第1話 配属初日
言祝ぎの神の神殿は、街道の尽きた丘の上にぽつんと建っている。
巡礼路に人影はなかった。石畳は綺麗に掃かれているのに、道の両脇に並ぶ売店はどれも鎧戸を下ろしている。看板だけは残っていて、「祝福の蝋燭」「聖句の護符」と読めた。商売として成立していた時代が、少なくとも一度はあったらしい。
丘を登り切ったところでリゼア・ヴァレスは足を止め、汗を拭いて、辞令をもう一度確かめた。
──言祝ぎの御神付き巫女を命ずる。
驚きはなかった。この職に就けるのは、養成院の最難関課程「神意翻訳・願文統制」を修めた者だけと定められている。言語、法文、古典、即興判断、権能理解、危機対応。修了審査の最終項目は、模擬の神託を前にして「待ってください」と言えるかどうか。今年の課程修了者は二人いて、もう一人は最終審査で「御神の御心を疑うことはできません」と答え、その敬虔さゆえに落ちた。リゼアは受かった。成績表の隅に教官がこう書いたことも知っている。
「優秀。ただし本人に使うな」
門の内側で、初老の神官が待っていた。引き継ぎ担当だという。彼は歩きながら、早口で説明した。
「祈願の受付は月に二度。正式願文以外は取り次がない。願望を口にしない。御神のお言葉には即答しない。特に『はい』『ええ』『それでお願いします』は禁句だ。それから」
「復唱します。取り次がない、願わない、即答しない、肯定しない」
「……養成院の首席だったそうだな」
「次席です。首席は健康を理由に辞退したので」
「賢明な首席だ」
石段の途中で、神官は一度だけ足を止めた。
「危険が二つあることは教わったか」
「はい。願望の言葉は、それ自体が祈願として拾われる。御神が解釈を口にされたときは、こちらの肯定が実行の許可として拾われる──と、座学では」
「座学は正しい。三十年前、参拝客の世間話に付き合った巫女がいた。『早く春が来るといいですね』」
リゼアは続きを待った。神官は先に歩き出しながら言った。
「その年、この地方に冬が来なかった。麦が全滅した」
「言ったのは、参拝客のほうですか。巫女のほうですか」
「巫女だ。だから規則になった」
「御神は」
「悪くない。願われたとおりにした」
それきり神官は口をつぐんだ。この神殿の勤めの要点は、多分今の沈黙のほうにある。神官は聖堂の扉の前で立ち止まり、扉には触れずに一歩下がった。
リゼアは痛ましい顔でうなずいた。教本にも載っている大事故である。飢えが出た。二度と起きてはならない。
(──気候を。地方単位で。世間話で。)
痛ましい顔の下の、誰にも見せたことのない部屋で、何かが静かに拍手をしていた。
「前任は?」
「三日で逃げた」
「何があったんです?」
「何も。何も起きないうちに逃げた。あれが一番正しい」
彼は本気で言っていた。リゼアは一礼して、扉を開けた。
聖堂の中は広く、暗く、静かだった。天井は高く、細長い窓から落ちる光が床の石を斑に照らしている。祭壇の前に、男がひとり立っている。長身で、祭服は何世代も前の様式。顔立ちは整っているというより、整いすぎて年齢の見当がつかない。人の形はしているが、人がそこに立っているときに必ず出る音──衣擦れや、呼吸や、体重が床を押す気配──が、なかった。
(本物だ)
リゼアは膝を折りながら、胸の中で手早く自身の状態を確認した。畏怖、規定量。緊張、規定量。それから、あってはならない成分──玩具屋の前の子供と同じもの──が、規定量の三百倍。
(落ち着け。わたしは安全装置。安全装置は、はしゃがない)
リゼアは膝を折り、着任の式文を最初から最後まで、一音も崩さず述べた。祭祀言語の古形。養成院で五年やらされた甲斐はあった。
男は最後まで聞いた。式文の間、一度も動かなかった。像のように、ではない。像なら埃が積もる。この男の周りにだけ、時間の側が遠慮している感じがあった。
式文が終わると、神は言った。
「願いを述べよ」
「本日は着任のご挨拶です。祈願ではありません」
「そうか」
会話が終わった。神は祭壇に向き直りかけている。取り付く島もない、というのとは違う。用件が済んだから次へ行く、それだけの動きだった。五百年、この聖堂に来る人間の用件は、多分ひとつしかなかった。
リゼアは立ち上がって埃を払った。
「お名前を伺っても?」
「人は私を言祝ぎの御神と呼ぶ」
「それは神号ですよね。お名前は?」
神の視線がこちらに戻ってきた。値踏みというより、書式の間違いを見つけた審査官の目だった。
「教える必要はない」
「分かりました。では仮称をつけます」
「必要ない」
「コトホギヌス」
沈黙があった。存在してから今日までの間に一度も想定しなかった事態に直面した者の沈黙、というものを、リゼアはこのとき初めて見た。
「……何だそれは」
「言祝ぎの神なので」
「やめろ」
「コトホギヌス様」
「やめろと言っている」
「様は不要でしたか。ではコトホギヌス」
「戻せと言っているのではない」
リゼアは手帳を開き、着任日の欄に日付を書き、その横に「呼称:コトホギヌス(仮)」と書いた。神は祭壇を離れ、手帳を覗き込んだ。
「消せ」
「では本名を教えてください」
「教えぬ」
「じゃあコトホギヌス」
「なぜ二択なのだ」
「呼びかけの言葉がないと、業務に支障が出るからです」と、リゼアは手帳を閉じた。「祈願の最中に『あの』とか『ええと』で神をお呼びするほうが、よほど不敬だと思いますが」
神は黙った。反論の穴を探している沈黙だと分かったので、リゼアは待った。長かった。人間より長い時間で物事を考える相手を待つのはこの仕事の基本だと、初日のうちに理解できたのは収穫だった。
「……好きにしろ」
「はい、コトホギヌス」
「様をつけろ」
「さっき不要と仰いました」
「言っていない」
聖堂を辞す前に、リゼアは形式どおり、明日以降の勤務予定を読み上げた。神は聞いているのかいないのか、祭壇の燭台を見ていたが、読み上げが終わると言った。
「先ほどの式文。古形の発音に誤りがなかった」
「養成院で仕込まれましたから」
「五百年、誤りのない式文を聞いていない」
いいですね、と言いかけて、リゼアは舌の上で言葉を止めた。何がどう「よく」なるのか、この神の前では曖昧すぎる。
「それは」リゼアは少し考えた。「褒めていますか?」
「事実を述べた」
「では、こちらも事実を。あなたの祭壇、燭台の位置が左右で指二本ぶんずれています」
神は燭台を見た。それから、ずれを直すでもなく、リゼアを見た。
「五百年、誰も言わなかった」
「みなさん、床しか見ていませんから」
前任者たちの気持ちは、リゼアにも分かる。この神の前に立って顔を上げ続けるのは、理屈の上では危険なことだ。この神が何をできるか、彼女は史料で知っている。湖がひとつ消えた記録も、ある町の住人全員が三日間眠り続けた記録も、原文で読んだ。恐れない理由はどこにもない。
ただ、必要以上に恐れる理由も、どこにもない。記録を読む限り、この神は一度も、願われていないことをしていない。
「明日からよろしくお願いします、コトホギヌス」
「『よろしく』とは何だ」
リゼアは扉に伸ばした手を止めた。
「何を、どの範囲で、いつまでに成就すればよい」
「何も成就しなくていいです。挨拶なので」
「では、なぜ願いの形をとる」
神は真顔だった。冗談を言う顔ではなく、書式の不備を差し戻す顔だった。リゼアは扉の前で三秒考え、この問いに正面から答えられる神学者を、少なくとも五人は知らないことを認めた。
「……明日、続きをやりましょう」
「うむ」
丘を下りる帰り道、リゼアは考えた。あの神は、人間の言葉をぜんぶ受け取ってしまうのだ。挨拶も、社交辞令も、口約束も、全部。
──それは。
リゼアは丘の中腹で立ち止まった。
それはちょっと面白すぎるのではないか。
翌朝、神殿の門前で引き継ぎの神官が青い顔をして待っていた。
「昨日、御神に何を言った」
「ご挨拶を」
「聖堂の燭台が、夜のうちに全部、一分の狂いもなく並べ直されている」
「直したんだ」リゼアは思わず素で言った。「負けず嫌いですね、コトホギヌス」
「……コトホギ、何だって?」
説明すると長くなるので、リゼアは笑顔で門をくぐった。勤務二日目である。
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