第4話 雨を消す
その日は朝から雨だった。
祈願受付日ではない。聖堂の掃除と、記録の整理と、月次報告の起草。巫女の仕事の九割は書類である。リゼアは聖堂の入口近くに文机を出し、雨音を聞きながら報告書を書いていた。神は祭壇の前にいる。いつもの位置、いつもの姿勢。五百年この調子だったのだろう。
屋根のどこかで雨漏りが鳴り始めた。桶を置きに立って、戻って、袖が濡れた。インクが滲んだ。三行書き直しになった。
「雨、嫌だな」
独り言だった。誰に言ったのでもない。強いて言えば雨に言った。
「そうか」
雨音が、消えた。
リゼアは顔を上げた。雨漏りの桶が鳴っていない。窓の外で、雨だけがない。雲は低いままそこにある。庇から落ちかけていた水滴が、落ちて、それきり続かない。世界から音がひとつ抜けて、丘全体が耳鳴りみたいに静かだった。
(──消えた)
リゼアは立ち上がって窓に張りついた。心臓が階段を三段飛ばしで上がっていた。指が窓枠の上で勝手に動いて、観測記録の走り書きを始めていた。爪が石を掻く音で、指の存在に気づいた。
(雨が「止んだ」んじゃない。雲はある。湿度もある。落ちてこない。降るという工程だけが世界から抜き取られてる。どこまで? 谷まで? 郡まで? 雲の中で水はどうなってる。溜まってる? 溜まってるなら、これ戻した瞬間に──見たい。上から見たい。今、雲の中で何が起きてるのか、人類で一人だけ知れる位置に、今、わたし)
三秒だった。三秒で戻った。戻れたことを、後で彼女は自分の手柄のように日誌に書くことになるが、三秒あったことは書かない。
「消すな!!」
「雨は嫌だと言った」
「言った! 言ったけど! あれは願いじゃない、感想!」
「感想」神は初めて聞く単語のように繰り返した。「望ましくない、と言った。ならば望ましい状態は雨のないことだ。私はそれを──」
「中止。復旧。雨を戻してください。今すぐ。元の雲から、元の強さで、元の範囲に」
「よいのか。嫌なのだろう」
「嫌だよ! 濡れるし滲むし! でも麓の畑は今週の雨を計算に入れてる! 貯水池も水車も染物屋も! 雨はわたしのものじゃない!」
神は二秒黙った。
「戻す」
雨音が、途中からではなく続きから始まった。庇の水滴が、さっき落ちそこねた分から落ちた。リゼアは窓枠を掴んだまま、しばらく雨を見ていた。それから桶の位置を直し、文机に戻り、報告書の続きではなく新しい紙を出した。
事故報告。様式第三号。発生時刻、推定範囲、継続時間、復旧措置。書ける欄は全部埋めた。範囲の欄には「不明(雨域の全部)」と書くしかなかった。聖堂の窓から見える範囲の外で、どこまで消えていたのか、確かめる手段が丘の上にはない。
夕方までに、麓から使いが二人来た。水車組合と、郡の観測所である。観測所の帳面には「午前十時過ぎ、降雨、原因不明の中断。約一分」と正直に書いてあった。約一分。つまり観測所がある郡の端まで消えていた。水車組合は原因より補償の話をしたがった。実損が出なかったため、補償は詫び状で落着した。リゼアは両方に、定められた様式で書いた。様式があった。過去にも要ったということである。
「原因」の欄で手が止まった。
原因。巫女の独り言。
書いた。消さなかった。消した跡は残るからではない。これを消したら、次に同じことが起きたとき、様式のせいにできなくなるからである。
書きながら、もう一箇所、手が止まった場所がある。復旧措置の欄。元の雲から、元の強さで、元の範囲に。──もし「元の強さで」を言い落としていたら。消えていた一分ぶんの雨は、どこかに溜まっていた。戻した瞬間、一分ぶんがまとめて落ちる。丘なら水浸し。谷なら鉄砲水である。
指定はしていた。だがあれは判断ではなかった。訓練された口が勝手に言った三つの「元の」に、今日、郡がひとつ救われた。口の手柄は、わたしの手柄ではない。
そのことを所見の欄に書いた。今回は消さなかった。
*
「確認したいことがある」と、その日の終業後、リゼアは階段の二段目に座って言った。「ねえ、コトホギヌス。あなた、いつから独り言を拾うようになったの」
「拾った覚えはない」
「今日拾ったでしょう」
「あれは願いに聞こえた」
「歴代の巫女の独り言は? 五百年、誰も聖堂で愚痴らなかったわけないよね。『腰が痛い』とか『今日は冷える』とか」
神は炎を見たまま、少し考えた。
「聞こえていた」
「叶えた?」
「いや」
「なんで」
「……」
沈黙が長かった。リゼアは待った。待ちながら、頭の中の危険性評価が別の場所で鳴っているのを聞いていた。この沈黙は、燭台の沈黙とも、許可の沈黙とも違う。答えを探しているのではない。答えを見て、置き場所に困っている沈黙だった。
「区別があったわけではない」と、神はようやく言った。「だが、お前の言葉は輪郭が濃い」
「輪郭が、濃い」
「他の者の言葉は、祈りの形をしてから届く。お前の言葉はそのまま届く」
(それは多分、すごく重要な神学的知見で、論文が三本書ける話で、そして多分、それだけの話じゃない)
輪郭の濃さの話を、リゼアは手帳にメモした。メモしながら、頬のあたりが妙に熱いのは雨による湿度のせいだと処理した。処理は三秒で通った。彼女の内部監査は、自分に甘い。
「じゃあ、運用を決めます」リゼアは手帳を構えた。「今後、わたしの言葉で願いなのは、『お願い』と言ったものだけ。それ以外は全部、感想です」
「先日は『じゃあお願い』と言った」
「そう、あれは願い。覚えてるじゃん」
「難しくない」
「よろしい」
「『よろしい』は願いか」
「感想! 評価! 上司ぶっただけ!」
「お前は私の上司ではない」
「知ってます!」
神は少し黙って、それから、条文を確かめる声で言った。
「では、こうか。願いに聞こえても、お前が『お願い』と言うまで、私は実行しない」
「そう。聞こえても、待つ」
「待つ」
神はその一語を、初めて手に取る道具のように置いた。
「分かった」
リゼアは手帳を閉じ、桶を片づけ、帰り支度をして振り向いた。神はまだ炎を見ている。今日、地方の雨をまるごと消して戻した顔ではない。書類の不備を一件処理した顔である。それが妙におかしくて、それから、なぜか少しだけ腹が立った。
「お願いだから、その顔やめて」
神が、こちらを向いた。
「顔を、やめる方法を検討して──」
「中止!! 今のは違う! 言葉のあや!」
「『お願い』と言った」
「言った! 言ったけど! ──制定から二分で穴を見つけるの、やめてくれる!?」
「穴を見つけたのはお前だ」
正しかった。腹立たしいほど正しかった。リゼアは手帳を開き直し、「お願い」の項に但し書きを足した。慣用句を除く。定義、慣用句とは──ペンが止まった。慣用句の定義を、この神に通じる形で書ける気がしなかった。四百年の規程が「はい」の一語に条文を三つ使った理由が、今、身に染みて分かった。書き上げた但し書きは、読み返すと願文より長かった。自分の口ひとつ統制するのに、他人の願文より条文が要る。手帳のその頁を、リゼアは誰にも見せないと決めた。
*
翌日、月次報告を受け取りに来たトバイアスは、事故報告の綴りを読んで、長いこと黙っていた。
「……復旧まで、どれくらいだった」
「体感で一分弱です」
「一分」彼は書類を置いた。「三十年前は、冬が戻るまで八ヶ月かかった。歴代のどの巫女より速い。それは分かってる。分かってるんだが」
トバイアスは、そこで初めて書類からリゼアの顔に視線を移した。
「あの日、家が回った朝もそうだった。あんた、事故の話をするとき、怖がってる顔と違う顔をする」
「そうですか?」
「三十年前の巫女は、事故のあと辞職願を出した。前の前の巫女は、聖堂に入れなくなった。あんたは」トバイアスは綴りの、原因の欄を指で叩いた。「翌朝、雨の消え方の考察を三枚、報告に添付してきた」
「観測は復旧の役に立ちます」
「三枚のうち二枚は復旧と関係なかった」
リゼアは黙った。トバイアスは息をひとつ吐いて、綴りを手の中で揃えた。
「事故を怖がる巫女なら、五百年ぶん見てきた」彼は綴りを閉じた。「事故を見逃すのを怖がってる巫女は、初めて見る」
リゼアは何か言おうとして、やめた。否定の言葉が、口の手前で引っかかった。この口は規程には速いくせに、嘘には遅い。
トバイアスは月次報告を抱えて、雨上がりの石段を下りていった。局に戻り書こうとすると、「所見」の欄は足りなかった。彼は三枚目の余白を、糊で継ぎ足した。




