第6話 実績と記録
条約文の起草に、十一日かかった。
全十七条。全条文三点留め。対象、期限、方法の上限。リゼアは両国の使節と神殿局の法務官を相手に、一語ずつ潰した。「恒久の平和」は初日に削った。恒久は禁語である。「両国は向こう五十年、国境線を武力で変更しない」。期限のある平和は志が低いと東の使節が渋り、リゼアは事故録の写しを一冊、無言で机に置いた。使節は三十年前の頁を読み、顔色を変え、五十年に署名した。
四日目には西の使節が前文に「両国の永遠の友好の精神に基づき」と入れたがった。
「『永遠』は禁語です。それから『精神に基づき』は、御神が『では精神を基づかせよう』と解釈する余地があります」
「精神を、基づかせる……? どうやって」
「わたしにも分かりません。分からないものは条文に残せません」
前文は「両国の合意に基づき」になった。九日目、法務官が結びの定型句「神々の御加護のあらんことを」を入れようとして、リゼアに削られた。定型句は、この聖堂では定型句のままでいられない。十一日目の夜、完成した条約文を読み返して、リゼアは思った。詩人が読んだら泣く。事務官が読んだら惚れる。そういう文章になった。
調印と言祝ぎの儀は、麓の大聖堂で行われた。
リゼアは正装だった。祭服の帯を三重に締め、髪を上げ、統制官の位置──祭壇の右、神の斜め後ろ──に立つ。両国の使節が署名し、法務官が確認する。それから使節二人が祭壇の前に並び、リゼアの統制で一語まで整えられた祈願文を、声を合わせて読んだ。
「この約定が、記されたとおりに守られますように」
人が合意し、人が願う。ここまでが人間の仕事である。リゼアが進み出て、条約文を捧げ持った。
「畏れ多くも言祝ぎの御神に、奏上つかまつる。ここに両国の合意せる十七条、双方の願い、一言一句、違えなく──」
完璧な古形だった。発音、抑揚、句の切れ目。大聖堂の後方でトバイアスが、別人かと思った、という顔で聞いていた。両国の使節は、家を回した巫女の噂と目の前の統制官がどうしても一致せず、式の間じゅう首をひねっていた。
「──以上を、言祝ぎたまえ」
「言祝ごう」
神が条約文に手を置いた。光らなかった。鳴らなかった。紙は紙のままそこにあった。
(──今)
リゼアは統制官の姿勢のまま、微動もしなかった。微動もしないまま、内側の全部が窓に張りついていた。
(今、この瞬間、わたしの書いた文章が、物理法則になった。「向こう五十年」が、暦じゃなくて世界の仕様になった。第八条の通商条項が、いま、たぶん重力と同じ力を持つ。わたしの書いた文章が──この感覚、職業倫理のどのカテゴリにも入らない。そして多分、癖になる。十七条じゃ足りない。もっと書きたい。もっと長くて、もっと大きくて、もっと世界の深いところに刺さる文章を──)
統制官の顔は微動もしなかった。内側で、リゼアは引き出しをひとつ増設した。増設した、ということは、しまう予定のものがある、ということである。
*
式典と宴が終わり、大聖堂の裏手の控えの間でリゼアは帯を一重に緩めた。時刻は夕方。本日の職務は終了である。聖堂に残っていた神のところへ、盆を持っていった。
「コトホギヌス、お茶飲む?」
神は、条約の置かれていた祭壇から視線を上げた。
「切り替えが早すぎる」
「勤務時間終わったので」
「五分前まで、私を『畏れ多くも言祝ぎの御神』と呼んでいた」
「勤務中だったので」
「今は?」
「コトホギヌス」
「なぜ落差が最大なのだ」
「使い分けてるんです。どっちも本気で」
神は少し考える顔をした。本気が二種類ある、という命題の検証に入ったらしい。検証の間に、リゼアは茶を注ぎ終えた。盆を階段の二段目に置き、湯気の立つカップをひとつ、神の方へ押した。神はそれを見下ろした。
「私は、飲む必要がない」
「必要の話はしてません。どうぞ」
神はカップを取った。一口飲んで、しばらく黙って、言った。
「……温い」
リゼアは吹いた。
「お茶の感想、ちゃんと言うんだ」
「事実を述べた」
「はいはい。お茶菓子もありますよ」
「供物か」
「差し入れ」
「違いは」
「供物は祭壇に置く。差し入れは食べて」
「食べる必要がない」
「必要じゃなくて、食べてって言ってるの」
神は焼き菓子をひとつ取り、検分し、食べた。世界の法則をひとつ固定した手が、同じ日の夕方には焼き菓子の適切な持ち方を検討している。この丘のスケール感は、今日も正常である。
「……甘い」
「でしょう。お茶と一緒にどうぞ」
神は焼き菓子の残りをひと口食べ、茶を飲んだ。「二杯目は」と、リゼアはポットを掲げた。
「頼んでいない」
「訊いてもいません。どうぞ」
「……この『どうぞ』は、願いか」
「逆。差し入れ。願いの反対語です」
「願いに反対語があるのか」
あるんです、と言いながら、リゼアは二杯目を注いだ。
「飲んでほしいだけ。何も叶えなくていいです」
二杯目が空になった。神はカップを置かなかった。置かずに、炎を見ている。リゼアは気づかないふりを三秒してから、注いだ。
「頼んでいない」
「はいはい」
願いを何でも叶える神が、三杯目のお茶を自分から言えない。リゼアはその横顔を眺めて、今日この瞬間が条約より大きな成果である可能性について考え、考えたことを手帳には書かないことに決めた。
*
三日後、トバイアスが丘を登ってきた。手に、神殿局の印の入った書状がある。
「公式評価が出た」彼は書状を開いた。「『言祝ぎの御神付巫女の配属は、適。継続とする』。……局の言葉で『適』は最上級だ。おれは三十年勤めて二回しか見てない」
「ありがとうございます」
「条約の件も、雨の復旧も、神議の三分割案も、全部評価に入ってる。あんたは歴代のどの巫女より上手くやってる。それは、おれが保証する」
トバイアスはそこで書状を畳み、少しだけ間を置いた。
「……なのに、なんでだろうな。おれは時々、あんたたち二人を見てると、うまくいってることが一番怖い」
「豊穣神様にも似たようなことを言われました」
「神様と同意見なら、おれの勘も捨てたもんじゃない」
「わたしが何かやると思います?」
「あんたは規程の中でしかやらん。おれが怖いのは」トバイアスは丘の上の聖堂を見た。「規程の中でやれることが、あんたたち二人だと、多すぎることだ」
彼は笑って、それきりその話はしなかった。リゼアも笑って、聞かなかったことにした。夕方の丘は静かで、聖堂の中では神が、三杯目の茶のカップをまだ持っていた。
*
同じ日の夕方。麓の神殿局、三階の北端の部屋。窓のない部屋である。書棚がひとつ、机がひとつ、綴りがひとつ。
事務官が、届いた書類を順に綴じていく。事故報告、様式第三号。原因の欄、「巫女の独り言」。日誌の写し。所感の欄に、二重線で消された一行。トバイアスの月次報告と、継ぎ足された三枚の余白。神議の議事録。豊穣神の発言の記録。公式評価の写し。「適。継続とする」。表彰に類する書状の写しも同じ綴りに入った。この綴りは良いものと悪いものを分けない。全部を、時系列にただ綴じる。
条約の写しは入らなかった。条約文書として、別の保全庫へ送られたからである。代わりに、起草の過程で巫女が削らせた語の一覧が入った。恒久。永遠。精神。御加護。削られた語の列は、読みようによってはどんな推薦状より雄弁だった。
綴りの表紙にはこう書いてある。
──言祝ぎの御神付巫女 リゼア・ヴァレス 観察記録 一。
事務官は綴り紐を締め、棚に戻した。棚には、同じ厚さの綴りが並ぶぶんの場所がまだ広く空けてあった。
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