第22話 止まれ
「知っていたら──報告しましたか」
リゼアは三秒使った。三秒で、嘘を二つ組み立てて、二つとも捨てた。「報告しました」は統制官の模範解答で、多分、嘘である。「報告しませんでした」は誠実の顔をした自己申告で、確かめようのないことを断定する点で、これも嘘である。
「──分かりません」
「分からない」
「知らされていなかったので、知っていた場合のわたしを、わたしは観測できていません。観測していないものを、断定はできません」
ヴォスはそれを一字ずつ書いた。書き終えて、顔を上げた。
「審査を終了します」
様式の外の目は、もうどこにもなかった。終了の宣言は様式どおりで、机の片づけも様式どおりで、神の聖堂は半日かけて審問室から聖堂に戻った。机が三つ石段を下りていくのを、リゼアと神は並んで見送った。並んで、何も言わずに。
判定は七日後と告げられた。
*
トバイアスは、判定を待つ七日のあいだに二度丘に来た。二度とも、用件は薄かった。月次の確認が一度、様式の改定通知が一度。どちらも書状で済む用件だった。済む用件を、三十年の神官は息を切らせて石段で運んできて、受付台で茶を一杯飲んで帰っていった。二度目の帰り際、彼は言った。
「おれは審査の様式には詳しくない。詳しくないが……あんたの基準の、第三の札ってやつな。あれを書ける人間を、局は、手放し方を間違えるなよと、おれは上に言った。言ったことは言っておく」
「……ありがとうございます」
「礼はいい。おれは様式どおりに意見具申しただけだ」
様式どおり、が、この人の精一杯の抱擁だった。
七日間は、それをのぞけば、奇妙に普通だった。
受付が一件。査読補助が二件。雨が一度降って、消えなかった。夕方の茶は淹れなかった。淹れない代わりに、リゼアは階段の二段目に毎夕、十分だけ座った。座って、業務日誌を読み返すふりをした。神は定位置で炎を見ているふりをした。ふり、と、ふり。
七日目の朝、美しい封筒が来た。
──審査の結果を通知する。言祝ぎの御神付巫女の配属は、不適。判定の主たる根拠は、観察記録二、綴込番号三十一に示される事実、ならびに正式審査における陳述。担当交代を命ずる。発効、三日後付。後任、着任同日。貸与品および特異物品は、発効前日までに返却または移管の手続きを完了すること。
不適、の二文字は、思ったより静かに読めた。
通知には続きがあった。──なお、神格の変化に関する観察は、別件として継続する。対象、言祝ぎの御神。
対象、言祝ぎの御神。わたしの名前が観察の表紙から消えて、あの人の神号が代わりに書かれる。わたしが運んだ変化だけがわたしの去った丘に残って、観察され続ける。様式はここまで正確に、残酷になれる。
*
「辞令を受けます」
その日の夕方、リゼアは聖堂で言った。言う相手は、規程上は局で、受領印はもう捺してある。それでも、口で言った。この聖堂では、言葉にしたものから順に、本当になる。だから、先に言った。
神は炎から視線を外した。
「受けるのか」
「業務なら、止まります、と言いました。言ったとおりにします」
「規程は間違っていないと思うか」
「──間違ってない」リゼアはゆっくり言った。「北西の村の件で、分かったの。規程が正しく動いても、救えないものがある。今回はその逆。規程は正しく動いて、わたしたちを引き離す。正しさは、保証してくれない。保証してくれないけど、正しさをわたしが壊したら──あなたの隣に立つ資格の方が、先に消える」
統制官の理屈だった。理屈の下で、別のものが軋んでいた。軋みを言葉にしなければ、軋みは記録されない。
神は、長く黙った。燭台の炎が何度も揺れた。それから、言った。
「お前が願えば──」
「言わないで」
反射だった。考えるより速く、手のひらが前に出ていた。
「お願い。その先、言わないで。……言い切ったら、お願いしそうなので」
聖堂が静まり返った。
言い切ったら実行しそうなので。着任五日目に、この堂でわたしが言った台詞である。五百年の神の言葉を、最後まで言わせないための技術。この神が言い切れば、わたしは多分、頷く。頷けば、辞令は消える。消し方は、この人なら百通り知っている。百通りの全部が、検算係の付記の、次の行になる。
神は、口を閉じた。
三秒、そのままでいた。五百年で、言いかけた言葉を飲み込んだのは、何度目だろう。多分、数えている。この人は、数は数える。
「……分かった」
「ありがとう」
「礼を言われる筋ではない」神は炎に向き直った。「私は、何もしなかった」
何もしなかった。それがどれだけの仕事か、今日のわたしたちほど知っている者はいない。
リゼアは階段の二段目に、最後にもう一度だけ座って、訊いた。
「ね。怒ってる?」
「怒っていない」
「拗ねてる?」
「その語彙は持たないと言ったはずだ」
「持たない語彙の返事が早かった」
神は答えなかった。しばらくして、別のことを言った。
「……コトホギヌス、という呼称に、言いたいことが、ある」
「ん? 今さら?」
「──いや」神は、言いかけたものを、置き直した。「今は、いい」
今は。二文字の置き場所を、リゼアは確かめなかった。確かめたら形になりそうだったから。答えない横顔を、手帳に書かずに覚えた。覚える、は、綴じると違って、様式が要らない。
*
翌日は、返却と移管の事務だった。ヴォスが目録を持って官舎に来た。貸与品、傘(神具)、一。特異物品、月の石、一。
「傘は明日、わたしから直接返します。貸与者に」
「様式上は、監察官経由でも可能です」
「貸与者に、直接。……だめですか」
ヴォスは目録を見て、一秒使って、備考欄に何かを書いた。
「『返却方法、当事者間の手渡しとする』。──様式に、そう書いておきます」
「ありがとうございます」
「月の石は」
「局の保管庫へ、お願いします。布は被せたままにしてあげてください。……月が出てる夜は、光るので」
光るので、の先は言わなかった。保管庫に窓はない。窓のない部屋で、月に同期する石が、誰にも見られずに光ったり、消えたりする。それはただの物品の話で、ただの物品の話として、リゼアは手続きを終えた。備品の欄の三つの「未定」に、順番に線を引いた。
未定は、いつか定まる。あの人の言ったとおりだった。定まり方までは、様式は教えてくれなかったけれど。
最後の頁に、引継書の下書きがある。後任への申し送り。祈願受付は月に二度。禁句は三系統。雨漏りの位置は二箇所、桶は朝のうちに。位置のずれた燭台がふたつあるが──
ペンが止まった。
位置のずれた燭台がふたつあるが、直さないでください。
とは、様式に書けなかった。理由の欄に書ける理由が、この世のどの様式にもなかった。リゼアはその一行を消して、消した跡を見て、手帳を閉じた。
明日が最後の一日だった。
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