第24話 最初で最後の嘘
発効の朝は、よく晴れた。
リゼアは夜明け前に荷造りを終えた。荷物は、来た時より少し増えていた。海神殿の語彙表の写し。火神殿の派生様式。三神殿の礼状。手帳が二冊。一冊目は業務で埋まり、二冊目は埋まっていない欄の方が多い。
官舎の鍵を玄関の内側に置いた。規程どおりである。玄関には、もう傘はない。机には、もう石もない。寝室の窓だけが、南を向いたままだった。あれは建物の向きで備品ではないから、目録に載らず、回収されない。南向きの朝日が、空の机を最後に一度あたためていた。
巡礼路の売店の看板は、今朝も「祝福の蝋燭」「聖句の護符」のままだった。半年、毎日見た看板である。商売として成立していた時代が一度はあった、と着任の日に思った。もう一度あるのかもしれない、と今朝は思った。この半年、丘には珍しく人が来た。監察官と、豊穣神と、机が三つ。にぎやかな半年だった、と括ってしまえるくらいには、リゼアはもう、荷物を持っていた。
石段を上った。十一段目は、止まらずに過ぎた。過ぎてから三歩戻って、三秒だけ海を見た。規程にはない。
聖堂の扉の前に、後任が立っていた。
*
後任の統制官は、正確な時刻に着任した。
歳はリゼアより十ほど上で、挨拶は過不足なく、書類は完璧だった。統制課程の修了者で、成績は歴代三位。経歴に事故はひとつもなく、私語もひとつもなかった。引継ぎは一刻で終わった。質問は的確で、すべて様式の内側にあった。
「最後に、何か。様式外の申し送りがあれば」
形式どおりの確認に、リゼアは三秒使った。
雨漏りの桶の、本当の意味。十一段目の海。禁句の、座学に載らない運用。夕方の盆の出し方。言葉にできる形まで降ろせば、どれも様式外の、ただの私事になった。私事は、引き継げない。引き継いだ瞬間に、あれは職務の手順になって、手順になった夕方は、多分もう、夕方ではない。
「──ありません。書類がすべてです」
嘘だった。完璧に様式に適合した、たった一つの嘘だった。半年間、この丘で一度も様式に嘘を書かなかった統制官の、最初で最後の嘘は、口頭で、様式外で、誰の記録にも載らない形で行われた。載らないものは、まだ、わたしのものだった。
「結構です」
引継ぎで唯一、後任の眉が動いたのは、備品台帳の過去履歴だった。
「傘(神具)、月の石、貸与者:言祝ぎの御神……この欄は」
「歴史です」
「……歴史」
後任は、歴史、と小さく書き取った。書き取ってから、書き取った自分に疑義を持つ顔をした。
後任は一礼して、聖堂へ入っていった。扉が閉まる前に、リゼアは祭壇の前の定位置を、最後に一度だけ見た。神はいつもの姿勢で立っていた。いつもの姿勢のまま、こちらを見ていた。
視線が合った。
どちらも、何も言わなかった。言える言葉は全部、昨夜の傘の下に置いてきた。残っているのは、呼び名が一つ。使いどころを間違えたくない呼び名が一つ。それは今日ではない。今日の分の言葉は、おやすみ、で、もう使ってしまった。
扉が閉まった。
*
麓への石段は、半年前より短かった。
下り切ったところに、トバイアスがいた。受付台から出て、石段の下まで。傍聴の日と、同じ場所である。この人の精一杯は、いつも、立ち位置で表現される。
「……新しい配属先、局の統制課だそうだな」
「はい。基準の改正作業と、他神殿への講習と」
「あんたの作った第三の札が、様式になる。あんたが書く側だ」彼は書類の束を、脇に抱え直した。「──栄転だ。様式の上では」
「様式の上では」
「様式の下では」トバイアスは丘を見上げた。「おれは三十年で、いちばん妙な半年だった。妙で……悪くない半年だった。これも言っておく。言ったことは、言ったことになるからな」
この丘の理屈だった。彼なりの、この丘の使い方だった。
「トバイアスさん。一つだけ、いいですか」
「なんだ」
「月に二度の受付日。付き添い、続くんですよね」
「……ああ。おれの職務だ」
「あの人、訊けば答えます。五百年、訊かれなかっただけで」リゼアは丘を見上げずに言った。見上げたら、言い終える自信がなかった。「だから、たまにでいいので。業務の外のどうでもいいことを、一つだけ訊いてあげてください。お茶の味とか。燭台の位置とか」
トバイアスは書類の束を抱え直して、長く息を吐いた。
「様式にない業務だな」
「様式にない業務です」
「──引き受けた。言ったことは、言ったことになる」
*
その日の夕方、丘の聖堂では、後任の統制官が初日の業務を終えた。
終業の式文は正確だった。帳簿の締めも正確だった。退出の前に後任は堂内を点検し、祭壇に、位置のずれた燭台をふたつ発見した。
規程第八十一条、祭具の整頓。後任は燭台を、寸分違わず直した。手際は見事というほかなかった。着任の夜に全部の燭台を直した誰かと同じ精度だった。
直して、一礼して、退出した。完璧な初日だった。何も起こらず、何も欠けず、何も言われなかった。神は定位置で、直された燭台を長いこと見ていた。
*
同じ夜。麓の神殿局、三階の北端。窓のない部屋。ヴォスは、観察記録の二冊目の最後に判定の写しを綴じた。配属、不適。担当交代、発効済み。これにて、言祝ぎの御神付巫女リゼア・ヴァレスに関する観察は、終了である。二冊の綴りは紐を締め直され、閉架の棚へ移された。半年ぶんの、家の回転と、消えた雨と、二百六十語の檻と、月の石と、二色の付箋が、書庫の暗がりで静かに背表紙になった。
机の上には新しい綴りが一冊。
表紙はまだ白い。ヴォスはペンを取り、様式どおりの位置に、様式どおりの字で書いた。
──観察記録 三。
対象の欄でペンが一秒止まった。
これまでの表紙には、巫女の名が書かれてきた。新しい判定は、対象をこう定めている。ヴォスは一秒ののち、正確に書いた。
──対象:言祝ぎの御神。
人間の観察は終わった。神の観察が始まる。綴りの一頁目には、本日付の報告がすでに一枚綴じられている。後任統制官による初日の業務報告。特記事項の欄にはこうあった。
──特記事項、なし。
なし、と書かれた欄を、ヴォスは長いこと見ていた。それから、頁の余白に、小さく様式外の一行を書き足した。書いた本人だけが読める大きさの字で。
──該当なし、と、空欄は、違う。
棚の、三冊目の隣の空きは、まだ広かった。
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