第3話 兜町の仕掛け
翌朝、雨は上がり、雲の隙間から差し込む朝光が東京の街を照らしていた。
日本橋兜町。かつて東京証券取引所を中心に、日本の金融の象徴として栄えたこの街は、デジタル化が進んだ現代でも独特の重厚な空気を纏っている。
古びたビジネスホテルの前で、黒崎が待たせていたセダンに乗り込み、明央と莉子は指定された住所へと向かった。
「……ここか」
車窓から見上げたのは、兜町の片隅に佇む、築数十年の雑居ビルだった。
周囲の近代的なオフィスビルに埋もれるようにして建つそのビルの1階には、年季の入った喫茶店が入っている。看板には『ブラジル』とだけ書かれていた。
「手帳にあった住所は、このビルの地下1階です」
莉子がタブレットを操作しながら告げる。「名義は『東洋経済研究所』となっていますが、実態は幽霊会社のようです」
「幽霊会社、か。あの老人にふさわしいな」
明央は車を降り、ポケットの中の195円の硬貨をジャラリと鳴らした。
「黒崎、お前はここで待っていろ。莉子、行くぞ」
薄暗い階段を降り、地下の突き当たりにある鉄の扉を開ける。
室内に広がっていたのは、予想に反して、無数のモニターとサーバーラックがうなりを上げる、最新鋭の私設トレーディングルームだった。
部屋の中央、大きな革張りのソファに、あのトレンチコートの老人が座っていた。手には、1杯の安い缶コーヒー。
「来たな、西川明央。時間はすでに動き出しているぞ」
老人は不敵に微笑んだ。
「あんたは何者だ。なぜ俺の財布の中身を知っていた」
明央が鋭く問い詰める。
「私の名前などどうでもいい。それより、ルールは覚えているな? 48時間以内に、その195円を19万5千円にすることだ。口座は使えない。この部屋にある機材と、お前の頭脳だけでな」
明央はフッと鼻で笑い、老人の前に歩み寄ると、デスクの上に195円の硬貨を叩きつけた。
「口座が使えないなら、現物で動かすまでだ。……莉子、この近くで今、最も『情報の歪み』が生じている場所はどこだ?」
莉子は一瞬目を見開いたが、すぐに明央の意図を察し、端末を叩いた。
「兜町近辺の、今日のイベント……。本日10時から、大手半導体メーカー『サクラ・エレクトロン』の臨時株主総会が、ここから3ブロック先のホールで行われます。現経営陣と、買収を仕掛ける海外ファンドのプロキシファイト(委任状争奪戦)の決着がつく日です」
「よし」明央の目に天才実業家の光が戻る。「サクラ・エレクトロンの総会結果は、市場の誰もが固唾を飲んで待っている。だが、会場の『中』のリアルタイムの情報がネットに流れるには、数十秒から数分のタイムラグがある。そのわずかな隙間を突く」
老人が面白そうに目を細めた。「ほう? だが、お前には195円しかないぞ。どうやってその情報を金に変える?」
「195円あれば、1つだけ買えるものがある」
明央は100円玉1枚、50円玉1枚、10円玉4枚、5円玉1枚を再び掴み取った。
「莉子、ついてこい。195円の初陣だ」
明央が向かったのは、株主総会会場のすぐ裏手にある、個人経営の小さな文房具店だった。
彼は店に入ると、迷わずレジに向かった。
「すみません。一番安い、A4の赤白のプラスチック製プラカードと、太い黒のマジックをください」
店主が計算する。「はい、合わせて180円ね」
明央は財布から180円を支払った。残金は、わずか15円。
店を出た明央は、ガードレールの脇で、プラカードに凄まじい筆圧で文字を書き殴った。
『サクラ・エレクトロン総会 速報。海外ファンド勝利(=株価爆上げ)、または現経営陣防衛(=株価急落)。結果を【10秒早く】知りたいトレーダーは、ここに集まれ。情報料:1人5,000円』
莉子が息を呑む。「明央さん、これは……」
「兜町の周辺には、スマホ片手にリアルタイムでデイトレードをしている個人投資家や、ヘッジファンドの末端のトレーダーが無数にいる。総会の決議が出た瞬間の『一瞬の株価の歪み』で、億単位の金が動く世界だ。彼らにとって、ネットのニュース原稿を待つ数十秒は致命傷になる。会場の出口の最前列で結果を察知し、それを10秒早く彼らに伝える。その情報の価値は、5,000円どころじゃない」
明央は莉子を見た。
「莉子、お前は会場の『中』に入れ。株主のふりをして、決議の拍手が起きた瞬間に、俺のスマホにワン切りしろ。拍手の長さと大きさで、どっちが勝ったか俺が判断する」
「……分かりました。やってみせます!」
莉子は力強く頷き、総会会場へと走った。
午前11時15分。
サクラ・エレクトロンの総会会場裏、トレーダーたちが集まる喫茶店の前。
明央が掲げたプラカードの前に、奇異の目を向ける男たちが集まり始めていた。
「おい、本当にネットより早く情報が取れるのか?」
一人のせっかちそうな男が声をかけてくる。
「10秒遅れたら、全額返金する。乗るか、反るかだ」
明央は傲慢な笑みを浮かべ、スマホを握りしめた。
その時、ポケットの中で端末が震えた。莉子からの合図だ。
鳴り響くコール。明央の耳には、会場内から漏れ聞こえる、地鳴りのような割れんばかりの拍手の音が届いた。この拍手の長さは――現経営陣の防衛成功、ではない。
「……海外ファンドの勝利だ! サクラの株を買え!!」
明央が怒号のように叫んだ。
集まっていたトレーダーたちが一斉にスマホの画面を叩く。数秒後、公式のニュース速報が流れると同時に、サクラ・エレクトロンの株価は垂直に跳ね上がった。
「勝った……! 本当に10秒早かったぞ!」
「おい、俺にも情報をくれ!」
興奮したトレーダーたちが、次々と明央の手に5千円札を叩き込んでいく。
押し寄せる人の波の中で、明央は確信していた。
自分はまだ、死んでいない。
資本主義の戦場で、いくらでも這い上がってみせる。
数十分後、騒ぎが落ち着いた街角で、明央は莉子と合流した。
回収した現金を数える。
「……21万円。残金15円と合わせて、21万15円だ」
莉子が震える声で言った。
「目標の19万5千円はクリアだ。制限時間まで、まだ36時間以上残っている」
明央は、手の中の大量の紙幣を見つめ、不敵に笑った。
「黒崎を呼べ。この21万円を次の軍資金にして、神谷の喉元に最初のナイフを突き立てるぞ」
だが、その様子を、少し離れた黒塗りの高級車の中から見つめる男がいた。
神谷光一。
元親友の裏切り者は、冷酷な目で明央を見つめ、静かにスマートフォンを耳に当てた。
「……ああ、ネズミが動き出した。予定通り、次の罠を起動させろ」




