第2話 初仕事
祈願受付日は月に二度ある。リゼアの着任から五日目が、その一度目だった。
朝のうちにリゼアは堂内を検めた。床、祭壇、燭台。燭台は今日も、定規で引いたように揃っている。あの夜以来、崩れたのを見たことがない。指二本ぶん動かしたらどうなるのか、という考えを、リゼアは職務倫理の名の下に毎朝押し入れにしまっていた。
受付といっても、聖堂の扉が開いて行列ができるわけではない。この神殿への祈願は、麓の神殿局で起草され、三人の神官による査読を通った正式願文だけが取り次がれる。今日の願文は一通。査読には四十日かかっていた。
「四十日」と、リゼアは書類を確かめながら言った。「早いですね」
「早い」引き継ぎ──もう引き継ぎは終わったので、正確には麓から付き添いに来た神官のトバイアスは、うなずいた。「前回の願文は査読に二年かかった。起草した神官が途中で隠退した」
願文の内容は、こうだった。
──北の谷のマルタの息子ヨエルの、骨の病より生じる痛みが、収穫祭までの間に、人の医術の及ぶ範囲を超えぬ速さで、和らぎますように。
対象の明確化、期限、方法の上限。教本どおりの三点留めがしてある。
いい願文だった。リゼアは無意識に二度読んだ。締まった限定句。逃げ道のない期限。それでいて祈りの体温が残っている。名文である。四十日は伊達ではない。三度目を読み始めたところで我に返った。願文に見とれる巫女がどこにいる。
リゼアは末尾の査読印を確かめ、祈願者の待つ控えの間に入った。
マルタは固い椅子の端に浅く座っていた。北の谷から丘まで、歩いて二日。息子は来ていない。歩ける状態なら、そもそもこの願文はないのである。
「あの」とマルタは言った。「御神は、その、お怒りになったりは」
「なさいません。あの方は願文に、あなたの村の誰よりも真剣に向き合います」リゼアは書類を膝に置いた。「問題は真剣さの向きだけです。そこはわたしが見ます」
「手順を説明します」リゼアは向かいに座った。「堂内では、わたしが願文を読み上げます。あなたは後方の柵の内側で見届けてください。そして、これが一番大切ですが──何があっても、一言も喋らないでください」
「祈りの言葉もですか」
「祈りの言葉こそ、です」
マルタは分かったと言った。分かっていないな、とリゼアは思った。座学で百回聞いた自分でも、あの聖堂に入って三分は口の中が乾いた。素人が我が子の話をされて黙っていられる方がおかしい。だから、立ち位置を変えた。マルタを柵の内側ではなく、堂の外の、扉を細く開けた位置に立たせた。規程では柵の内側まで認められているが、認められていることと安全なことは別だった。
読み上げはつつがなく終わった。
「──以上を、言祝ぎたまえ」
祭壇の前の神は、最後の一句まで動かなかった。それから、言った。
「承知した。この者から苦しみをなくせばよいのだな」
「待ってください」リゼアは顔を上げた。「具体的に、何をするつもりです?」
「苦痛を知覚する能力を──」
「中止」
「まだ最後まで言っていない」
「言い切ったら実行しそうなので」
神は口を閉じた。不服そうな沈黙ではなかった。手続きのどのマス目で止められたのかを、盤面を戻して確かめている沈黙だった。リゼアは書類を一枚めくり、規程の文言どおりに続けた。
「実行方法の候補を、実行の前に、口頭で示してください。三つまで」
「一。苦痛の知覚を、当該の者から取り除く」
「却下します。願文の対象は『骨の病より生じる痛み』です。痛み全般ではありません」
「二。骨の病を、世界からなくす」
リゼアはペンを止めた。
「規模の確認を。『世界』とは」
「世界だ」
沈黙が落ちた。扉の隙間で、マルタが息を呑む音がした。
(見たい)
思考より先に、それは来た。
(見たい見たい見たい見たい。病がひとつ、世界から、消える。開闢以来多分誰も観測していない。それが今、ここで、目の前で、追加の手続きなしで)
病がひとつ消えた世界で何が起きるか、正確に予測できた神学者は歴史上ひとりもいない。神学生リゼアはあの分厚い事例集が大好きだった。今なら分かる。あの禁欲的な報告書は全部、たった一行の悲鳴を我慢して書かれている。見たかった、という悲鳴を。四百年ぶんの先輩たち。わたしは今、あなたたちの誰より現場にいます。
「却下します」
口が言った。訓練とは素晴らしいものである。魂がどこを向いていても、口が規程を読み上げる。
「願文の範囲外です。三番を」
「三。当該の骨の病の治癒を、人の医術の及ぶ範囲を超えぬ速さの上限まで、早める」
願文の文言と一語ずつ突き合わせる。対象、範囲、期限、速さ。ずれはなかった。ここで「はい」と言えば早いのだが、その一語だけは、この聖堂で一番高くつく。
リゼアは息を吸って、許可文を読む調子で言った。
「第三案を、願文の記載の範囲に限り、許可します」
「──許可」
神が繰り返した。単語の重さを量り直すような言い方だった。リゼアは書類から顔を上げなかった。
「規程の用語です」
「言祝ごう」
それだけだった。光も、鳴動も、なかった。神が一度まばたきをした──ように見えた──だけで、堂内の空気は何も変わらなかった。変わったのは北の谷のヨエルの骨の中で、それはここからは見えない。
「成就は」とリゼアは訊いた。
「始まっている。完了は収穫祭の九日前」
「確認しました。──祈願者の方、以上です」
扉の隙間からマルタが転がるように入ってきた。柵の手前で膝をつき、床に額をつけ、それでも言いつけどおり、何も言わなかった。声を出さずに泣くのは、喋るより難しいはずだった。リゼアは彼女を助け起こして、堂の外まで送った。
「不思議なもんです」と、外の光の中でマルタは言った。「怖い怖いと聞かされて来ましたけど、お会いしたら、その──真面目な、お役人様みたいで」
「概ね正しい理解です」
「巫女様は、怖くないんですか」
「怖いですよ」リゼアは丘の下の畑を見ながら言った。「規程と同じくらいには」
マルタは笑っていいのか分からない顔をした。それから、息子の顔でも思い出したのだろう、ふっとほどけた。
「ありがとうございました。ああ──こんな日が、ずっと続けばいいのに」
「本日を恒久化──」
「中止!」
リゼアは振り向きざまに言った。聖堂の奥から、神の声が律儀に止まる。マルタは目を丸くして、口を両手で塞いだ。
「……今の、わたしですか」
「そうです。だからお伝えしたんです、祈りの言葉こそ、と」リゼアは息を吐いた。「大丈夫です。止まりましたから」
マルタは丘を下りるまで、二度と口を開かなかった。見送ってから、リゼアは聖堂に戻った。神は祭壇の前で、さっきと寸分違わぬ姿勢で立っていた。
「今日は二度、止められた」
「二度とも規程どおりです」
「知っている。願文統制規程、第七条と第十一条」神は言った。「歴代の巫女は、第七条を使わなかった。方法を問わず、成就だけを受け取った」
「それで湖が消えたり、町が眠ったりしたわけですよね」
「私は願われたとおりにした」
「存じています」リゼアは書類を閉じた。「だから方法を伺ったんです。あなたは訊けば答える。訊かれなかっただけで」
「それと」と神は言った。「今日の言葉遣い。『許可します』。あれは何だ」
「願文統制規程の定める文言です。第九条」
「誰が、誰に、許可するのだ。私はお前の祈る相手だぞ」
「存じています。ですから規程は、わたしがあなたを許可するとは書いていません。わたしが許可するのは『実行』です。あなたではなく」
「実行するのは私だ」
「実行なさる前のあなたは、まだ何もなさっていません。まだ起きていないことを止めるのは、あなたを止めることではありません」
神は沈黙した。今度の沈黙は、これまでで一番長かった。リゼアは待った。この理屈が四百年の査読に耐えてきたことを、彼女は知っている。神学院の廊下で「詭弁の第九条」と呼ばれていることも知っている。
「……詭弁だ」
「神学です」
「同じことを言っている」
それきり神は許可の件を蒸し返さなかった。ただ、この日から神は「許可します」を聞くたびに、一拍だけ間を置くようになる。納得していない一拍である。
神はしばらく黙っていた。長い沈黙には、もう慣れ始めていた。
「お前は、最後まで言わせない」
「言い切ったら実行なさるので」
「先ほどの二番」と神は言った。「惜しくはなかったか」
リゼアは書類を抱えたまま、少しだけ間を置いた。この神は社交辞令を言わない。つまりこれは本物の質問で、嘘は多分すぐ分かる。
「惜しかったですよ。世界から病がひとつ消えるところ、見たかったです」
「では、なぜ」
「わたしの願いじゃないからです。今日のは、マルタさんの願文なので」
神は、わずかに首を傾けた。今日いちにちで初めての、姿勢の変化だった。
「お前の願いなら、見たいのか」
その質問は規程のどこにも載っていなかった。リゼアは答えずに一礼して、退出の式文を唱えた。完璧な古形で。便利なものだ、と唱えながら思った。式文の間は答えなくていい。
退出の間際、リゼアは一礼して言った。
「おつかれさまでした、コトホギヌス」
「その呼称を、私は承認していない」
「異議として記録します」
「するのか」
「しません」
その晩、リゼアは官舎で日誌を書いた。処理一件、制止二件、いずれも規程内。所感の欄でペンが止まった。記載要領には「業務上の所見を簡潔に記す」とある。虚偽を記せとは書いていない。
──第二案、見たかった。
書いて、二重線で消した。公文書なので、消した跡は永久に残る。まあいい。こんな丘の上まで監査が来るとも思えない。
書き終えて、白紙の願文用紙が一枚、綴りに残っているのに気づいた。
対象の明確化。期限。方法の上限。書式は、もう手が覚えている。
リゼアは用紙を裏返して、日誌を閉じた。五秒待って、もう一度めくった。
──書くだけなら、規程違反ではないのでは?
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