第33話 四本
昨夜、初めて抱擁というものをした。
手が背に回ったこと自体は、前にもある。あれは三秒の宣言付きだった。宣言も、目的も、秒数もない抱擁は、初めてだった。きっかけは、思い出せる限り、何でもなかった。夕方の茶が終わって、カップを二つ洗って、生垣の木戸のところで「おやすみ」を言う。いつもの位置で、どちらからともなく、距離がなくなった。手を繋ぐのはもう何度もしていた。それより少し多くて、ずっと古い形の接触がそこにあった。
五百年と、二十数年が、生垣の横でしばらく黙って立っていた。
「……もう少し、こうしていたい」
と、リゼアは言った。言ってから、律儀に付け足した。
「時間の話ね。念のため」
「分かっている」
分かっている、の声が、頭のすぐ上でした。もう少しは、体感でもう少しより長く続いて、それから、いつもどおり「おやすみ」で終わった。官舎に戻って、リゼアは手帳を開かなかった。開かない夜はいい夜である。
いい夜の翌朝が静かに済む保証は、この丘には昔からない。
で、翌朝である。
「……腕、増えてない?」
聖堂の定位置に、神は、いつもどおり立っていた。いつもどおりの姿勢で、いつもどおりの顔で、腕が四本あった。
「増やした」
「なんで」
「昨日、お前は『もう少しこうしていたい』と言った」
「時間の話だよ、本数は頼んでないよ」
「頼まれていない」神は、事実を述べた。「私が、望んだ」
望んだ、を、この人はもう普通に言う。ここまで来るのにかかった歳月の長さを、世界でわたしだけが知っている——という感慨は、目の前の四本の腕の前では、正直、あまり仕事をしなかった。四本である。祭服の肩まわりは、どういう理屈か破綻なく四本に対応していて、仕立ての様式がどうしても気になった。
「……服は? どうなってるの、それ」
「直した。服は、私の神具だ」神は言った。「腕と、同じ手間だった」
持ち主が自分で仕立て直したのである。直された祭服は、四本の袖を、さも五百年前からそうでしたという顔で下げていた。様式課が見たら卒倒する。卒倒してから、袖数の欄を新設する。
「増やすの、面倒なんじゃなかったの」
「面倒だった」神は言った。「面倒を、上回った」
何が、とは言わなかった。
*
場所は庭に移した。聖堂で抱擁の試験をするのは、さすがに様式に障る気がした。言い出したのは、リゼアである。
「それで……どうするの、それ」
「試す」
神は、四本の腕を、検分するように開いた。リゼアは三歩ぶん後ろに下がった。統制官の職業的距離である。下がってから、一歩、自分で戻した。残りの二歩は、三秒で詰められた。
四本の腕で、丁寧に抱かれた。
丁寧、というのが一番近い。二本は背中に、二本は肩に。昨夜より、温かい場所が多かった。圧は均等で、配分は正確で、設計思想が感じられた。この人は昨夜の一回を、観測して、解析して、改善案を実装してきたのである。世界でいちばん強い権能を持つ存在の、開発力の使い途がこれだった。
「どうだ」
リゼアは答える前に、自分の職業倫理を探した。こういう時に限って見つからない。見つからないまま、口が先に動いた。
「……比較するには、六本も必要では?」
「可能だ」
「待って。今のわたしを採用しないで」
「棄却するのか」
「保留! 保留です!」
保留、という語の使い途を、この聖堂は本当にいろいろ覚えた。神は腕を増やさず、減らしもせず、四本のまま、検討の顔をしていた。リゼアは四本の中から、ひとまず脱出した。脱出に、本気を出せば三秒かからなかったはずだが、体感でもう少しかかったことは、手帳に書かない。
「あのね。先に、理屈を聞かせて。なんで四本なの」
「昨夜、二本では、背中と肩に、同時に届かなかった」と、神は言った。「腕が二本なのは、人間の制約だ。私の制約ではない」
「そこは人間に合わせてよ」
「なぜだ。お前は、月に行った女だ」神は、静かに言った。「望みを小さくするな、と言ったのは、私だ」
理屈が、また通ってしまった。しかも今回は、わたしが撃った弾である。統制官は生垣を背に、しばらく、神学的に追い詰められていた。
(いや、でも、待って。冷静に。比較検証するなら、条件統制が要る。同一時刻、同一服装、変数は本数のみ。二本、四本、六本。各三回、順序はくじで——)
(——やめなさい。わたしの中の統制課。今日は閉庁です)
*
結論は、夕方までに出た。昼のあいだ、神は四本のまま、通常業務を一件こなした。願文の箱を、四本の腕で同時に検めるのは、認めたくないが効率が良かった。良かったことも、手帳には書かないが、効率の数値だけは頭が勝手に取っていた。統制官の頭は、倫理が閉庁していても計測だけは開いている。
「普段は二本にして」と、リゼアは言った。「仕事中に四本あると、わたしの目が泳ぐの。受付の人も泳ぐ。トバイアスさんは多分、様式を作り始める」
「作るだろうな」
「作るんだよ。だから、普段は二本」
「普段は」神は、その二文字を、正確に拾った。「では、普段でないときは」
リゼアは、生垣の向こうの夕方を見た。見たまま、答えた。この返答だけは、目を見てする練習を、まだしていない。
「……四本は、まあ、あり」
「記録する」
「しなくていい!」
「記録しなくても覚えている」神は言った。「忘れるという機能を、持っていない」
その機能なら、わたしもこの件に関しては壊れている——とは、言わなかった。言わなくても、多分、観測されている。夕方の光の中で、神の腕は音もなく二本に戻った。戻った二本が、少しだけ所在なさそうに見えたのは、気のせいということにしておいた。
「六本の検証日程は」
「組まない!」
「いつでも、受け付けている」
受付の様式はないくせに、受付だけは常設されたのだった。
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