第27話 会いたかった
召還の書類は、統制課の机に朝いちばんで載っていた。
──北西の村および穀物商より、既成立の共同祈願にかかる修正の申請あり。前例なく、現行様式に手続きの定めなし。ついては受理基準の起草者を臨時に現地へ派遣する。
リゼアは三回読んだ。
申請の経緯の欄に見覚えのある文章の引用を見つけた。約定の修正は、双方が新たに本心から願うなら次の受付日に可能です──。わたしの字だ。あの夜、村への書き置きに書いた一行。規程は過去を救えない、次の受付日ならまだ未来だと思いながら書いたあの一行が、半年かけて、商人の署名を連れて戻ってきた。
経緯の欄にはこうあった。豊穣神の土の治療により収穫が増し、商人の貸し倒れの危険が下がった。商人は四割を三割へ改める修正に応じる意向である。手前どもも、危険の値が下がったのなら値札を下げるのが商いです、と。
丁寧な男の丁寧な理屈だった。あの日悪人がいなかった申請に、今日も悪人はいなかった。
「後任の統制官は、前例のない案件を保留する規程を正しく運用した」課長は言った。「保留された案件を処理できるのは、手続きを発明できる者だけだ。行ってくれ。臨時だ。一日だけ」
一日だけ。
リゼアは書類を揃え、鞄に手帳を二冊入れて立ち上がった。膝が、少し速かった。
*
石段は記憶より急で、記憶より短かった。
十一段目で足が止まった。聖堂の屋根の向こうに、海が一筋光っていた。三秒見た。四秒目も見た。今日は数えるのをやめた。
扉の前にトバイアスがいた。受付日ではないのに、いた。
「……様式にない業務のついでだ」と、彼は言い訳のように言った。「中で、後任どのと御神が待ってる。案件の説明はおれがする。あんたは手続きの発明だけしてくれ」
「ありがとうございます」
「礼はいい。──おかえり、は言っていいのか。臨時でも」
「……はい。臨時でも」
「おかえり」
扉が開いた。
*
聖堂は、何も変わっていなかった。
床も、祭壇も、高い窓の光も。燭台はまっすぐだった。まっすぐな燭台の前に、後任の統制官が完璧な姿勢で立ち、その横に──定位置に、神がいた。
視線が合った。
「臨時派遣の統制官、リゼア・ヴァレスです。本日、修正手続きの起草に参りました」
式文のように言えた。言えてしまった。半年、様式を書く側にいた口は、こういう時のために鍛えられていたらしい。神は、こちらを見たまま言った。
「……うむ」
うむ、だけだった。うむ、の中にどれだけのものが梱包されているか、受け取れる耳はこの堂内に一人ぶんしかなかった。
一度だけ、業務の継ぎ目にずれが出た。
起草の途中、リゼアが条文の候補を口で挙げたときである。「期限は原約定に従い──いや、ここは」と言い直しかけた半端な一言に、定位置の神が即座に答えた。
「従わなくてよい。修正の期限は新たに切れる」
後任の統制官が、わずかに顔を上げた。御神が、統制官の独り言に答えた。この半年、一度もなかったことが、今、起きた──という顔だった。顔は、すぐ様式に戻った。戻ったが、リゼアには分かった。この人は気づいた。多分、報告書には書かれない。書く欄がないからである。
独り言に答えが返る。それだけのことが、半年ぶりだった。半年ぶりの、それだけのことで、起草の字が三行ぶん良くなった。
実務は、それをのぞけば滞りなく進んだ。修正共同祈願の様式を、リゼアはその場で起草した。既成立の約定の、双方合意による変更。原約定の言祝ぎとの整合。第四条の再審査。後任の統制官は有能で、起草の傍から条文の穴を二つ見つけ、二つとも正しかった。三人で穴を塞いだ。塞がった様式は、美しかった。美しい様式が、五年四割を五年三割に書き換える道を、初めて世界に開けた。
読み上げには村の代表と商人が立ち会った。あの年嵩の男は少しだけ頬がふっくらして、書類をやっぱり両手で扱った。
「──以上を、言祝ぎたまえ」
「言祝ごう」
光らず、鳴らず、約定が書き換わった。成就の無演出を、リゼアは久しぶりに見た。
*
夕方、業務が終わった。後任の統制官は、正確な時刻に退出した。トバイアスは村人たちを送って石段を下りた。下りる前に一度だけ振り返って、何も言わずに行った。様式にない気遣いは、様式にないまま、正確だった。
聖堂に、二人が残った。
帳面はどこにもなかった。監察は終わっている。観察記録三の対象は神で、神の観察は週次の報告書だけで行われている。つまりこの夕方は、どの様式の上にもない夕方だった。
リゼアは、階段の二段目を見た。
半年座った場所である。座っていい理由が、今日はどこにもない。臨時の派遣統制官に、この堂の夕方の座席の権利はない。ないことを確認しつつ、リゼアは座って、見上げた。定位置の神が、こちらを見ていた。
「……会いたかった」
言葉は、剥き出しのまま出た。
包装はなかった。実験でも、検証でも、業務でもなかった。願いの形ですら、なかった。ただの言葉だった。世界のどこも書き換えない。雨も降らない。家も回らない。ただ言った。言われた側は、世界を変えられる手を膝の横に置いたまま、受け取った。
「私もだ」
世界は、どこも変わらなかった。
変わらない世界の真ん中で、それは、この半年でいちばん大きい成就だった。
「……言えるんだ」と、リゼアは言った。「会いたかった、って。あなた、今、言えた」
「お前が先に言った」
神は炎を見た。
「先例があれば、様式は作れる。……お前たちの、やり方だ」
リゼアは階段の二段目で、膝を抱えて笑った。
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