第5話 解釈比べ
東の国境で、二つの国が三年殴り合っている。
その戦争の願文が、束になって届いた。国境の町や村から神殿局に集まった数千通を、局が一本に統合したものである。個々の願文なら統制できる。だが数千人の祈りの最大公約数は、どう束ねても曖昧になる。統合願文の本文は、たった一行だった。
──戦争が終わりますように。
「ひどい願文です」とリゼアは言った。「対象なし、期限なし、方法の上限なし。学生が書いたら再提出です」
「書いたのは数千人の必死だ」トバイアスが言った。「統制のしようがない。だから合同神議になった」
合同神議。複数の神の権能にまたがる願文を、顕現した神々が合同で扱う制度である。リゼアは書類上でしか知らない。前回の開催は六十年前。
会場は麓の大聖堂だった。着任二十日目の巫女が立ち会う格の場ではないが、言祝ぎの神が出る以上、統制担当の同席は規程で義務づけられている。出立前、トバイアスは石段の下でリゼアの肩を掴み、三つだけ言った。喋るな。頷くな。あの方から目を離すな。三つ目だけがリゼアの職務であり、同時に一番の楽しみだという事実を、彼はもう知っていて、知らないふりをした。
(つまり、これは業務。業務です。神様が三柱、同じ部屋に顕現するのを最前列で見る仕事)
祭服の下で心臓が観測記録を取り始めていた。落ち着け。わたしは安全装置。安全装置は、はしゃがない。
戦神は大きかった。天井の高い大聖堂で、それでも天井を気にして立っている。豊穣神は逆に小柄な老婦人の姿で、持参した籠から干した無花果を出して食べていた。神議の開会前に、である。
二柱にも担当の神官がいた。戦神の斜め後ろには軍装の壮年が直立し、豊穣神の傍らには替えの籠を抱えた年配の神官が控えている。目が合うと、二人ともリゼアに小さく会釈をした。同業者の顔だった。それから、リゼアの立ち位置──言祝ぎの御神付きの統制官の位置──を確かめて、会釈が三割ほど深くなった。同業の中にも、配属の格付けというものがあるらしい。最前線扱いである。
「言祝ぎの」と戦神が言った。「久しいな。また文脈を読まずに何か実行したか」
「していない」
「三十年前は冬を消したろう」
「願われたとおりにした」
「それを文脈を読まぬと言うのだ」
「人間が正確に願えば済む」
「何千年それを言っている」豊穣神が無花果を齧りながら言った。「で、そちらの娘が、噂の」
三柱の視線がリゼアに集まった。神学生時代のリゼアなら気絶していた量の視線である。今のリゼアは職業人なので、気絶は後回しにして一礼した。
「言祝ぎの御神付き巫女、リゼア・ヴァレスです」
「噂?」と言祝ぎの神が言った。「何の噂だ」
「家を回した巫女」と戦神。
「回したのは私だ」
「回させた巫女、と言っている」
神議が始まった。統合願文が読み上げられる。戦争が終わりますように。一行が大聖堂の高い天井に吸われて消えたあと、最初に戦神が口を開いた。
「敵軍を退ければよい。東側の補給路を三日断つ。それで前線は下がる。死者は出るが、続けるよりは少ない」
「乱暴だね」と豊穣神。「あの国境が燃えてるのは、二年続きの不作からだよ。飢えを解消すれば、争う理由が減る。時間はかかるが、根が枯れる」
「戦争が存在しなければよいのだな」
と、言祝ぎの神が言った。
一同が止まった。
「待て」と戦神が言った。
「お待ち」と豊穣神が言った。
「中止」とリゼアが言った。
言祝ぎの神は三方向から同時に止められて、わずかに首を傾けた。
「まだ何もしていない」
「するつもりだったでしょう」
「願文には『戦争が』とある。当該の戦争ではなく、戦争が、だ。ならば──」
「中止。その先の言語化も中止」リゼアは統合願文を掲げた。「文言の欠陥は認めます。ですが数千人の祈願者の意図は『東の国境の戦争の終結』です。概念の削除ではありません」
「では、なぜそう書かない」
「書けなかったんです。数千人いたので」
「一人ずつ確認すれば済む」
「三年かかります。戦争のほうが先に終わります」
「ならば私が終わらせれば早い」
理屈が一周して戻ってきた。リゼアは頭痛をこらえる顔をした。横で戦神が、喉の奥で笑い始めていた。
(笑いごとじゃない。この理屈の輪、どこかで切らないと本当に「戦争」が消える。概念ごと消えた世界がどうなるか──どうなるんだろう。軍隊の記憶は。歴史書は。「戦争」という単語は。単語だけ残る? 指すものを失った単語は──見た、い──)
三秒。今回は、三秒の声が少し遅れて来た。場が公式だからではない。多分、慣れてきたからだ。慣れの方向が間違っている。リゼアは頭の中で引き出しを閉め、鍵をかけ、鍵を呑み込んだ。
「提案があります」
リゼアは三柱の前に進み出た。
「統合願文を三分割します。戦神様には前線の抑止を。補給路ではなく両軍の軍用武器を、三日、鞘と留め具と収納から外せなくしていただく。抜けない剣は振れません。死者を出さずに前線が止まります。豊穣神様には根の治療を。国境両側の、次の収穫の保証を。争う理由の半分はそれで枯れます」
「あたしはいいよ」と豊穣神。「で、言祝ぎのには何をやらせるんだい。この子が一番危ないんだろう」
「講和条約の言祝ぎを」
大聖堂が静かになった。豊穣神の無花果を齧る音だけが二回鳴って、止まった。
「戦争は人が終わらせます。ですが講和は破られます。歴代、ほぼ全部。破られるのは、条約が紙だからです」リゼアは言祝ぎの神を見上げた。「両国に条約を起草させ、双方の代表が署名した上で、『この約定が記されたとおりに守られますように』と、共同で願わせます。あなたには、その願いを言祝いでいただく。人が合意し、人が願い、あなたが成就させる。破れない条約になります」
「可能だ」
即答だった。可能だ、の言葉が大聖堂に落ちた瞬間、二柱の神が、同輩の権能に静かに背筋を伸ばした。リゼアはその顔を目に焼きつけた。
「条約文の起草には、わたしが統制で入ります。全条文、三点留めで書きます。曖昧な語はひとつも残しません」
「残したら?」と豊穣神。
「御神は忖度をなさいません。署名された文言は、そのまま成就します。一語の緩みが、国二つぶんの事故になります」
「分かってて楽しそうなのがあんたの怖いところだよ」
それから豊穣神は、言祝ぎの神を見た。
「ところで。コトホギヌスって何だい」
大聖堂の空気が変わった。
「誰から聞いた」
「家を回した巫女の話と一緒に回ってきたよ」
「回したのは私だ」
「そこかい」
リゼアは顔を伏せた。国際紛争より先に解決すべき案件が発生した。
(全条文。三点留め。国家間条約を、願文書式で──それ、多分、人類の誰もやったことがない)
手が疼いた。夜明けまでかけた二十六項目が、懐の中で先輩ぶった顔をしていた。あれは練習だったのだ。本番が来てしまった。
戦神が笑うのをやめた。豊穣神が無花果を籠に戻した。二柱は顔を見合わせ、それから、値踏みの目でリゼアと言祝ぎの神を交互に見た。
「──言葉どおりに成る条約」戦神が低く言った。「使いようによっては、剣より剣だな」
「使いようを統制するのが、わたしの職務です」
「あんたが正気のうちはね」豊穣神は籠を持って立ち上がった。「賛成するよ。賛成するけど、覚えときな、娘。あんたたち二人が今日ここで発明したものは、戦争を終わらせる道具にも、次の戦争の理由にもなる」
神議は三対〇で可決された。
退出間際、戦神がリゼアの前で足を止めた。見上げると首が痛い高さから、声が降ってきた。
「両軍の得物を三日、鞘に錠する。俺の権能の使い方として、数百年で一番地味だ」
「ご不服ですか」
「気に入った。戦を止めた錠は、俺の得物の勘定に入る」
「格好いい……」
とリゼアが漏らした。隣で言祝ぎの神が、わずかに音を立てて条約草案を巻いた。意味は誰にも分からなかった。
戦神は大聖堂の扉の前で振り返り、片手を上げた。
「では、コトホギヌス。条約は任せた」
「その名で呼ぶな」
「気に入ってないのか?」
「非常に」
六十年ぶりの合同神議は、閉会の五秒前に小学生になった。
*
帰り道、丘の石段を、言祝ぎの神はいつもより一段ぶん速く上った。
「今日は二度呼ばれた」
「何に」
「コトホギヌス、と。お前以外から」
「広まっちゃったねえ」
「お前が広めた」
「広めたのは噂です。わたしじゃない」
「発生源はお前だ」
それは事実なので、リゼアは反論を放棄した。代わりに、二段下から神の背中に訊いた。
「怒ってる?」
「怒っていない」
「拗ねてる?」
「その語彙を私は持たない」
リゼアは手帳を出して、本日の欄に書いた。
──神議、可決。条約統制、受任。神様、仮称の件で拗ねる(推定)。
推定、の二文字を眺めて、消して、書き直した。
──拗ねてる。断定。本人に語彙なし。




