記の、次の行になる。字義の神に字義を曲げさせて、曲げた責任は記録に残らず、残らない責任は全部彼の側に積もる。統制官の職務は神の暴走を止めることだと養成院では教わった。今日分かった。逆もある。人間の側が、神の善意を便利に使いたくなる日がある。それを止めるのも、多分、この職務だった。
「──通します」と、リゼアは言った。「基準に引っかかって、審査して、それでも受理が最善だと判定したので」
「うむ」
「うむ、じゃないよ……」
「では、何と言えばいい」
「分かんない。ごめん。八つ当たり」
神は少し黙って、それから、いつもの位置から一歩だけ、階段の方へ出た。
「お前の基準は、正しく書けている」
「正しく書けてる基準が、今日、あの村を五年縛るの」
「うむ」神は言った。「言葉とは、そういうものだ。私は五百年、それを見てきた」
慰めではなかった。事実の陳述だった。事実の陳述が、今日はいちばん、慰めに近かった。
「ひとつ、訊いていい」リゼアは階段の二段目に、座らずに立ったまま言った。「あなたは五百年、こういう願いを何回言祝いだの」
「数えている」
「何回」
「……知りたいか」
「やめとく」
数えている、で足りた。数えて、忘れる機能を持たずに、全部、あの記録のどこかに綴じてある。それを五百年続けてきた者の隣で、自分は今日、一回目を経験しているだけだった。
*
儀はつつがなく終わった。村の代表たちは成就の報せに泣いた。感謝の涙だった。二百俵は明日、村に着く。子どもたちは今週から、粥ではなくパンを食べる。彼らは救われた。救われて、五年、縛られた。両方が本当で、両方が、同じ一枚の願文から出た。
帰り際、村の代表のひとりが、リゼアに深く頭を下げた。
「ありがとうございました。巫女様の基準は、公正だと聞いております」
公正。リゼアは礼を返した。返した腰の角度のぶんだけ、その言葉が重かった。
*
夜、リゼアは二通書いた。
一通は村への書き置きである。基準の解説という体裁で、末尾に一行──約定の修正は、双方が新たに本心から願うなら、次の受付日に可能です。商人が署名するかは分からないが、道だけは書いて残せる。規程は過去を救えない。次の受付日なら、まだ未来である。
もう一通は、局への意見書だった。受理基準第三条、改正案。「恒久的」の語を削除し、年限にかかわらず、一方の不利益の固定を人間審査の対象とすること。あわせて第四条に、不均衡を認定した場合の修正勧告の手続き──拒否と受理のあいだの、第三の札──を新設すること。理由書の欄に、今日の願文の写しを添えた。自分の書いた基準の届かなかった場所を、自分の名前で申告する書類である。書き終えて、所見の欄に一行足した。
──本件、統制官の技量では防げなかった。基準の改正によっても、本件は救えない。
二重線は引かなかった。
*
翌日、意見書を受け取ったヴォスは、その場で最後まで読んだ。読み終えて言った。
「あなたの基準は機能しました」
「機能した結果がこれです」
「はい。機能した結果がこれです」ヴォスは意見書を鞄に納めた。様式外の速度で、一つだけ足した。「統制官が一人であることの危険は、その一人が優秀であるほど見えにくくなります。……特別監察が見ているのは、あなたの失敗ではありません」
石段を数える足音が遠ざかっていった。
リゼアは受付台に残って、しばらく動かなかった。監査は正しい。今日ほどそれが分かった日はなかった。分かった上で、夕方になったら丘を上って、あの聖堂の扉を開けたいと思っている。
夕方、扉を開けると、神はいつもの位置にいた。リゼアは階段の二段目に座り、何も言わなかった。神も何も言わなかった。言わないまま、燭台の炎が規定の数だけ揺れて、位置のずれた燭台ふたつは今日もそのままで、それがなぜか今日いちばんましな眺めだった。
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