第30話 受理番号第一号願文
辞令は月曜の朝に出た。
──統制課付統制官リゼア・ヴァレスを、言祝ぎの御神付へ再配属する。身分は統制課との兼務とし、受理基準の改正業務および他神殿講習を引き続き担当する。発効、即日。
付記が一行あった。
──本辞令は受理番号第一号願文の成就としてこれを発する。
人事の辞令に、願文の成就として、と書かれた例は神殿局の歴史にない。様式課は前日までこの一行に反対していたが、最後は決裁者の一言で載ったという。曰く、成就の記録のない成就は、成就したことにならない。言祝ぎの神殿の理屈が、いつのまにか局の三階まで浸透していた。
リゼアは辞令を両手で受け取った。書類を両手で扱う人間は、書類に人生を載せている。いつかの受付の間で、そう思ったとおりだった。
統制課の同僚たちは、辞令の回覧を様式どおりの無表情で読んだ。読み終えてから、一番若い課員がこらえきれずに言った。
「史上初の神様の願文の成就対象になるのって、どんな気分ですか」
「様式にない質問です」
「様式にない質問に答えるのが、先輩の流儀だと伺ってます」
教育が行き届いてしまっていた。リゼアは三秒考えて、様式にない答えを返した。
「──責任重大、です。期限の欄がわたしの毎朝にあるので」
課員たちは、意味が分かったような分からないような顔をした。分からなくていい。あの期限の意味は、書いた本人と願った本人だけが、原寸で分かっていればいい。
*
丘への石段を、リゼアは昼前に上った。
鞄の中には、辞令と、手帳が二冊と、陣中見舞の無花果がひと包み。十一段目で海を見た。今日は、何秒でもよかった。何秒見ても、誰の規程にも障らない身分になった。
聖堂の扉を開けると、神は定位置にいた。
後任──今日からは前任──の統制官は、朝のうちに引き継ぎを済ませ、局へ戻ったという。引き継ぎ書類は完璧で、最後の一枚の様式外の余白に、一行だけ几帳面な字があったらしい。──当聖堂の夕刻の運用には、文書化されない慣行が存在する模様。後任者は、文書によらず、各自これを確認されたい。
様式の人の、精一杯の引き継ぎだった。
祭壇の燭台が、ふたつ、ずれていた。今朝、前任が完璧に直して退任したはずの位置から、指二本ぶん。誰が、いつ、とは訊かなかった。訊かないことの作法なら、この堂でいちばん最初に覚えた。
「ただいま、戻りました」
リゼアは辞令を掲げた。
「受理番号第一号、成就のご報告です。対象は本日付で再配属。期限は──本人が望む限り」
神は辞令を見た。紙と、判子と、一行の付記を。世界を書き換える力を一切使わずに、人間の制度が三週間かけて書き換えた、世界の小さな一部を。
「……成就、か」
「成就です。あなたの最初の願いは、紙と判子で叶いました。感想は?」
長い検討が来ると思った。来なかった。神は、一歩、祭壇の前から出た。五百年の定位置から、一歩。それから、変わらない声で言った。
「分からない」
「分からない?」
「記録に載らない」神は、自分の胸のあたりを見下ろした。「成就の記録は、五百年ぶん、全部ある。他者の願いが叶う瞬間を、私は誰より多く観測してきた。だが、これは──載らない。熱量の分類ができない。計器が振り切れているのか、壊れているのか、判別できない」
「それはね」と、リゼアは言った。
教えてあげられることがまだあった。この、何でも知っている五百年に、まだ、教えられることが。
「嬉しい、っていうの」
神は受け取って、検討した。検討は三秒だった。
「……うれしい」
初めて口にする語を、初めての重さで置いた。
「分類できなくて、計器が壊れたみたいになるの。それで合ってます」リゼアは言った。「人間はね、五百年前から、みんな、壊れた計器のままやってるの」
「壊れたまま、か」
「壊れたまま」
言い切った瞬間、何かが変わるかを、二人とも、少しだけ警戒した。世界は変わらなかった。雨も降らず、家も回らず、燭台も動かなかった。それでいい。それが、言葉というものの正しい燃え方だった。
*
夕方、茶を淹れた。カップは二つ。湯気。階段の二段目。半年と三週間ぶりの、誰にも監察されない、正規の夕方である。無花果を開けると、乾した実の下に小さな紙が入っていた。畑の字で、一行。
──世話の続きは、自分たちでおやり。
二人で笑った。笑って、茶を飲んで、無花果を齧って、それから、どちらも急がない沈黙が、ゆっくり、堂に満ちた。燭台の炎がひとつ揺れた。
「……リゼア」
神が名を呼んだ。呼び捨ての名は、フルネームとも、おい、とも違い、業務のときより声が小さかった。
「ん?」
「手を」
「ん。……手?」
「手を、繋いでいいか」
リゼアはカップを置いた。
「──実験ではなく」
その言葉が、夕方の聖堂に、静かに落ちた。実験ではなく。検証でも、観測でも、基線測定でもなく。願意の伝達試験でも、接触密度の相関確認でもなく。目的の欄も、統制条件も、報告義務もなく。ただ、手を。
五百年で最初の願いが紙と判子で叶った日の夕方に、この人は、二つ目の願いをもう言えるようになっていた。二つ目は、一つ目よりずっと小さかった。
「……うん」
リゼアは手を出した。
「実験じゃなく」
手は繋がれた。何も届かなかった。存在も、温度も、測らなかった。測らないものは、記録できない。記録できないものだけが、カップ二つぶんの湯気の中で、どの様式よりも、確かだった。
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