第25話 引き離しの後
局の統制課は、三階の南端にあった。
窓がある。窓があることに感動する程度には、リゼアは局の建物の内情を知るようになっていた。北端の窓のない部屋から、廊下を一本挟んだ反対側。観察される側から、様式を書く側へ。廊下一本の転属だった。
仕事はあった。大量にあった。
受理基準の改正作業。第三の札──修正勧告手続きの条文化。他神殿への講習の定例化。海神殿から語彙表の改訂相談が来て、火神殿から延焼順位の欄の照会が来た。統制課の同僚は五人いて、五人とも様式の話で昼食を終えられる人種だった。初日に、一番若い課員がリゼアの席に来て言った。
「受理基準の起草者の方ですよね。第三条の語義構成、養成院の答案で三回引用しました」
ファンがいた。様式に、ファンがいた。この部屋でなら、わたしは多分、うまくやっていける。うまくやっていけることが、転属十日目の夜、宿舎の天井を見ながら、いちばん薄ら寒かった。
課長は改正案の進みを褒めた。講習の評判も良かった。出張講習が予行だったのなら、予行は正しかったことになる。丘を離れても、統制官リゼア・ヴァレスは問題なく機能する。半年前に証明されてしまったことが、今、毎日、追認されていく。機能する。機能する。機能した結果がこれです、と言ったのは、いつかのわたしだった。
*
宿舎の部屋は、北向きだった。
朝、寒さで目が覚める。毛布を顎まで引き上げて、リゼアは天井を見る。朝寒いから。すべては、あの一言から始まった。寝室を南向きにして。できんの? できる。じゃあお願い。翌朝、世界でいちばん雑な奇跡が、庭ごと回った。
今の部屋は、回らない。
回らない部屋で、リゼアは毎朝きちんと起きて、きちんと出勤した。字は、良くも悪くもならなかった。興の乗らない字でも、痩せた字でもない。平らな字。統制課の書類には、平らな字がいちばん向いていた。計器としてはいちばん悪い報せだった。
講習も続いていた。月に一度、他神殿の統制担当が局に集まる。あの連絡会とは別の、リゼアの基準を学ぶための勉強会である。海神付きは語彙の檻の改訂案を持ってきて、火神付きは半径の欄の運用例を共有し、戦神付きは相変わらず塩の味の報告をした。
「戦神様が、あんたによろしくと」と、戦神付きは言った。「正確には『あの規格外はどうした』と訊かれたので、転属です、と答えたら、十秒黙って、『手入れを怠ると錆びるぞ』と」
「……どちらに言ってるんですか、それ」
「同じことを訊き返したら『両方だ』と」
戦の神は、ときどき、戦以外のことにも正確だった。リゼアは礼を言って、その言葉を手帳には書かずに持ち帰った。錆は乾いた場所で進む。乾いた場所に、いま、わたしはいる。
*
受付日の翌日はトバイアスが局に来る日である。
月次の提出のついでに、彼は統制課の前の廊下をわざとゆっくり歩く。リゼアが出ていくと、書類の束を抱え直して、何でもない顔で立ち止まる。様式にない定例報告が、そうやって始まった。
「……訊いたぞ。どうでもいいこと」
「何を訊いたんですか」
「茶の味だ。覚えているか、と」
リゼアは廊下の壁に肩をつけた。つけないと聞けない気がした。
「……それで」
「『温い、が、ない』と言われた」
廊下の窓の外で、麓の屋根が並んでいた。温い、が、ない。あの人の語彙でそれ以上正確な現状報告は多分ない。
「後任の方は」
「完璧だ」トバイアスは言った。「事故はない。遅延もない。受付は様式どおりに回ってる。……燭台もまっすぐだ」
「──そうですか」
直されたのだ。規程第八十一条。正しい。全部、正しい。正しさの中で、指二本ぶんの何かだけが、世界から消えていた。消えたものは、こうして廊下の立ち話の中にしか存在できなかった。
「……あのな」トバイアスは、少し迷ってから言った。「御神はな、受付のたび、扉を見る」
「扉」
「願文を持って入っていくおれの後ろの、開いた扉をだ。毎回だ。おれは様式に詳しいだけの神官だが、あれが何なのかくらいは分かる」
分かってしまう人が報告してしまう人でよかったのか、悪かったのか。リゼアは礼を言って、統制課に戻った。平らな字で、午後の書類を三枚書いた。三枚目の端が少しだけ波打った。
*
夜、宿舎でリゼアは手帳を開く。業務の欄は、統制課の仕事で埋まっている。書かない欄は、転属の日から一行も増えていない。
代わりに、唇の内側に、呼び名が一つある。
イル。
二音である。二音を、リゼアは転属からこちら、一度も、声に出していない。
真名を知る者の言葉は、その神に濃く届く。教本の文は、範囲を書いていなかった。可聴域の外から、この二音がどこまで届くのか、仕様は未検証である。未検証、という言葉にどれだけの引力があるか、わたしほど知っている人間はいない。試したい。呼べば届くかもしれない。届いたら──届いてしまったら、それは制度の外の、二人だけの回線になる。
リゼアは、毎晩、呼ばない。麓に来てからのたった一つの統制だった。その晩も呼ばなかった。呼ばずに、毛布を顎まで引き上げて、北向きの天井に言った。
「……おやすみ」
宛名は、つけなかった。宛名のない言葉は、願いにならない。ならないはずだった。はずだった、という言い方を自分がしていることに気づいて、リゼアは目を閉じた。この丘の──丘じゃない、この町の夜は、静かで、正確で、目を閉じても、返事のない部屋の静けさは変わらなかった。
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