第21話 検算
審査の朝、聖堂に机が三つ運び込まれた。
祭壇の前に審問席。向かって右に記録席。左に出頭者の席。五百年、願いだけを受け取ってきた堂内に、局の備品の机が置かれる。神は定位置に立ったまま、設営を黙って見ていた。自分の聖堂が審問室になっていく工程を、燭台の位置を直すときと同じ目で。
「正式審査を開始します」
ヴォスの声はいつもの速度だった。「審査事項、言祝ぎの御神付巫女の配属の適否。出頭者、リゼア・ヴァレス。陪席、言祝ぎの御神。記録、監察官ヴォスが兼任します」
陪席という欄に神を入れる様式はあるのか、と考えかけてやめた。ないなら準用される。この半年で学んだ。様式は、ないところには準用が生える。
開始前に、トバイアスが石段の下まで来ていた。傍聴の資格はないので、石段の下に立っていた。ただ立っているだけだった。立っているだけのために、麓から上ってきた人がいる。リゼアはそれを窓越しに見て、胸のどこかに置いて、席に着いた。
審査は様式の順に進んだ。着任の経緯。家の回転。雨の消失と復旧。神議と条約。受理基準の起草。飛行、海底、月。私的祈願、計七件。制止、計十六回。リゼアは一件ずつ正確に答えた。それだけが、この席でできる唯一の統制だった。
「北西の村の件を確認します」途中、ヴォスは頁を一枚戻した。「申請は基準に照らして審査され、三名の査読者全員が不均衡を認定し、受理を最善と判定した。あなたも同判定。改正意見書を提出済み。相違ありませんか」
「ありません」
「意見書は審議中です」ヴォスは事務的に言った。それから、少し間を置いた。「……第三の札、という表現は、局内で評判がよい」
様式の中に一滴だけ、様式でないものが落ちた。すぐ次の頁に進んだ。
「次に、証言記録を読み上げます」
ヴォスは頁をめくった。
「豊穣神の発言。『ようやく、分かるようになったか』。同じく、『余分を覚えた神は、変わるよ。いい方にね』」
読み上げられると、あの日の祝福は完全に別の文書だった。配属後、神格に変化が生じたことの、神による証言。恋愛と監査は同じ紙を使う。この丘で何度も見た手品だが、審問席から見ると、種が分かっていてもよく効いた。
「最後に」と、ヴォスは言った。「観察記録二、綴込番号三十一。検算係の付記を開示します」
*
読み上げは一分もかからなかった。
月行き願文、第十二項。月面温度の下限条項に単位の誤記があった旨。誤記のまま成就していれば、祈願者は月面で凍死していた旨。しかるに成就の記録によれば、実施は誤記ではなく、正しい値で行われた旨。誰が、いつ、どの手続きで訂正したのかは、記録上不明である旨。
リゼアは審問席のヴォスの口が動くのを見ていた。三つのことが順番に、内側に落ちてきた。
一つ。わたしはあの夜、月で死にかけていた。
二つ。救われていた。黙って。
三つ。誰もわたしに言わなかった。
(第十二項──温度の下限──どの単位を、どう書き間違えた? 起草は五晩かけた。読み返しは七回した。七回読んで、通った誤記。見たい。原本を見たい。自分の失敗の原寸を、数字で)
恐怖より先に、それが来てしまった。自分という人間の作りを、リゼアはこの瞬間ほど正確に知ったことはなかった。死にかけた事実を知らされた三秒後に、死にかけた数式を見たがっている。統制官の顔は崩れなかった。顔の下で別の何かが音もなく崩れて、崩れた場所から質問だけが積み上がっていった。
ヴォスが顔を上げた。
「御神に、伺います」
堂内の空気が変わった。監察官が定例の外で神へ直接問うのは二度目である。一度目は制止の回数だった。十四回です、十六回だ。あの日、この神は数を正直に増やした。
「第十二項の数値どおりに成就なさいましたか」
「していない」
即答だった。
「理由を」
「そのままでは、あれが死んだからだ」
聖堂が静まり返った。
そのままでは、あれが死んだからだ。五百年、願われたとおりにしてきた神が、願われたとおりにしなかったことを、言い訳の一語もなく認めた。嘘をつく必要を感じない神の正直は、いつも高くつく。今日のは過去最高値だった。
(あれ、って言った)
崩れた場所の底で、場違いなものがひとつだけ鳴った。あれ。この神の語彙で、わたしは、あれ。文句を言うべき場面ではないが、手帳の書かない欄が、審問の最中に一行ぶん、勝手に熱くなった。
ヴォスのペンは正確に動き続けていた。
「確認します。願文の文言と異なる成就を、御神の裁量で行った。記録には残さなかった。相違ありませんか」
「残さなかったのではない」神は言った。「残す様式がない」
「……記録します。『残す様式がない』」
「一点、補足する」
神が自分から言葉を足した。審問で問われていないことを神が足すのは初めてだった。ヴォスのペンが構え直された。
「統制官に過誤はない。第十二項の誤記は、人間の目で七度読んで通る種類のものだ。私が気づいたのは、人間の目を持たないからに過ぎない。……これも、記録に残せ。様式があるなら」
「──様式は」ヴォスは一秒使った。「作ります」
作ります、と様式の権化が言った。この審問で初めて、帳面の進む先が誰にも見えなくなった。
様式のないものは綴じられない。三日前の夜、聖堂でわたしたちを守った理屈が、今日は審問席の真ん中で、統制の虚構を証明する理屈として立っていた。同じ理屈である。同じ理屈が、守りにも刃にもなる。言葉とはそういうものだ。彼が五百年、見てきたもの。
*
短い休廷が挟まった。
机の配置はそのままに、ヴォスだけが記録の整理のために廊下へ出た。聖堂に二人が残った。二人きりで、二人きりではなかった。開いたままの記録席の帳面が、第三者として机の上にいた。
リゼアは出頭者の席から動かなかった。神も、定位置から動かなかった。
一度だけ視線が合った。
訊きたいことが十一個あった。なぜ言わなかったの。いつ気づいたの。単位はどれだけずれてたの。怖かった? あなたに怖いはあるの。どうして黙って。どうして。──十一個の全部が、言葉にすれば帳面に綴じられる形をしていた。だから、どれも言わなかった。神も何も言わなかった。お互いに何も言わない三秒が、この半年でいちばんたくさんのことを言った。
(十一個のうち、一番訊きたいのは、多分十二個目だった。十一個の後ろに隠れて、形になるのを待っている。──あなたは、規程とわたしの、どっちを。……形にするな。今は。ここでは)
ヴォスが戻り、審査が再開された。
「最後の質問です。統制官」
帳面が新しい頁で開かれた。
「あなたはこの逸脱を、知っていましたか」
「……いいえ」
「では」ヴォスのペンが止まった。監察官は様式の外の目でリゼアを見た。「知っていたら──報告しましたか」
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