第29話 神の願文
史上初の願文は、史上初の問題を束で連れてきた。
第一の問題。祈願者の欄である。現行様式の祈願者欄には、氏名、住所、身分を記す。氏名──人間には発音も聴取もできない。住所──丘の上、聖堂。身分──神。身分欄に「神」と書かれた公文書は、神殿局の四百年の書庫に一枚もない。
第二の問題。願文の内容である。
「明日も、お前が、ここに来ればよいと思う」を、三点留めに降ろす。対象、リゼア・ヴァレスの、言祝ぎの神殿への継続的な勤務。つまりこれは、人事の願いである。方法の上限、人間の制度の定めるところによる。権能は用いない。期限──
期限で、リゼアのペンは止まった。
「明日も、っていうのは」と、起草者は祈願者に確認した。「明日一日? それとも、明日が毎日更新される方の、明日も?」
「更新される方だ」
「つまり、ずっと」
「ずっと、だ」
ずっと。危険語の筆頭である。永遠、絶対、すべて、ずっと。削る側として半年、教える側としてさらに半年、この語を潰してきた。
「……『ずっと』は、書けない。恒久の縛りは」リゼアは言いながら、自分の第三条を頭の中で開いた。開いて、読んで、止まった。「──いや。待って。第三条が禁じるのは『一方の不利益の恒久的固定』。これは、不利益じゃない」
「不利益ではないのか」
「わたしに訊かないで。利益か不利益かは、対象本人が」言いかけて、対象本人が自分であることに気づいた。「────利益です。対象本人として申告します」
祈願者は、うむ、と言った。起草者は、顔が熱いのを夜気のせいにした。内部監査は転属このかた開店休業だったので、差し戻しは来なかった。
期限の欄にはこう書いた。──本人(対象)が望む限り。
望む限り。恒久ではない。毎日、更新される。更新の主体は、わたし。この期限は、つまり、毎朝わたしが選び直す期限である。願いの成就が、相手の選択を毎日待つ形になっている。書き終えて、リゼアは思った。この一行は多分、わたしの書いた全条文の中で、いちばん正確で、いちばん祈りに近い。
*
翌朝、リゼアは願文の草稿を持って麓へ下りた。
統制課の机で清書し、受付に自分で出した。受付の若い神官は、祈願者の欄を三度読み、身分欄で手を止め、上司を呼んだ。上司は課長を呼び、課長は局長室へ消え、昼までに、局の三階全体が静かに沸騰した。
他神殿からも文書が届いた。史上初の案件は、噂の速度も史上最速級だった。
戦神殿からの意見書は短かった。担当神官の起草で、末尾に戦神の言葉が一行、引用されていた。──規格の外のものは、手入れが面倒なだけだ。手入れを引き受ける者がいるなら、外に置く理由はない。
豊穣神殿からの文書は、意見書ですらなかった。乾燥した無花果がひと包み、局気付で届いただけである。宛名は「言祝ぎの件の机へ」。様式課は受領の分類に半日悩み、最終的に「陣中見舞」という四百年使われていなかった受付区分を、棚の奥から掘り出してきた。
「前例がない」というのが、局の第一声だった。
「前例は、作られるためにあります」というのが、統制課の、というかリゼアの回答だった。
議論は三日続いた。神が祈願者たりうるか。神学上の反対意見は、意外にも少なかった。障害は神学ではなく、様式だった。願文の成就主体は、通常、言祝ぎの神である。だが本件の願いの主体が神であるため、成就主体は神殿局──人事を司る人間の側になる。成就主体が局である願文を、どの部署が受理し、どの様式で査読するのか。管轄の欄が存在しなかった。
存在しない管轄を巡って書類が三往復した三日目、窓のない部屋からヴォスが出てきた。監察官は、局長室の会議に、観察記録三を一冊持って入って、一つだけ発言したという。
「様式の上では、神は祈願者になれないとは、どこにも書いてありません」
書いていないことは、禁じられていない。四百年の様式主義の、最も正統な読み方だった。さらにヴォスは、前例として一件の綴りを示した。神の裁量を記録する様式──検算の審査の後、彼女自身が起草した、あの新様式である。神の行いを人間の様式に綴じた前例は、既にある。綴じられるものは、受理できる。
会議は、その日のうちに受理を決めた。
*
査読は、三人の神官と、第四条の人間審査で行われた。
第四条。力の不均衡の審査。査読室で、三人の査読者は、史上初の設問に直面した。祈願者(神)と、成就主体(局)と、対象(統制官一名)のあいだの、力の不均衡の有無。祈願者は世界を書き換えられる。これ以上の力の不均衡が、あるだろうか。
審査の記録には、こう残っている。
──祈願者と対象の間に、力の不均衡は存在する。これを否定する材料はない。ただし、権能不使用の明記、対象本人の同意、期限を「対象本人が望む限り」としたこと、ならびに対象の離任時にも権能を行使しなかった実績(特別監察記録参照)により、本件は当該不均衡を固定するものではないと判ずる。
査読の所見欄には、三人目の神官が、様式外の一行を書き足していた。例の、村の件の査読にも入っていた神官である。
──本職は半年前、受理が最善と判じて、救えなかった。本件は、受理が最善と判じて、今度こそ何かを救うのだと思う。査読冥利である。
様式外の私見は様式違反である。違反のまま綴じられた。この局の様式違反は、いつも、いちばん人間の声がする。
残る欄はあと一つだった。成就の決裁。神殿局人事、統制官の配属。紙と判子の、いちばん人間的な欄。願文は、決裁箱の一番上で、週明けを待つ位置に置かれた。
その週末、リゼアは局の宿舎で、よく眠れなかった。眠れないまま、北向きの天井に報告だけをした。宛名は、今夜もつけなかった。つけなくても、週明けには様式が決める。決めた結果がどちらでも、あの願文の期限の欄は、もう世界に存在している。本人が望む限り。
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