第2話 外れの縁談だと思ったら、保存倉のほうが先に気になりました
保存倉へ一歩踏み込んだ瞬間、私はほとんど反射で袖をまくっていた。
石造りの床は冷たい。
でも空気は思ったほど悪くない。
問題は湿気そのものではなく、置き方だった。
穀物袋が壁際へ寄りすぎている。
奥の二列は風が通らない。
塩肉箱と根菜箱が近く、匂いも湿りも互いに移りやすい。
乾燥豆の箱は下段へ押し込まれていて、先に出すべきものと後でよいものの区別もない。
ひどい、とまでは言わない。
でも、このまま冬に入るにはだいぶ危うい。
「何がまずい」
背後でアシュレイ様が訊いた。
声は平坦だったけれど、面倒そうな響きはなかった。
私が余計な口出しをしたことを咎める気はないらしい。
「順番です」
私は振り返り、できるだけ簡潔に答える。
「このままだと、奥の穀物袋から湿気ます。根菜も、傷みの早いものと遅いものが一緒です。あと、塩肉の匂いが移る位置に乾燥豆が置かれています」
アシュレイ様は一度だけ倉庫の中を見渡した。
私の言葉が正しいかどうか、自分なりに見ているのだろう。
そして、そのあとで短く言う。
「直せるか」
「はい」
私は答えた。
迷いはなかった。
「ただし、人手が二人はほしいです。それと、木札と炭筆を少し。あと藁束」
「ハロルド」
アシュレイ様がすぐに名を呼ぶ。
いつの間に来ていたのか、倉庫の入口に白髪の老執事が立っていた。
「言われたものを」
「かしこまりました」
返事も早い。
この家は、人が動くまでの無駄が少ないらしい。
それだけで、かなり仕事がしやすそうだと思った。
ほどなくして、若い侍女が木札と炭筆を、下働きの青年が藁束を抱えてやって来た。
侍女は私と同じくらいの年に見えた。
栗色の髪をきっちり結い上げていて、目だけが妙に警戒している。
たぶん、王都から来た身代わり花嫁がいきなり保存倉をいじり始めたことに戸惑っているのだろう。
「サラです」
彼女が短く名乗る。
「奥様の身の回りを仰せつかっています」
「エレミアです」
私は木札を受け取りながら言った。
「まずは、これを一緒に片づけてもらえる?」
サラは少しだけ目を見開いた。
奥様、としてではなく、自分へ直接仕事を振られたのが意外だったのかもしれない。
でもすぐに頷く。
「承知しました」
それで十分だった。
私は穀物袋の列へ手を伸ばす。
「この二列は全部いったんずらします。壁から半歩離して、木台の上へ。手前の傷んだものから先に出せるよう、赤い札をつけます」
「赤い札?」と、サラが訊く。
「ええ。青は後回しでいいもの。赤は先に使うもの。白は予備。そう決めておけば、誰が見ても分かるでしょう?」
サラは一瞬だけ考えてから、小さく頷いた。
「……分かりやすいです」
「分かりやすくないと困るの」
私は言う。
「私が毎日ここへ来られるとは限らないから」
その言葉に、サラの目がほんの少しだけ変わった。
試しに来たわけではないのだと、ようやく伝わったのかもしれない。
作業は思ったより早く進んだ。
藁を敷き、穀物袋を上げ、根菜箱の位置を変える。
傷みの早いものから順に札をつけ、塩肉箱は風の通る外側へ移す。
豆の箱は匂い移りを避けて反対側へ。
数そのものは足りている。
問題は、必要な順で出せる形になっていなかったことだけだ。
「……奥様」
下働きの青年が、袋を抱えたまま言った。
「これ、前から変だとは思ってたんですけど、どこが変か説明できなくて」
「説明できなくても、変だと思えたなら十分よ」
私は穀物袋へ札を結びつけながら答える。
「そういう違和感はだいたい当たるもの」
「へえ……」
彼は素直に感心したような顔をした。
王都の屋敷では、こういう顔を向けられることはあまりなかった気がする。
皆、私が何かを整えても《《元からそうあるべき》》と思うだけだったからだ。
一刻ほどで、倉庫の見た目はかなり変わった。
通路ができ、先に出す箱が分かれ、湿気の溜まる位置から穀物が退いた。
劇的ではない。
でも、冬越しの倉庫としてはかなりましになった。
「終わりました」
私がそう言うと、アシュレイ様は黙って中へ入り、一巡した。
手を出して袋の下を確かめ、札の色を見て、通路幅を測るみたいに視線を動かす。
その確認の仕方が、妙に好きだと思った。
褒める前に、ちゃんと見てくれる人なのだ。
「悪くない」
やがて、彼は短く言った。
「悪くない、ですか」
思わず聞き返すと、灰色の目が私へ向く。
「かなり助かる、の意味だ」
私はそこでようやく、少しだけ笑った。
この人はたぶん、褒め言葉の使い方が不器用なのだ。
「それは光栄です」
「光栄と思うなら、ついでに他も見てくれ」
「他も?」
「毛布倉と、干し肉庫と、燃料棚」
あまりに当然のように言われて、私は一瞬だけ目を丸くした。
でも、その当然さが少し嬉しかった。
身代わり花嫁が余計な口を出した、ではなく、役に立つなら次も頼む、ということなのだろうから。
「よろしいのですか」
「困るのだろう」
昨日と同じ返事だった。
私は小さく頷く。
「困ります」
「なら見ろ」
それで話は終わりだった。
けれど、その簡潔さに救われる。
長々と恩を着せられたり、気まぐれに許されたりするより、ずっといい。
そのあと毛布倉も見た。
こちらは保存倉よりさらにひどかった。
数はあるのに、サイズ分けが曖昧で、配るたびに奥を掘り返すしかない。
このまま雪が本格化したら、欲しいものを出す前に誰かが凍えるだろう。
「……ひどいですね」
私がそう漏らすと、サラが苦笑した。
「みんな、前からそう思ってました」
「思っていたのなら、なぜそのままに」
「誰も、そこまで手が回らなかったんです」
その答えに、私は少しだけ黙った。
そうかもしれない。
この家は崩れているわけではない。
ただ、厳しい土地に対して手が少し足りていないのだ。
だったら、帳面を読めて、物の順番をつけられる人間が一人入るだけで、かなり変わる。
私は毛布倉の前で振り返った。
「これも、今日やります」
アシュレイ様が即座に頷く。
「必要なものは」
「札と棚板と、あと人手をもう二人」
「手配する」
返事が早い。
早すぎて、少しだけ笑ってしまう。
「そんなにすぐ頷いてよろしいのですか」
「役に立つなら構わない」
その言葉が、ひどくまっすぐ胸へ入る。
王都では、役に立つことはだいたい当たり前に消費されていた。
でもここでは、少なくとも《《役に立つならその分だけ任せる》》らしい。
それは思っていたより、ずっと気分のいい扱いだった。
昼前までには、毛布倉もだいぶましになった。
子ども用、女物、男物、予備。
傷みやすいもの、すぐ出すべきもの、雪の日優先の束。
私が札をつけるたび、サラが横で素早く写しを取っていく。
この子も賢い。
たぶん、覚えが早い。
「奥様」
彼女が札束を抱えながら言った。
「前から思っていたんですが……」
「何?」
「こういうの、好きなんですね」
私は思わず手を止めた。
好き。
言われてみれば、その通りだった。
楽しいというには地味だ。
でも、崩れかけたものが、ちゃんと《《回る形》》へ戻るのを見るのはたしかに好きだ。
「そうかもしれないわ」
私が答えると、サラは少しだけ笑った。
「よかったです」
「何が?」
「嫌々やってる顔には見えなかったので」
その言い方に、少しだけ胸が軽くなる。
王都では、私が何を好きかなんて誰も訊かなかった。
役に立つかどうかだけで十分だったからだ。
昼食は、予想よりずっと遅くなった。
食堂へ入ると、アシュレイ様はすでに席についていた。
私は少し遅れたことを詫びようとしたのに、彼は先にこう言った。
「午前で、倉庫二つを立て直したそうだな」
「はい」
「十分だ」
料理が運ばれる。
温かいスープと、焼いた白身魚と、黒麦のパン。
辺境らしい実直な食事だった。
「……怒られないのですね」
つい口にすると、アシュレイ様がこちらを見た。
「何に」
「花嫁が、朝から倉庫ばかり見ていたことにです」
彼は少しだけ考えるように黙った。
そして、ひどく当然のように言う。
「役に立ったのだろう」
「ええ」
「なら構わない」
それだけ。
でも、その一言に妙な安心感があった。
花嫁らしさより、役に立つことを咎められない。
ただそれだけで、ずいぶん息がしやすいのだと知る。
食事のあと、アシュレイ様は私に一枚の紙を渡した。
冬越し前の物資一覧だった。
ざっと見ただけで、書き方にばらつきがあるのが分かる。
倉庫ごとに記録形式が違うのだ。
「これも見てほしい」
彼は短く言った。
「帳面も、ですか」
「ああ」
私は紙へ視線を落とし、それから思わず少し笑った。
身代わり花嫁として来たはずなのに、初日で倉庫も毛布も物資一覧も渡される。
こんな結婚があるとは思わなかった。
「分かりました」
私は答える。
「ただし、少し時間がかかります」
「構わない」
その返事が、やはり早い。
どうやらこの人は、本当に《《任せると決めたら任せる》》人らしい。
それはきっと、怖いことでもあるのだろう。
でも今の私には、その怖さより嬉しさのほうが勝っていた。
ここでは少なくとも、《《代わりだから》》ではなく、《《できるから》》手を伸ばされるのだと分かったから。
私は物資一覧を抱えたまま、ふと窓の外を見た。
北辺の空は高く、王都より色が薄い。
寒くて、風が強くて、でも嘘が少ない空だ。
外れの縁談だと思っていた。
でも、少なくとも今日はそうでもないのかもしれない。
そんなことを、少しだけ思った。




