第4話 暴落の引き金
「48時間以内に195円を19万5千円にする」という老人の課題を、わずか数時間で、しかも21万円という「超過達成」でクリアした明央。
彼は再び、地下のトレーディングルームへと戻ってきた。
デスクの上に無造作に置かれた21万円の現金を、謎の老人は缶コーヒーを片手に、面白そうに眺めている。
「まさか、情報のタイムラグそのものを現物で切り売りするとはな。西川明央、やはりお前の頭脳は腐っていなかったらしい」
「褒め言葉として受け取っておく。これでルールはクリアだ。この21万円は俺の自由にさせてもらう」
明央はそう言うと、老人の横にある最新鋭のPC端末へと歩み寄った。
「黒崎、莉子。神谷が俺を追い落として手に入れた我が社――『ネクスト・フロンティア社』の現在の株価はどうなっている?」
莉子がすぐにタブレットを明央に見せる。
「神谷が新CEOに就任して以降、市場は彼を『現実路線の安定経営者』と評価しています。株価は明央さんが社長だった頃よりも5%ほど高値で安定しています」
「安定、か。反吐が出るな」明央の目が冷たく光る。「あいつはリスクを極端に恐れる男だ。俺が仕込んでいた最先端のAI開発プロジェクトを『不確実性が高い』という理由で全て凍結し、手堅い既存事業の切り売りだけで数字を作っている。だが、市場はまだその欺瞞に気づいていない」
明央は21万円の束を掴み、黒崎に差し出した。
「黒崎。この21万円で、ある『仕込み』をしてほしい。お前の裏のネットワークなら、1日で用意できるはずだ」
「何をお望みですか、明央さん」黒崎が不敵に微笑む。
「『ネクスト・フロンティア社が、次世代AIプロジェクトの特許権を巡り、海外の巨大特許ゴロ(パテント・トロール)から巨額の訴訟を起こされる』という噂を流せ。噂のソースは、シンガポールのダミー法人のフォーラムだ」
莉子が息を呑んだ。「明央さん、それは虚偽情報の流布、風説の流布になるんじゃ……!」
「いや、虚偽じゃない」明央は断言した。「そのAIプロジェクトの初期特許の一部は、俺が個人名義で取得し、会社にライセンスしていたものだ。俺を追放した時点で、そのライセンス契約は自動的に解除される条項を仕込んである。神谷がプロジェクトを凍結したのは、その事実を隠蔽するためだ。俺がその気になれば、いつでも会社を訴えられる。噂は100%事実に基づいている」
黒崎は21万円を受け取り、低く笑った。
「なるほど。21万円を元手に、数億円規模の企業の株価を揺るがす『拡声器』を買え、ということですね。承知いたしました。今夜中に、兜町の仕手筋やネットの投資家界隈に、真実味を帯びた『爆弾』を投下しましょう」
その夜。
ネットの投資掲示板や、SNSの投資家アカウントが一斉にざわつき始めた。
『【悲報】ネクスト・フロンティア社、前社長の特許引き揚げで巨額訴訟の可能性。主力事業に急ブレーキか?』
リークされた文書には、明央のサインが入った本物の契約書のコピー(黒崎が裏から手を回して入手したもの)が添付されていた。情報の信憑性は瞬く間に高まり、夜間の私設取引システム(PTS)で、ネクスト・フロンティア社の株価は急落を始めた。
翌朝。市場が開くと同時に、ネクスト・フロンティア社の売り気配は止まらず、株価はストップ安寸前まで暴落した。
「やったわ……! 神谷の資産は、これで一晩にして数十億円規模で目減りしたはずです!」
莉子が興奮気味に画面を見つめる。
しかし、明央の表情は硬いままだった。
「いや、おかしい。神谷の性格なら、この程度の事態は想定して、すぐに反論のプレスリリースを出すはずだ。なのに、会社側は完全に沈黙している。……まるで、この暴落を『待っていた』かのように」
その時、トレーディングルームの大型モニターが、臨時の経済ニュースを映し出した。
『速報です。本日、株価が急落しているネクスト・フロンティア社ですが、同社の共同創業者であり現CEOの神谷光一氏が、個人資産を投じて自社株の「公開買付け(TOB)」を行うと発表しました。買い取り価格は、現在の暴落した株価にわずかなプレミアムを乗せた金額。これにより、神谷氏は会社の株式の過半数を完全に掌握する構えです』
明央の頭に、衝撃が走った。
「しまっていった……!」
明央はデスクを叩いた。「神谷の狙いはこれだ。あいつは元々、会社を完全に自分のものにするために、自社株を安く買い集めるタイミングを狙っていたんだ。俺が流した噂による暴落を、あいつは自分のTOBの絶好のチャンスとして利用しやがった!」
自分が仕掛けたつもりの罠が、神谷によって逆利用された。
天才と謳われた明央のプライドに、再び冷や水が浴びせられる。
その時、明央のスマートフォンが鳴った。
画面に表示されたのは、忘れるはずもない名前。――神谷光一。
通話ボタンを押すと、受話器の向こうから、かつての親友の、冷徹で傲慢な笑い声が聞こえてきた。
『よう、明央。195円からずいぶんと威勢のいい乾杯の音頭を上げてくれたな。だが、お前の浅知恵など、全てお見通しだ。お前が小細工をしてくれたおかげで、私は市場から安値で株を買い叩き、この会社を完全に我がものにできる。感謝するよ、元・社長殿』
「神谷……!」
『お前はもう死んだ人間なんだよ、明央。大人しく三途の川でも渡っていればよかったものを。……言っておくが、次の罠はもうお前の足元にあるぞ』
ブツリ、と通話が切れた。
同時に、トレーディングルームのドアが激しく叩かれた。
「警察です! 捜査令状が出ています! 西川明央、風説の流布およびインサイダー取引の疑いで同行願います!」
怒号とともに、複数の男たちが部屋になだれ込んでくる。神谷は明央を社会的に完全に抹殺するため、警察まで動かしていたのだ。
「明央さん! 逃げて!」
莉子が叫ぶ。しかし、出口はすでに塞がれている。
絶体絶命の窮地に陥った明央。
その時、それまで静観していた黒崎が、明央の前に立ち塞がり、不敵に微笑んだ。
「明央さん、ここまでは『予定通り』です。……さあ、本当の逆襲を始めましょうか」




