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言祝ぎの神は願い方を知らない ~世界を変える神と、願いが尽きないエリート巫女~  作者: 深井利用


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第34話 観察、続行

移転騒ぎがひと月かけて収まった頃、局から一通の文書が届いた。


──特別監察に関する最終の整理。


リゼアは聖堂の文机でそれを読んだ。隣では神が、届いたばかりの願文の箱を検めている。読み上げる声と頁をめくる音の間隔が、半年前の呼吸にもう戻っている。戻った上で、半年前にはなかったものが、同じ堂内にいくつも増えている。生垣の木戸。十二歩の道。実験ではない手。


文書の整理は三項だった。


一、配属は一度「不適」と判定された。本判定は、取り消されない。判定時の事実認定に誤りはなかったためである。


二、その後、受理番号第一号願文の成就として、例外的に再配属が行われた。本件は判定の取り消しではなく、新たな事実にもとづく新たな配属である。


三、新たな配属下の両者の関係については、前例が存在しないため判定を行わない。観察を続行する。


「……だって」


リゼアは文書を掲げた。神は願文の箱から顔を上げ、三項を読み、言った。


「正確だ」


「正確だね」


正確だった。腹立たしいほど正確だった。不適は不適のまま、取り消されない。わたしたちは無罪になったのではない。あの判定の正しさごと、新しい事実で上書きしたのだ。制度は間違っていなかった。わたしたちも、間違っていなかった。両方が正しいまま、世界の側が頁を一枚めくった。それ以上の決着を様式に求めるのは、多分、欲張りというものだった。


文書の末尾には、事務連絡が一つ付いていた。受理基準の改正——第三条の「恒久的」の削除と、第四条の修正勧告手続き、通称第三の札が、評議を通過したという。施行は来季。北西の村の件から数えて一年近くが経っていた。規程は過去を救えないまま、次の誰かのための形になった。


リゼアは文書の写しを、手帳の業務の欄に貼った。貼ってから、少しだけ村の方角に頭を下げた。様式にない礼だった。


もう一枚、統制課経由の照会も届いていた。読んで、リゼアはカップを静かに置いた。


他神殿から問い合わせが二件。「神による祈願」の、手続きの詳細について。


二件である。もう、二件。火神が、海神が、戦神が、いつか願いを持ったら。その願文を誰が統制するのか。統制できる保証はどこにあるのか。わたしたちの願文は、わたしたちだから通せた──と言えるのはわたしたちだけで、様式は、そういう言い分を聞かない。前例は作られた。通ったものは、いつか様式になる。様式になったものは、いつかわたしじゃない誰かも使う。


海の底で自分が言った言葉が、いちばん大きい形で返ってきていた。リゼアは照会への回答を、三日かけて慎重に書いた。書きながら、豊穣神の古い警告が頭の隅で静かに座り直すのが分かった。あんたたち二人が発明したものは──。発明はもう、二つになっていた。


月の石も戻ってきた。保管庫の夜勤の係が、布の下で満ち欠けする何かと同室で夜を過ごすのは心臓に悪い、と正式に申し立てたためである。申立書の区分は「保管環境不適合」。石は官舎の机に戻り、文鎮に復職した。布は、月のない夜だけ外される。


*


翌週、ヴォスが丘に来た。監察ではない。観察記録三の、定期の実地である。帳面は相変わらず美しく、質問は様式の順で、茶は、今回は最初から三つ分用意しておいた。


「御神の変化について確認します」ヴォスは定例の問いを読み上げた。「直近の変化を、ご自身の言葉で」


「うれしい、という語を使えるようになった」


神は、事実を述べた。ヴォスのペンが、一瞬だけ、紙の上で止まった。止まって、動いて、正確に、書いた。観察記録三、本日の頁。対象の申告、原文のまま。


「他にはありますか」


「腕の本数を変更するようになった。能力は以前からある。使う理由ができた。通常の運用は、二本である」


ペンが、今度は二秒止まった。質問は来なかった。来ない代わりに、帳面に細い線が一本増えて、新しい欄ができた。欄の名は、こちらからは見えなかった。見えなくてよかった、と、リゼアは茶を飲みながら思った。


「……以上で、定例の確認を終わります」帳面が閉じられた。ヴォスはカップを手に取った。「様式外の所見を、一つ」


「どうぞ」


「本観察は──」監察官は、湯気の向こうで言葉を選んだ。選ぶのに二秒使った。この人の二秒は、他人の半日である。「──終了の様式を持ちません。判定の予定もありません。つまり、永く続きます。……永く続く観察には、観察する側にも、覚悟が要ります」


「覚悟、ですか」


「対象を永く見るということは」ヴォスは茶を一口飲んだ。「対象の変化を、永く、見届けるということです。わたしは様式の人間ですが、この仕事のその部分だけは──様式の外にあると、知っています」


見届ける。


判定しない観察は監視ではなくて、多分、証人に近い。この人は、わたしたちの証人を、職務の顔で引き受け続けてくれるらしい。リゼアは二杯目を注いだ。注がれた側は、一礼して、受けた。


「──良い茶です」


二度目の感想は、一度目と同じ言葉で、少しだけ温度が高かった。


*


その晩、リゼアは手帳の、新しい頁を開いた。


書かない欄でも、まだ書かない欄でもない、ただの白い頁である。ペンを持って、しばらく考えて、一行書いた。


──名のない場所、見に行く日、決める。


書けた。書いても、世界は何も起こさなかった。願いの形にしなかったからである。形の統制は、もう、呼吸でできる。できるようになったから、次へ行ける。


聖堂へは、寝間着に外套で、十二歩だった。


「イル。起きてる?」


「眠るという機能を、持っていない」


「知ってた。──あのね。名のない場所。慣性の逃げてく、あの場所。見に行く日、決めようと思う」


神は、燭台の炎から、こちらへ向き直った。


「三に一つ、だぞ」


「知ってる。だから願文を書く。知覚の帰還条項、全部盛りで。半年かけて書く。あなたにも査読してもらう。ヴォスさんにも帳面に書いてもらう。全部、様式の上でやる。……その上でね」


リゼアは、生垣越しの星を見た。


「それでも残る三に一つは、残したまま、行く。残したままで行くことを、わたしが選ぶ。それが多分、わたしの願いの、正しい書き方だから」


「──うむ」


神は止めなかった。止めない、を、選んだ。選んだ顔は、五百年ぶん落ち着いていて、落ち着きの底の方だけ、カップ二つぶん、人間くさかった。


「決まれば、言え」


「決めたら、お願いって言う」


「うむ。……待っている」


待っている、を、この人はもう言えるのだった。


「ところで」と、神は続けた。「寝間着で外に出るのは、冷える」


「十二歩だもん」


「十二歩ぶん、冷える」


「……温めてって言ったら、どうするの」


「訊き返す。『それは願いか』と」


「言わなーい」リゼアは木戸に手をかけた。「おやすみ、イル」


「うむ。……おやすみ」


おやすみ、が返ってくるようになったのは、いつからだったか。目録は作らない。作らなくても、全部覚えている。


*


同じ夜。麓の神殿局、三階の北端。窓のない部屋。


観察記録三の、本日の頁が綴じられた。対象の申告、うれしいという語の獲得。所見、特記事項──の欄で、ヴォスのペンは、いつものように一秒止まり、いつものように、様式外の小さな一行を、余白に書いた。


──対象は変化を続けている。観察は、幸い、終わらない。


幸い、の二文字は、どの様式にもない語だった。ない語を、監察官は消さなかった。消さない跡が、この綴りには少しずつ増えている。棚の三冊目の隣の空きは、まだ広い。埋まっていく予定が、どこまでも続いていた。

お読みいただき、ありがとうございます。

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