第7話 空を飛ぶ
「ねえ、コトホギヌス。空って飛べる?」
「可能だ」
「やりたい」
「よい」
「あ、待って」
リゼアは自分で言って、自分で止めた。神は既に片手を上げかけている。この神の「よい」から実行までは、体感で瞬きひとつ分しかない。
「ちゃんとやる。今回はちゃんとやります。前回それで家が回ったので」
「寝室は南を向いた」
「向いたね。庭ごとね。──だから今回は、書面で」
神の手が下りた。かわりに、わずかに首が傾いた。
「読み上げるのか」
「読み上げます」
*
願文(私案・飛行の件)は、四晩かかった。
対象、飛行するのはリゼア・ヴァレス一名。期限、実施は次の非番日、日の出から日没まで。高度上限、丘の鐘楼の三倍。速度上限、鳥を驚かせない程度。周辺への影響、雲・風・鳥類・麓からの視認に関する条項が四つ。可逆性、着地をもって完全に終了し、身体にいかなる恒久的変化も残さないこと。全二十九項。
第一稿は一発で自己査読を通った。
(一発で通った。成長している。……方向は、さておき)
家の回転で使い損ねた二十六項目を土台にしたので、早かった。修了記念の「却下」の印は、今回は出番がなく印箱の中で少し寂しそうだった。
視認制限の第十七項には理由がある。空飛ぶ祭服を麓の誰かが見れば、新しい奇跡として届け出が出る。届け出が出れば審議が要る。審議が始まれば、飛んでいたのが統制官本人だと必ず割れる。リゼアは奇跡の届け出様式を思い浮かべ、その「目撃した奇跡の内容」欄に自分が記入される未来を消した。飛びたいのであって、聖人になりたいのではない。
問題は第二十二項だった。落下時の対処。魔法的な受け止め、減速、着地地点の指定──三案を書いて、三案とも消して、リゼアは翌日、聖堂で本人に訊いた。
「落下対策って、どう書けばいい?」
「不要だ」
「なんで」
「私がいる」
リゼアはペンを持ったまま、三秒止まった。それから手帳に、事務の字で書いた。
──第二十二項、落下時の対処:神。
「様式にどう書くの、これ……」
書いた本人が呻いた。だが代案はなかった。世界でいちばん確実な安全装置が、世界でいちばん様式に載せにくい。
*
非番日は晴れた。
聖堂の前庭で、リゼアは願文を読み上げた。全二十九項。神は最後まで聞いた。マルタの時と同じ姿勢、同じ真剣さで。担当巫女の「空を飛びたい」が、北の谷の母親の祈りと同じ手順で処理されていく。それがこの神の正しさで、多分、危なさでもあった。
「──以上を、言祝ぎたまえ」
「言祝ごう」
足の裏から地面が離れた。
音はなかった。風だけがあった。丘が下がっていく。巡礼路が紐になり、官舎が箱になり、聖堂の屋根の継ぎ目が見えて、それから、鐘楼の天辺よりも高くなった。
(──飛んでる)
(飛んでる!! 浮いてるじゃなくて飛んでる!! 推進の原理は? 揚力じゃない、翼がない、風は──追い風。ずっと追い風。どっちを向いても追い風!! これ大発見では? いや発見じゃない、権能だ、でも観測はできる、観測しよう、そのために来た)
リゼアは飛びながら手帳を出した。風速、体感高度、雲までの距離、旋回半径。字は過去最高に良かった。
第二十六項で鳥類への配慮を定めたのに、鳥のほうが配慮しなかった。旋回中の祭服の横に鳶が並んで、しばらく一緒に飛んで、興味を失って離れていった。リゼアは鳶に会釈をした。空には空の先住民がいて、新参者が礼を尽くすのは当然である。
雲に手が届いた。冷たくて、濡れていて、掴めなかった。掴めないことを三回確かめて、三回とも笑った。誰も見ていないので、声に出して笑った。丘の上を、統制官の祭服が笑いながら旋回している。麓から見えないよう第十七項で視認制限をかけておいたのは、我ながら賢明だった。
上限の高さに触れると、それ以上は上がらなくなった。壁があるのではない。「上」という選択肢だけが世界から消えている。第七項は完璧に仕事をしていた。リゼアは自分で書いた条項に阻まれて、ちゃんと悔しかった。統制とはそういうものである。一番止めたい相手は、いつも未来の自分だった。
眼下の聖堂の前に神が立っている。豆粒ほどにしか見えないような距離なのに、視線が合うのが分かった。リゼアは手を振った。神は振り返さなかった。かわりに、ずっと上を向いていた。
*
昼、降りようとして思い出した。
第二十四項。着地をもって完全に終了し、身体にいかなる恒久的変化も残さないこと。
(──着地をもって、終了)
降下の途中で静止した。書いたのは自分である。可逆性の担保のつもりだった。だがこの文言は、昼の休憩の着地と、一日の終わりの着地を区別していない。降りたら終わる。午後の空はない。
「コトホギヌス。第二十四項って、どっちに読める」
「二通りに読める」と、下から声が返った。「着地は全て終了である。または、日没時の着地のみ終了である。どちらでも実行できる。選べ」
選べ、と来た。黙って狭い方を執行しないあたり、この神は確実に何かを学んでいる。しかし今は感心している場合ではなかった。
「……前者で確定。条項は書かれたとおりに読む。それが統制です」
「では降りれば終わる」
「降りません。昼は空で食べます」
リゼアは高度を下げた。下げて、下げて、地面から拳ひとつの高さで止まり、宙に胡座をかいて包みを開いた。
「それは着地では」
「していません。隙間があります」
「……詭弁だ」
「神学です」
神は三秒黙り、追及を打ち切った。打ち切り方が、どこかの誰かの上司みたいに堂に入っていた。
「どう」と、地面から拳ひとつの高さでリゼアは訊いた。「担当巫女の私的祈願を叶えた感想は。あ、これ業務の確認じゃなくて雑談ね」
「観測していた」
「わたしを?」
「うむ」
「感想は?」
神は少し考えた。焼き菓子の時と同じ長さの検討だった。
「……よく笑う」
「は?」
「地上では、そのように笑わない。観測との差異を述べた」
観測結果として完全に正確で、反論の余地がなく、そして完全に想定外だった。リゼアは手帳に書くべきか三秒迷って、書かなかった。この手帳は事務の記録である。頬が熱いのは、高度と日差しのせいである。内部監査は今日も自分に甘かった。
*
日没の十分前、リゼアは丘の上空でそれを思い出した。
第八項。実施は日の出から日没まで。
(正確に切れる。あの神は、正確に切る)
西の稜線に太陽が触れた。降下を始めた。間に合う計算だった。計算に入っていなかったのは、夕焼けである。雲の下面が燃える色になって、世界の端まで続いていて、リゼアの手が勝手に手帳を出した。風速。色の変化。雲の階層。字が、良くなっていく。
太陽が沈んだ。権能は切れた。
「──あ」
落ちた。三秒だけ落ちた。悲鳴の代わりに出たのは「観測中!!」という抗議だった。それから、何かが受け止めた。羽布団と流水の中間のような何かで、気づいたら聖堂の前庭に足から立っていた。目の前に神がいた。
「第二十二項」と神は言った。
「……対処:神」
「執行した」
「執行された……」リゼアは膝の埃を払った。「ありがとう。でも言わせて。日没って、太陽のどこが稜線に触れた瞬間なの。上端? 下端? 中心?」
「次の願文では定義しておけ」
「そうする。……ちなみに、今回はどれだったの」
「中心が稜線に重なった瞬間」
「天文台の定義と違う」
「天文台が私と違う」
これ以上ないほど神学的に正しい回答だった。リゼアは反論を諦めて、手帳の次頁に「日没(神基準)」の項を作った。
丘の下で、書類を抱えた第三者だけが棒立ちになっていた。
*
「様式が改定された」
翌週、トバイアスは新しい紙束を机に置いた。事故報告、様式第三号の二。欄がひとつ増えている。
──巫女の私的祈願。
「……局が、欄を作ったんですか」
「余白に書き続けるのは様式に反する、と上が言った。だから欄になった」トバイアスは棒読みで言った。「言っておくが、これは公認じゃない。様式上の整理だ」
「欄があるということは、書き込まれる前提では」
「様式上の整理だ」
「欄の名前、変えられません? 『巫女の私的祈願』って、様式に個人が特定される欄があるの、制度としてどうかと」
「上に同じことを言った。上の回答は『該当者が一名しかいない』だ」
「増えたらどうするんです」
「増やすな」
トバイアスは繰り返した。繰り返した声が、自分でも信じていない声だった。リゼアは新様式の、真新しい欄を眺めた。飛行の件が、その欄の記入例第一号として既に美しい楷書で綴じられていた。
欄は思ったより大きかった。これから増える前提の大きさだった。
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