第3話 初の私的祈願
官舎の寝室は北向きである。
リゼアは三晩、我慢した。我慢というのは、つまり三晩考え続けたということである。朝の寒さで目が覚めるたび、頭の中の起草室に灯がともり、対象、期限、方法の上限、と手が動き出す。四晩目、リゼアは寝るのをやめて机に向かった。
──願文(私案・第一稿)。対象:当官舎の寝室。内容:南向きであること。
読み返して、赤で線を引いた。
「『南向きであること』は状態の指定であって願望文の体裁を欠く。書き直し」
第二稿。「当官舎の寝室が、南向きになりますように」。
「方法の上限がない。却下。あなたそれでも統制課程の修了者ですか」
第三稿。対象、期限、方法の上限、周辺への影響の除外、可逆性の担保。一語ずつ締めて、緩みを全部殺した。書き上がった時、窓の外が白み始めていた。字は、後半になるほど良くなっていた。興が乗ると字が良くなるのは養成院時代からの計器である。教官はそれで彼女の答案の危険度を測っていたという。
完成した願文を、リゼアは機嫌よく眺めた。完璧である。査読に出せば三人とも印を捺す。
それから私物の印箱を出した。養成院の修了記念に、学生は皆、教官の真似をして「却下」の印を彫る。使い所は一生来ないはずの記念品である。リゼアは第一稿と第二稿に、それを丁寧に捺した。深夜の官舎で、彼女はひとりで起草者であり、査読者であり、祈願者だった。三権は分立していなかった。
提出先が、ない。
正規の窓口は麓の神殿局。起草資格は神官。祈願者本人による持ち込みは不可。ましてや担当巫女本人の私的祈願など、様式のどこにも想定されていない。想定されていないということは、禁止とも書かれていないということだが、その理屈を口に出す人間を統制課程では最初の学期に矯正する。
リゼアは願文を綴りに挟み、二秒後に抜き取り、懐に入れた。
*
翌日の勤務が終わった。終業の式文を唱え、帳簿を閉じ、リゼアは宣言した。
「勤務時間、終了しました」
「うむ」
「ここからは勤務外です」
「先ほど聞いた」
祭壇の前の神は、燭台の炎を見ている。リゼアは階段の二段目に腰を下ろした。勤務中は決してしない座り方である。
「ねえ、コトホギヌス。あなたって、何でも叶えられるの?」
「概ね」
概ね。
(概ね。概ねと言った。限定条件が権能側にほぼ無い。つまり月。海の底。冬の海が凍る瞬間を真上から。世界の端があるならその端)
目録の一段目には、そういう明るいものが並ぶ。その下に、普段は鍵を掛けている引き出しがある。
(痛覚を一日だけ切ったら、何が分かる。夢を外側から見たら。一晩だけ死んで朝に戻ってきた巫女は、記録上いない──記録がないだけかもしれないけど)
「そう」と、口は言った。涼しい顔の下で、鍵の掛かった引き出しが三つ、音もなく開いていた。
「先日の問いに」と神が言った。「答えを聞いていない」
リゼアは階段の二段目で少し黙った。お前の願いなら、見たいのか。あの日、式文の陰に逃げ込んだ問いである。神は忘れていなかった。この神は多分、何も忘れない。
嘘は多分すぐ分かる。それに、勤務時間は終了している。
「見たいよ」リゼアは言った。「全部見たい。湖が消えるところも、冬が消えるところも、本当は全部、この目で見たかった。事例集を読むたびに、現場にいた巫女を歴代全員、心の底から羨んでた。──これ、担当巫女として最低の告白だけど」
「なぜ最低なのだ」
「わたしの仕事は、それを見せないことだから」
神は炎から視線を外して、リゼアを見た。長い沈黙が来る、と身構えた。来なかった。
「私の権能を見たいと言った人間は、お前が初めてだ」
「五百年で?」
「五百年で」
神はそこで、何かを続けようとした。リゼアの目を見てやめた。五百年で初めて、権能の側ではなく相手の側を測る間だった。リゼアは気づかなかった。
「もったいない」心の底から言った。「じゃあ、早速なんだけど。寝室を南向きにして」
「寝室?」
「朝寒いから」
「家を動かせばよいか」
「できんの?」
「できる」
懐には完璧な願文がある。対象、期限、方法の上限、影響除外、可逆性。二十六項目。夜明けまでかけた渾身の統制文書。リゼアはそれに指をかけ──かけたまま、口が先に動いた。
「じゃあお願い」
「よい」
口。この口。訓練された口が、自分の願いの時だけ規程より速い。
*
翌朝、官舎が180度回転していた。
リゼアは玄関を出て三歩歩いて、止まった。見慣れた巡礼路が、ない。目の前にあるのは裏の雑木林である。振り返ると、玄関の上の庇の欠けがいつもと逆側にあった。
(回った)
心臓がひとつ、大きく鳴った。恐怖の鳴り方ではなかった。
(基礎ごと回ってる。継ぎ目がない。土台の石組みごと、正確に180度。壁に亀裂ゼロ。井戸への管、通ってる──どうやって? 水盆の水が、こぼれてない。棚の胡椒の瓶、倒れてない。つまり回転中の慣性を、まるごと、どこかへ)
リゼアは庇の下で、胡椒の瓶を掲げたまま立ち尽くした。人類の建築史と土木史が、昨夜、この丘の中腹で音もなく追い抜かれた。目撃者はゼロ。記録はなし。彼女は寝ていた。
(寝てた!! わたしは寝てた!! 人類初の瞬間に、当事者が、寝てた!!)
それから家に駆け戻り、寝室の窓を開けた。南だった。朝日が寝台の足元まで届いていた。感動的に暖かかった。窓枠に頬をつけて三秒、日向の匂いを堪能した。
それはそれとして。
庭を見た。南向きの庭だった。だから寝室と一緒に回って、今は北向きである。日陰に沈んだ薬草の鉢が、既に若干元気がない。
「庭が逆になった!!!!」
聖堂まで階段を駆け上がった。神は昨日と同じ位置に立っていた。
「寝室は南を向いた」
「向いたよ! 完璧に向いた! 庭ごと!」
「庭も家の一部であろう」
「庭は日向にあるから庭なの! 薬草が全滅する!」
「では願いは『寝室が南、庭も南』だったのか」
「──」リゼアは口を開け、閉じた。閉じたまま、頭の中で自分の完璧な願文の第十四項が音読された。『付帯物(庭・物置・井戸)の日照条件は現状を維持すること』。書いた。書いたのだ。読み上げなかっただけで。「……わたしの負けです。完璧。文句なしに完璧。庭だけ戻せる?」
「可能だ」
「最高じゃん」
庭が回った。今度は起きて見ていた。音はなかった。地面のある半径だけが、皿の上の皿みたいに、するりと九時の方向へ滑って、薬草の鉢が日向に戻った。継ぎ目は、しゃがんで探しても見つからなかった。
しゃがんだまま、リゼアはしばらく動かなかった。動けなかった、が正しい。指先で継ぎ目のない土を撫でて、統制課程五年で習った全部の危険性評価が頭の中で悲鳴を上げているのを聞きながら、彼女の芯のところは、静かに、完全に、満たされていた。
「おい! おいリゼア! 家が! 家が回って──」
丘の下からトバイアスが駆けてきたのは、その時である。彼は回転した官舎を指差し、庭を指差し、聖堂を指差し、最後にリゼアを指差した。
「あなたが止める側でしょう!?」
「業務は完璧に止めてます」
「業務外が回ってる!!」
トバイアスはその場で報告書の下書きを始め、すぐに手が止まった。事故報告の様式第三号には「被害」の欄がある。被害はない。庭は戻った。建物は無傷。むしろ寝室の日当たりは改善した。「巫女の私的祈願」を書き込む欄は、様式のどこにもない。様式にない出来事を、彼は震える手で余白に書いた。余白に書かれたものが後でどこへ綴じられるのか、この時のトバイアスは知らない。
*
夕方、リゼアは聖堂に戻って、階段の二段目に座った。
「今日のあれ、記録取らせて。回転の。次があるなら角度と所要時間を測りたい」
「次があるのか」
「わたしに訊く?」
それから、と身を乗り出した。
「ひとつ確認。回転の間、慣性はどこへやったの。水盆の水、こぼれてなかった」
「受け止めて、逃がした」
「どこへ」
「人の言葉に、その場所の名はない」
リゼアは階段の二段目から立ち上がっていた。立ち上がったことに、本人が気づいていなかった。
「見せて」
「見せられる。ただし、人の知覚は戻れなくなる恐れがある」
「どのくらいの恐れ?」
「三に一つ」
リゼアは考えた。考える顔が、速かった。三秒の中に、統制課程の危険性評価と、養成院の倫理規程と、残りの人生でそれを見られる機会の期待値が全部載って、全部量られた。
「……今度でいい」
断念した顔ではなかった。日程を後ろへずらしただけの顔だった。神は肯いた。
「決まれば言え」
止める側の台詞を言う者は、今夜この聖堂にはいなかった。
神は少し考えた。それから、炎のほうを向いたまま言った。
「他には」
「ん?」
「願いは、他には」
「今日はもういいよ。庭も戻ったし」
「そうか」
間があった。
「そうか」
同じ言葉がもう一度落ちた。リゼアはそれに気づかなかった。懐の中では、読み上げられなかった二十六項目の願文が、次の出番を待っていた。
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