第31話 移転
翌朝、窓の外に聖堂があった。
リゼアは寝台の上で三秒静止した。官舎の寝室の窓は、南向きである。南向きの窓の外には庭があり、庭の先には丘の斜面があり、斜面の上に、聖堂の屋根が小さく見える──はずである。見えているのは、屋根ではなかった。壁だった。聖堂の側面の壁が、庭の生垣のすぐ向こうに建っていた。
寝間着のまま庭に出た。
聖堂である。原寸の、本物の、五百年ものの聖堂が、官舎の隣に朝日を受けて、静かに建っていた。基礎ごと。継ぎ目なし。丘の上にあったはずの建物が、丘の中腹の、わたしの家の隣に。
生垣越しに、聖堂の扉が開いた。
定位置の神が、定位置のままこちらを見た。
「おはよう」
「おはよう、じゃない!!」
リゼアの声は、朝の丘に良く通った。
「来るのはわたし! 願文にそう書いた! 『リゼア・ヴァレスが、言祝ぎの神殿に来られますように』! 来るのは、わたしの側の仕事!!」
「うむ。だから、神殿を近くした」神は言った。「移動時間が不要になる」
「論点はそこじゃない!!」
「お前は毎朝、石段で四半刻を使う。年間にして──」
「計算もしなくていい!!」
言いながら、リゼアの目は職業の速度で動いていた。基礎、継ぎ目なし。生垣、無傷。庭の薬草、無事。井戸、無事。回転の時と同じ、完璧な、音のない施工。そして──これは願いではない。わたしは願っていない。誰も願っていない。つまりこれは、神の自発動作。自分の座の移動。規程は禁じていない。禁じていないに決まっている。神殿が自分で歩くことを想定した規程が、この世にあるわけがない。
「……とりあえず、戻そう? ね?」
「なぜだ。寝室は南向きのまま、神殿は近い。全員の利益だ」
「全員の範囲が狭い!! 麓! 麓を見て!! あと、言っておくけど」リゼアは生垣に手をついた。「これ、昨日の今日だからね。翌朝に、神殿が家の隣に来てるの。観察記録に何て書かれるか──」
「事実が書かれる」
「その事実が問題なの!!」
「事実に問題はない」神は真顔だった。「問題があるのは、常に解釈だ」
五百年ものの神学で朝から殴られて、リゼアは生垣に突っ伏した。正しい。正しいが、今日の正しさは全部、徹夜明けの工事現場の匂いがした。匂いはしないのだった。無音無臭の、完璧な施工。完璧であることが、逆に、言い逃れを全部塞いでいた。
麓は見事に大混乱だった。
*
第一報は、巡礼路の管理組合から来た。巡礼路の終点に、神殿がない。四百年、丘の頂を目指してきた道が、今朝から何もない広場に続いている。参拝者はいないに等しいとはいえ、道というものは先に何かがないと、道として据わりが悪い。
第二報は、麓の地図屋から来た。第三報は、郡の測量方から。第四報は、観測所から──聖堂の移動は夜間、無音で行われ、観測記録は「午前二時過ぎ、丘の稜線の形状に変化」とだけ、正直に書いていた。
昼には、トバイアスが石段を──短くなった石段を──上ってきた。
「様式第三号の五だ」彼は紙束を掲げた。「今朝、局で起案された。『神殿等の所在地変更』の欄がない。ないから作る。作るついでに、おれが様式課に呼ばれた。丘の上の様式に一番詳しいのはお前だろうと言われた。……おれの三十年は、いつからこうなった」
「おかえりなさい、で、いいですか」
「よくはないが、もらっておく」
ヴォスも来た。監察ではない。観察記録三の係として、である。帳面を開き、聖堂を一周し、基礎の継ぎ目のなさを確かめ、記録した。記録し終えて、ヴォスは言った。
「所在地変更届の様式は──ありません。作ります」
「ですよね」
「御神に、一点だけ確認します」ヴォスは生垣越しに、聖堂へ向き直った。「本件は、どなたの願いですか」
「誰のでもない」神の声が、朝と同じ平温で返った。「私の、意志だ」
ヴォスのペンが、その一行を丁寧に書いた。願いによらない、神の意志による、座の移動。観察記録三の、本日の頁である。書き終えた監察官の顔は、様式どおりの無表情で、無表情の目の奥だけがほんの少し笑っていたように、リゼアには見えた。見間違いかもしれない。
*
結局、神殿は戻らなかった。
戻すか戻さないかの協議は三日続き、三日目に豊穣神殿から文書が届いて、終わった。文書は一行だった。──神の座は、神のもの。畑が日当たりへ伸びるのを、誰が咎める。
神学的に完璧な援護だった。巡礼路は、終点を中腹へ付け替える工事が決まり、管理組合は「道が短くなって、むしろ参拝が増えるのでは」と前向きなことを言い始め、麓の売店の一軒が看板を描き直した。地図屋だけが、しばらく恨み言を言っていた。
統制課の兼務先には、事後報告を書いた。書きながら、様式第三号の五の新欄を、自分で埋める羽目になった。所在地変更の理由の欄。リゼアは一度、「神意による」と書き、消し、「祈願者の利便のため」と書き、消し、三度目に、事実だけを書いた。
──移動時間の短縮のため。
受理された。様式はときどき、いちばん大きな事実を、いちばん小さな顔で通す。
夕方、リゼアは生垣の木戸を開けて、隣の聖堂に出勤した。通勤時間、徒歩十二歩。
「……ねえ、イル」
「うむ」
「これ、毎朝わたしが来るっていう、あなたの願いの成就、だいぶ骨抜きじゃない? 十二歩だよ」
「骨は、抜いていない」神は、カップを受け取りながら言った。「お前が来る。来ることに、変わりはない。距離は、願いの本体ではない」
「じゃあ本体は」
「──来る、と、お前が毎朝決めること」
期限の欄。本人が望む限り。あの一行の意味を、この人は、起草者より正確に読んでいた。リゼアは湯気の向こうで、降参の息を吐いた。吐いて、笑った。
「おはよう、イル。今日も来ました」
「うむ。──観測した」
十二歩の通勤路の上を、夕方の光が、静かに横切っていった。
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