第23話 イル
最後の勤務日は晴れて始まった。
リゼアは傘を持って石段を上った。神具の傘である。夜明け前の色は今日もきれいで、持ち手の祭具の意匠が朝日を受けていた。十一段目で、足が勝手に止まった。聖堂の屋根の向こうに、海が一筋。三秒見て、四秒目まで見て、五秒目はやめた。やめられたことを、小さな成功として数えた。今日は、数えられる成功を、数えられるだけ数えておく日である。
「傘の返却に参りました」
聖堂で、様式どおりに言った。様式の備考欄どおり、当事者間の手渡しである。神は傘を受け取り、開き、検分し、閉じた。貸した日と同じ手順を、逆から。
「受理する」
傘は、神の手の中で、ほどけるように消えた。彼の側へ帰ったのである。あの玄関で行儀よく立っていた日々が、あの傘にとって長い出張だったのか、短い里帰りだったのか、それを訊く様式はもうなかった。
引継ぎの書類は昼までに終わった。祈願受付は月に二度。禁句は三系統。雨漏りは二箇所、桶は朝のうちに。可聴域は聖堂内より広いと想定して運用のこと。御神は訊けば答える。訊けば、答えるので──
呼称の欄で長く止まった。
引継書の様式には呼称の欄がある。正式には、言祝ぎの御神。リゼアはそう書いた。書いて、その下に括弧を開きかけて、閉じた。仮称は引き継がない。あれは業務の道具ではなかった。最初からずっと、わたしのだった。わたしのものは、わたしが持っていく。
書きながら、ほかにも何度か手が止まった。書けることだけを書いた。
*
夕方、最後の終業の式文を唱えた。
唱え終えて、リゼアは盆を出した。カップを二つ。湯気。階段の二段目。壁際にはヴォスがいた。判定が出た今も、残務の間は監査が続いている。それを承知で、リゼアは堂々と淹れた。隠す理由がもうなかった。減点されるものはもう残っていない。
「コトホギヌス、お茶飲む?」
「……うむ」
最後の茶は、いつもの味がした。いつもの味がすることがこんなに難しい日に、いつもの味を出した自分の手を、リゼアは少しだけ褒めた。神は一杯目を飲み、空のカップを持ったまま、三秒待たずに言った。
「二杯目を、頼む」
「催促が上達してる」
「教師がよかった」
ヴォスの帳面が壁際で動いた。動いて、止まって、それきり何も書かなかった。リゼアは三つ目のカップを出して壁際へ運んだ。
「残務、おつかれさまです。……どうぞ」
ヴォスは帳面を置き、一礼して受け取り、飲んだ。いつもの、感想のない飲み方で。飲み終えて、カップを両手で返して、今夜は言った。
「──良い茶です」
様式の権化の、感想の第一号は、最終勤務日の巫女の茶に対してだった。
二杯目が注がれ、飲まれ、夕方が、ゆっくり終わっていった。
終わりかけた頃、雨が来た。
*
前触れの少ない、まっすぐな雨だった。リゼアは玄関で空を見た。傘は返した。官舎までは数分、走れば濡れる、歩けばもっと濡れる。あの雨の日と同じことを、同じ場所で考えた。違うのは、隣に傘がないことだけだった。
「待て」
神が言って、消えた。
消えた、と思った時には、もう戻っていた。手に傘があった。骨の一本が曲がった、継ぎのあたった、ごく普通の油布の傘だった。
「……それ、作ったの?」
「いや」
「じゃあ、何?」
「神官から借りた」
「──返すんだ」
「当然であろう」
後日知ったことだが、あの時刻に丘にいて、傘を貸せた人物は一人しかいない。監察官も、職制上は神官である。帳面にこの件がどう綴じられたのかは、誰も知らない。傘だけが、翌朝、完璧に乾いた状態で返却されていたという。
リゼアは笑った。笑って、少しだけ泣きそうになって、笑いの方で押し切った。世界を書き換えられる手が、曲がった骨の傘を差している。消すでもなく、作るでもなく、借りてきた。借り物は返さねばならない。返す、という約束ごと、この人は傘を差している。
二人で、一本の傘で、石段を下りた。
傘は、神具のそれより小さかった。小さいぶん、近かった。雨音は屋根の音で、歩幅は正確で、傘の中心は正確にリゼアの上にあって、つまり神の肩は、半分、濡れる側にあった。濡れない存在の肩が、今夜は借り物の傘の下で、律儀に濡れる側を選んでいた。
官舎の前で止まった。
「着いた」と、神が言った。
「着いちゃった」と、口が言った。
あの雨の日と同じ台詞だった。同じ台詞の意味だけが、重くなっていた。明日の朝、発効する。明日からこの数分は、誰のものでもなくなる。
リゼアは、別れの形を探して、結局、いちばん使い慣れた形にした。
「……おやすみ、コトホギヌス」
「──その名で」
傘の下で、神の声がわずかに硬くなった。
「その名で呼ばれるのは、もう、耐えられぬ」
「えっ。今!? このタイミングで、呼称の苦情!?」
「苦情ではない」
苦情の顔をしていなかった。苦情の形を借りた、何か別のものだった。借り物の傘の下で、五百年が言い方を探して、見つからず、結局、いちばん慣れない形にした。
「リゼア・ヴァレス」
神が名を呼んだ。フルネームで呼ばれたのは、着任の辞令以来初めてだった。
「私の名を言う」
雨音が、遠くなった。
「──〓〓〓〓〓〓、だ」
音は、確かに聞こえた。聞こえたのに、頭の中のどこにも置けなかった。長い音列の、形がない。写し取ろうとした端から、音の輪郭が指の間を抜けていく。リゼアは三回、口の中でなぞろうとして、三回とも、最初の一音の手前で落とした。
「……ごめん、聞き取れない。もう一回」
「〓〓〓〓、だ」
今度は短く聞こえた。同じ名のはずだった。同じ名が、同じ長さにすら聞こえない。長さの測れない名前。写せず、持てず、呼べない。それでも音は、確かに二度、この耳まで来た。
「人の耳には、そう聞こえる」神は言った。「人の舌には、乗らない。五百年、誰にも言わなかったのは、惜しんだのではない。渡しても、持てる者がいなかった」
真名。神の真名。それを知る者の言葉はその神に濃く届き、断りにくくなる。明かすことは、自分への影響力を渡すこと。教本はそこまで教えた。教本が教えなかったのは、渡す側の顔だった。いま目の前で五百年の神が、持てないと知っているものを、それでも、差し出している。
「……それ、わたしが聞いていい名前?」
軽口の在庫が尽きた声だった。
「お前に聞かせたのだ」
雨が傘を打っていた。
「最初の音は」と、リゼアは言った。言葉が、勝手に出た。「……イル、に聞こえた」
「では、イルだ」
神は、言った。
「いま、お前のために、作った。〓〓〓〓〓〓の、最初の音。人の舌に乗る形。──イル。私の名の、お前に持てる部分だ」
リゼアは、傘の下で、動けなかった。
明日離れる人間に一番濃い回線を渡した神が、濡れる側の肩のままこちらを見ている。影響力の譲渡。統制官として戦慄すべき場面である。戦慄はした。だがそれは胸の全部ではなくて、残りの場所で、別のものが静かに満ちていた。
「──おやすみ、イル」
最初の一回を、リゼアはそう使った。
「……うむ」
イルは短く答えた。短い返事のどこかが、五百年ぶんやわらかかった。
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