第8話 神の記録①:五百年の記録
言葉は、形をして届く。
祈りの形に整えられた言葉は、角が落ち、包まれ、宛名がついている。神殿局の査読を経た願文はみな同じ形をしている。美しい箱である。五百年、言祝ぎの神は箱を受け取り、開き、中身を検め、成就させてきた。箱の数は覚えている。神は忘れるという機能を持たない。
今朝も一箱、届いている。収穫祭前の定例祈願。豊作への感謝と、祭りの晴天の願い。三点留めは教本どおり、晴天の範囲は「祭場の上空」、期限は「祭りの当日、開式から閉式まで」。二十年前から同じ起草者で、同じ形で、同じ重さの箱である。神はそれを開き、検め、成就の予約をした。所要、人間の呼吸で三つぶん。この作業を神は五百年続けてきた。退屈という語は記録にない。なかった、と過去形で書くべきかは検討中である。
処理を誤ったことは一度もない。
解釈を誤った、と人間が言う事象は数十件ある。神の側の記録ではいずれも、届いた言葉と成就した現実は一致している。冬の件も、湖の件も、眠りの町の件も。人間が言わなかった条件を、神は補わなかっただけである。人間はそれを事故と呼び、様式を作り、査読を作り、四百年かけて言葉を現実と同じ大きさに削る技術を磨いた。有益な営みだと神は考えている。彼らはようやく、言葉の重さを量り始めた。
リゼア・ヴァレスの言葉は、形をしていない。
正確に言えば、包まれていない。あの巫女の言葉は、発された瞬間の輪郭のまま剥き出しで届く。「雨、嫌だな」は雨への嫌悪そのものの形で、「見たいよ。全部見たい」は欲望そのものの形で届いた。包まれていない言葉なら、過去にもあった。だが多くは輪郭が崩れ、向きも定まらない。あの巫女の言葉だけは、箱に入っていないのに完成している。
観測記録は増える一方である。
たとえば、「中止」。
あの語は、五百年の記録の中で最も頻繁に私へ向けられた命令形になった。着任から数えて十四回。歴代の巫女の合計は零回である。命令形は本来、神に向けてよい形ではない。不快であるべき形である。観測結果:不快が発生しない。それどころか、あの「中止」は届く言葉の中で最も輪郭が鋭く、最も速く、一切の迷いを含まない。よい言葉だと思う。よい、という評価が命令形に発生することの神学的な位置づけは検討中である。
たとえば、字。
あの巫女の手帳の字は、速度と精度が興に比例する。字が良くなっている時、あの巫女は危険である。この相関を、彼女を送り込んだ側は知らない。教官という者が知っていたらしいが、丘の上では私だけが知っている。誰にも報告していない。報告の義務が、私にはない。義務がないという理由で報告しないことと、報告したくないから理由を探すことは、記録の上では区別がつかない。区別がつかない項目がまた一つ増える。
たとえば、笑いの回数。
飛行の日、あの巫女は上空で十七回笑った。地上での平常値は一日五回前後だから、飛行は笑いを三倍強にする。この数値に意味があるかは不明であるが、記録は続けている。記録を続けたい、という状態を神は「観測上の必要」と分類している。分類には少し無理がある。
たとえば、呼称の件。
コトホギヌス。雑である。私は雑に扱われている。これが不快の原因である、と当初は分類した。分類には修正が入り続けている。第一修正:「様」がつくと、より不快である。理由は不明。第二修正:他の神が使うと、さらに不快である。理由は不明。第三修正:あの巫女が祭儀で「言祝ぎの御神」と完璧に呼ぶ時、正しさとは別のごく小さい欠落が観測される。理由は不明。不明が三つ並ぶ分類は、分類として破綻している。
たとえば、カップの件。
茶は、温い。菓子は、甘い。感想というものが自分に発生することは既に確認済みである。問題は二杯目以降だった。カップが空になる。もう一杯を望むなら、言えばよい。だが神は願わない。願いは人間のもので、神は成就させる側である。ゆえに、言わない。言わずに、カップを持つ。持っていれば、あの巫女が気づく。気づいて注ぐのは彼女の自由意志であり、私は何も求めていない。
「……詭弁だ」
と言う者は聖堂にいなかった。いないので、自分で言った。神学だ、と返す者もいなかった。誰にも聞かれていない問答を、神は記録の余白に相当する場所へ綴じた。余白は最近、本文より速く増える。
たとえば、朝。
五百年、時間は量だった。日が昇り、沈み、箱が届き、開く。順序はあるが、向きはなかった。どの朝も等しく朝だった。
今は、向きがある。
朝は、あの巫女が石段を上ってくる方角にある。夕は、下りていく方角にある。非番の日は──非番の日は、長い。長い、という感想が発生する。一日の長さは不変である。そのことは神が誰より知っている。しかし、長い。この矛盾は観測記録の中で最も太い項目になりつつあり、神はまだこれに名前をつけていない。
つけられる名前の候補がないわけではない。
五百年ぶん、箱の中で見てきた語のどれかだろう、という見当はある。見当までで止めてある。
適用は保留している。保留の理由は三つあり、三つとも検討中である。第一に、観測が不十分である。第二に、この語は人間の側の語であり、神への適用例が記録にない。第三に──第三の理由を、神はまだ言語化していない。言語化すれば、それは形になる。形になった言葉が何を起こすか、言祝ぎの神ほどよく知る者はいない。
自分の願いを言葉にしたとき、自分の中の何が変わるのか。試したことはない。
*
石段に足音がした。
十一段目。あの巫女は十一段目で必ず一度立ち止まる。理由は観測済みである。十一段目から、聖堂の屋根の向こうに海が一筋だけ見える。彼女はそれを毎朝、三秒見る。三秒が四秒だった日が過去に二日ある。二日とも、前夜が雨だった。洗われた空気は遠くまで見えるからだと推定される。推定で済ませたが、本当は、四秒の日の横顔も記録にある。記録は消さない。神は忘れるという機能を持たないが、忘れないことと消さないことは別である。
扉が開いた。
「コトホギヌス、おはよ」
処理:挨拶。願意なし。成就不要。
返答は必要ではない。五百年、神は挨拶に返答してこなかった。人間たちは気にしなかった。神とはそういうものだからである。
「うむ」
返答した。
返答したい、と思ってから返答するまでの間に、願いは一度も介在しなかった。誰にも願われていないことをした。冬を消した日も、雨を消した日も、神は願われたとおりにしただけだった。今のは違う。誰のせいにもできない。
あの巫女は気づかず、文机を出し、今日の書類を並べ始めている。剥き出しの輪郭の言葉で、鼻歌に満たない何かを歌いながら。
神は祭壇の前に立ち、いつもの姿勢を取り、観測を続けた。記録のいちばん新しい頁にはこうある。
──事象:返答。願意の介在なし。分類:保留。
保留の棚は、五百年でほぼ空のままだった。この数十日で急に混み始めている。棚を増やすべきかもしれない。増やした棚に何と名をつけるかは、まだ決めていない。
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