最終話 茶缶
新任の神官は、着任三日目である。言祝ぎの御神付の補佐、という辞令をもらった時、同期は全員顔色を変えた。あの、言祝ぎの神である。願いを字義どおり叶える、史上もっとも危険な権能。養成院の事例集で、冬を消し、湖を消し、町を眠らせた、あの。配属の通例は最優秀者のみ。自分の成績でなぜ、と思いながら丘の中腹に来てみれば──
聖堂の隣に庭のある家が建っていて、聖堂と家のあいだの生垣に木戸がある。朝から晩まで開いている。
「そこの戸は閉めなくていいよ」と、統制官は初日に言った。統制官は小柄な老婦人である。髪は白く、腰は少し曲がり、祭服の着方だけが教本より正確だった。リゼア・ヴァレス。受理基準の起草者。第三の札の発明者。神の願文の、最初の統制官。養成院の教科書に名前が五回出てくる人である。教科書の人は現役で、湯を沸かしていた。
そして、祭壇の前には神がいる。
若い姿の神である。五百年と少し、変わらない姿。教科書の人が老い、神は老いない。並んで立つ二人を初めて見た日、新任はどこを見ていいか分からなくて床を見た。歴代の神官がみんな床を見てきた理由を、別の意味で理解した。
着任初日の引き継ぎで、新任は統制官から三つだけ教わった。
一、御神は訊けば答える。訊かれなかっただけで、五百年。
二、願望の独り言に気をつけること。ただし御神は、今はもう、聞こえても待ってくださる。それに甘えすぎないこと。
三、夕方の茶は職務ではない。職務ではないものが、この聖堂ではいちばん大事である。理由は訊かないこと。訊いたら答えてしまうから、訊かないこと。
三つ目だけ、意味が分からないまま覚えた。この丘の引き継ぎは、代々、そうやって行われてきたらしい。
あと、口頭で四つ目があった。庭の北の隅には近寄らないこと。訊くと、統制官は湯を注ぎながら答えた。「何もないよ。何もないことになってるの」。見れば、庭の北の隅だけ、季節が半月ほど遅れている。花の咲き方で分かる。何があったのかは誰も説明してくれない。ただ、月次報告の過去の綴りをめくると、十年に一度ほどの間隔で、「地外物品」や「局地的季節異常」の欄に、几帳面な字の記入があるのだった。事故はなくなっていない。なくならないまま五十年、誰も辞めていない。それがこの職場の、様式に載らない求人情報である。
本人たちは普通だった。恐ろしいほど普通だった。
「イル、そこ取って」
今日も、統制官が言う。棚の上の茶葉の缶である。彼女の背では、もう届かない高さにある。
「自分で取れるだろう」
「腰が痛い」
「治すか」
神が訊く。新任は、息を止める。治す。この神の「治す」は、あの、権能の。世界を書き換える、あの。
「それはお願いじゃない」
統制官は言う。湯気の向こうで、何でもない声で。
「……分かっている」
神は言う。何でもない声で。
新任はまだ知らない。この「分かっている」に、何年がかかったのかを。昔なら、言い終わる前に治っていたことを。腰の痛みどころか、老いの全部を、その原因ごと、この神が消せることを。消せる力と消さない選択のあいだに、五十年ぶんの夕方が積んであることを。新任にはただ、年寄りの軽口を受け流す若い人、のように見えている。
「でも取って」
「それは願いか」
「お願い」
「承知した」
神の手が、棚に伸びる。茶葉の缶がひとつ、下りてくる。それだけである。雨は降らず、家は回らず、世界のどこも、書き換わらない。世界でいちばん強い権能を持つ神が本日ただいま成就させた願いは、棚の茶缶を、手で、カップ二つぶんの高さまで下ろすことだった。
新任は後日、月次報告の所見欄にどう書くべきか三日悩み、結局、事実だけを書いた。
──御神は本日も、茶缶をお取りになった。
局の決裁印は、何も言わずに捺されて戻ってきた。この様式のこの一行に、もう誰も驚かない程度には、長い月日が経っているのだった。
*
夕方、新任は帰り支度をしながら、生垣の木戸の向こうを見る。
統制官と神が、庭に出ている。カップが二つ。湯気。白髪の人は椅子に座り、神はその横に立って、遠くの海を見ている。丘の中腹からは、海は見えない。見えないものを見るとき、この御方は角度を間違えないのだと、先輩は言っていた。二人は何も話していない。話していない時間の方が、この二人は長い。沈黙が、夕方の庭に満ちている。
新任は一度だけ、先輩の神官に訊いたことがある。先輩は、トバイアスという昔の神官から引き継ぎを受けた最後の世代だという。あのお二人は、その、つまり、何なのですか。規程上の関係は分かりますが、その、様式の外では。
先輩は、長いこと考えて答えた。
「様式の外のことは、様式の外にしか書いてない」
答えになっていない、と思った。だが三日目の今日、夕方の庭を見ていて、少し分かった。あれは、どの欄にも書けない。書けないものは、こうして見て覚えるしかない。見て覚えたものを、人は多分、ずっと忘れない。忘れない機能を、人間は持っていないはずなのに。
庭で、統制官が何か言い、神が答える。声はここまで届かない。それでも、カップがひとつ、神の手に渡るのが見えた。それから、老いた手が少しだけ伸びて、若いままの手の袖の端をつまんだ。神は動かなかった。動かないまま、海を見る角度が、指二本ぶんだけ彼女の方へ傾いた。
聞くところによれば、二人は何年かに一度、遠出をするという。行き先は様式に載らない。ただ、帰ってくると統制官の手帳が一冊、観察記録の係のところへ回って、代替わりした係が、何かを几帳面に綴じるらしい。綴じ終えた綴りの棚は、三階の北端の、窓のない部屋にある。棚は長い年月をかけてゆっくり埋まり続けていて、まだ空きがある。空きがあることを、あの部屋では、幸い、と呼ぶ。ヴォスという初代の係が余白に書いた語だそうで、その一語だけは、人が代替わりした今も消されずに受け継がれている。
世界を変えられる神が、最後には茶缶を取るために、ただ手を伸ばしている。
新任は、見なかったことにして石段を下りた。見なかったことにしたものは、どの記録にも載らない。載らないものが、いちばん確かであることを、この丘で働く者はみんないつのまにか知っている。
丘の上では、夕方がゆっくり終わっていく。
明日も、多分、晴れである。晴れたら、あの木戸はまた朝から開いて、十二歩の道を誰かが歩いて、棚の茶缶がまた一度、下りてくる。それだけの一日を、五十年、毎日選び直してきた人と、毎日待ってきた神が、庭で同じ海を見ている。
<終>
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