第28話 あなたは何が欲しいの
笑い終えて、夕方の最後の光が窓から落ちる頃、リゼアは思い出した。
「そういえば。回答、まだもらってない」
「何のだ」
「『あなたは、何か叶えてほしいこと、ある?』。去年の秋に訊いた。あなたは『検討する』って言った。『五百年待て』って言って、わたしが文句を言ったら、『では急ぐ。四百年』」
「覚えている」
「督促です。統制課はね、回答期限の管理にうるさいの」
冗談の形で言った。形だけだった。形の下は、多分、両方に見えていた。明日の朝、臨時派遣は終わる。わたしは麓へ帰る。次にこの質問ができる日付に、保証はどこにもない。だから今日訊く。
「あなたは、何が欲しいの」
訊いてから付け加えた。
「必要の話じゃないよ。前にも言った。欲しいものの話」
「覚えている。『私には願う必要がない』と答えて、お前は『必要じゃなくて』と言った」
「一言一句」
「忘れるという機能を持っていない」
持っていない機能の話を、この人はたまに、少しだけ自慢のように言う。言うようになった。なった、という変化の目録を、わたしはもう作らないことにしている。作らなくても全部覚えているからである。忘れるという機能が、わたしの側でも、この件に関してだけはどうやら壊れている。
神は炎を見た。長い検討になる、とリゼアは思った。なにしろ値切って四百年になった残りの検討である。膝を抱え直して、待つ姿勢を作った。
「検討は、済んでいる」
「……え」
「とうに、済んでいる。済んでいたが言わなかった。言えば、形になる。形になった言葉が、私の内で何を起こすかを知らなかった。知らないものは、こわい」
こわい、を、この人は言った。五百年の神が、怖い、を動かない声で置いた。
「でも、今日、言うの」
「お前が先に言った」神は、こちらを向いた。「会いたかった、と。世界は変わらなかった。言葉は、言葉のまま届いた。……先例があれば」
「様式は、作れる」
リゼアは座り直した。統制官の姿勢ではなかった。受付の姿勢でもなかった。ただの、聞く姿勢だった。五百年で最初の願いを最初に聞く椅子が、この聖堂の階段の二段目であることを、世界はまだ知らない。夕方だけが、立ち会っていた。
「……明日も、お前がここに来ればよいと思う」
言葉は、静かに置かれた。
雨は降らなかった。家も回らなかった。燭台の炎がひとつ揺れただけだった。言祝ぎの神の、五百年で最初の願いは、発された瞬間、何も書き換えなかった。書き換えないことを確かめるように、神は自分の手を一度見て、戻した。
「それ、願い?」
「……そう呼ぶのかもしれぬ」
「願いだよ」リゼアは言った。言いながら、目の奥が熱くなるのを、職業的な瞬きで三回に分けて処理した。「対象、明確。わたし。期限──明日。方法は……あなたは何もしなくていい。来るのは、わたしの側の仕事」
「明日は、来られないであろう」
「来られない」リゼアは、認めた。「臨時派遣は今日まで。明日の朝、わたしは麓に帰る。統制課の机で改正案を書く。……あなたの願いは、今のままだと成就しない」
「知っている」神は、炎に戻った。「成就しない願いを言った。言ってみたかったのだ、一度。人間たちが、五百年、ここでしてきたことを」
成就しない願いを、言う。
「……知ってた?」リゼアは少し笑った。笑わないと、声が崩れそうだった。「願いってね、言った瞬間に、半分くらいはもう仕事が終わってるの。聞いた人がいる。それだけで、願いは、独りじゃなくなる。あなたが五百年受け取ってきたのは、叶える仕事の前の、そっちが先」
「……記録にない知見だ」
「様式にもないよ。でも、ほんと」
祈りとは、本来そういうものだった。叶うから祈るのではない。叶わないかもしれないものを、それでも言葉にして、誰かの前に置く。五百年、置かれる側だった存在が、今夜初めて置く側に回った。置く側の無防備を、置かれる側の責任を、この人は今、いっぺんに学んでいる。
リゼアは立ち上がった。頭の中で、何かが音を立てて組み上がっていた。統制官の部分だった。半年、改正案と様式を書き続けた部分が、目の前の「成就しない願い」を職業の目で見ていた。
対象、明確。期限、反復する明日。方法、人間の制度による。障害──現行様式に、祈願者の欄が神を想定していない。
(……待って。成就主体は神じゃなくていい。この願いを叶えるのは、権能じゃない。辞令だ。人事だ。人間の、紙と判子だ。だったら、これは)
(──これは、願文にできる)
「イル」
二度目を、リゼアはここで使った。神が、炎から、こちらを向いた。
「その願い、わたしに起草させて」
「……起草」
「願文にする。あなたが祈願者。わたしが統制。査読は局。成就は──人間の制度がやる。あなたは五百年、人間の願いを叶えてきた。一回くらい、逆をやろう。人間の制度が、神様の願いを叶える番」
神はリゼアを見た。長いこと、見た。五百年の記録の、どの棚にもない提案だった。ない棚は、作ればいい。それをこの人に教えたのは、半年ぶんのわたしたちだった。
「……できるのか」
「わからない」リゼアは、手帳を出した。新しい頁を開いた。頁の上で、ペンが、久しぶりに、せっついた。「わからないから、やる。できるかどうかは、やってから、様式が決める」
字が──
書き出しの一画から、分かった。平らな字が終わった。興が乗っている。教官が答案の危険度を測ったあの字が、帰ってきていた。危険である。最高に、危険である。この夜、聖堂の階段の二段目で、史上初の「神の願文」の起草が始まった。
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