第32話 授かりもの
その願文は、分厚かった。
移転後、最初の受付日である。トバイアスが運んできた正式願文は、通常の三倍の頁数があった。種別の欄に、こうある。──子宝祈願。
「初めて扱います」と、リゼアは言った。トバイアスは綴りを受付台に置いた。両手で置いた。「言っておくが、子宝の様式は別格に細かい。四百年ぶんの細かさだ。……読めば分かる」
読んだ。分かった。
対象の特定。作用する身体は、妻の側か、夫の側か、双方か、条項を分けて明記する。全当事者の自由意思。夫婦それぞれに別室での単独確認を行い、署名は同席なしで取る。禁句欄。通常の「永遠」「絶対」に加えて、子宝願文に限り「確実」「必ず」を追加禁止。そして、成就の定義。
──成就は、妨げとなっている身体の障りを整えることをもって完了とする。授かりの成否は、成就の要件としない。
禁句欄の「確実」には、注記まで付いていた。──確実性の要求は、方法の上限を実質的に外すため、受理しない。
一行ずつが、彫り込むように具体的だった。リゼアは頁をめくる手を途中で止めて、顔を上げた。
「……これ、全部、過去に何かあったやつですよね」
「聞くな」
トバイアスは即答した。三十年の即答だった。リゼアは聞かなかった。聞かない技術も、この丘でだいぶ上達した。
「ひとつだけ教えてください。この様式、起草は」
「……四百年かけて、十一回改定されてる。最初の版を書いたやつの名前は、もう残ってない」トバイアスは綴りの角を揃えた。「残ってるのは条文だけだ」
様式の分厚さが、急に、別のものに見えた。
*
祈願者は麓の若い夫婦だった。
畑を二枚持つ農家で、結婚して五年になるという。別室の単独確認を、リゼアが妻の側、トバイアスが夫の側で行った。妻は手を膝に揃えて、静かに話した。望んでいます。自分の意思です。誰にも、言わされていません。……五年、言われ続けたのは本当です。でも今日のこれは、言われたからじゃありません。
輪郭の確認は、神がする。心の確認は、人間がする。第四条を書いた日からそういう分担になっている。リゼアは署名を受け取り、規程どおり、一度だけ確認した。
「言祝ぎは、妨げを整えるところまでです。その先はお約束できません。それでも、願いますか」
「はい」と、妻は言った。「道だけでいいんです。道がないのかあるのか分からないのが、いちばんつらかったので」
*
儀は静かに進んだ。
夫婦の共同祈願。読み上げ。神の、実行方法の提示。——これは、四百年の様式には載っていない。歴代の巫女は、方法を問わず、成就だけを受け取ってきた。先に言わせる第七条の運用は、この受付台が始めたものである。子宝願文でそれを省く気は、リゼアにはなかった。
「妻の身体の、妨げとなっている巡りの滞りを、人の医術の及ぶ範囲を超えぬ速さで、整える。夫の側は、願文第十二条に基づき、対象としない。以上である」
「提示の方法を、願文の記載の範囲に限り許可します」
「言祝ごう」
光らず、鳴らず、約定は立った。身体がその場で変わる種類の言祝ぎではない。整えは今日から、医術の速さの内側で進む。夫婦は手を取り合って、深く頭を下げた。泣いたのは夫の方だった。妻は泣かずに、まっすぐ、祭壇を見ていた。
「ひとつ、言っておく」
神が言った。祈願者に神が自分から言葉を足すのは珍しい。夫婦は固まった。
「整えは、今日始まった。終わる日は、医術の速さが決める。急かすな。……その先は、お前たちの出来不出来では決まらない。授からなくても、お前たちの責任ではない」
妻の目から、そこで初めて涙が落ちた。落ちた涙はどの様式にも綴じられずに、聖堂の床に、小さな点をひとつ残して乾いた。
*
夕方、カップ二つ。
「ねえ。神って、そういうこと、知ってるの」
「当然だ」
「どのくらい?」
「排卵から着床まで、説明すればよいか」
「いらない」
即答してから、お茶を一口はさんで、好奇心が職業倫理の柵をいつもどおり乗り越えた。
「……したことは?」
「ない」
「なのに詳しい」
「何千件、叶えたと思っている」
知識は何千件ぶん。経験はゼロ。その比率のまま五百年立っている存在が、湯気の向こうで、いつもの顔をしている。人間の生殖については教本より正確に説明できて、自分の望みについては去年まで「検討する」しか言えなかった人。この落差を、わたしは多分、世界でいちばん面白くて、いちばん──。
その先を言葉にする代わりに、訊くつもりのなかったことが口から出た。この口は、昔から、わたしより先に決める。
「……ねえ。参考までに、だけど」
「うむ」
「あなたの、その、今の身体って」言いかけて、言い方の在庫を全部検分して、結局、統制官の語彙に逃げた。「──構成上、どうなってるの」
神はこちらを見た。意味は、正確に受け取られた。この人はいつも正確に受け取る。いつもの温度で答えた。
「現在の構成には、その機能がない」
「……そう」
「作れるかどうかは──」
「いい」リゼアは、手のひらを小さく上げた。「今日は、そこまで」
言い切らせない技術は、この聖堂で最初に覚えた技術である。まさか自分が、この種の文の途中で使う日が来るとは、着任の日のわたしは、夢にも思っていなかっただろう。神は口を閉じて、カップを持ち直した。持ち直した手つきが、どこか、受付で署名を預かる時のそれに似ていた。預かったまま、期限は切らない。この人の持ち方は、いつもそうだ。
*
夜、官舎で、リゼアは手帳を開いて、閉じた。
今日の問いには、欄がない。
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