第3話 代わりに来た妻へ、辺境侯はちゃんと鍵を渡しました
翌朝、私は誰に起こされるより先に目を覚ました。
辺境の朝は寒い。
けれど寝台から足を下ろした瞬間、昨日ほどの心細さはなかった。
今日は、保存倉と毛布倉の続きを片づけると決めていたからだ。
洗面を済ませて部屋を出ると、廊下の窓から朝の薄い光が差していた。
外ではもう荷車の音がしている。
この家は本当に、朝が早い。
「おはようございます、奥様」
サラが、ちょうど私の部屋の前で待っていた。
昨日より表情が少し柔らかい。
警戒が消えたというより、距離の測り方を決めた顔だ。
「おはよう、サラ」
私がそう返すと、彼女は小さく頷いた。
「旦那様より、朝食の前に南倉も見てよいと仰せつかっています」
私は少しだけ目を瞬いた。
昨日、保存倉と毛布倉を見ただけで、もう次の倉まで触ってよいことになっているらしい。
仕事を任せると決めるのが早い人なのだなと、改めて思う。
「では、先に見ましょう」
サラはすぐに歩き出した。
こういうところも気持ちがいい。
王都の屋敷なら、まず「本当に?」「どこまで?」と顔色をうかがわれる。
この家では、許可が出たら次の瞬間には人が動く。
南倉は、保存倉より少し小さかった。
中には燈油、蝋燭、干し草、傷薬の箱、補修用の布、壊れた取っ手や釘まで、細々したものが雑多に押し込まれている。
一目で分かる。
これは「足りない」のではなく、「整理する人間がいない」状態だ。
「……なるほど」
思わずそう漏らすと、サラが横から覗き込んだ。
「ひどいですか」
「ひどいというより、惜しいわ」
私は答える。
「どこに何があるか分からなくなると、足りているのに足りないように見えるでしょう?」
「はい」
「すると、重ねて買う。
重ねて買えば、今度は余計に置き方が悪くなる」
サラの目が少しだけ大きくなる。
「……その通りです」
「よくある話よ」
王都の実家でも何度も見た。
足りないのは物ではなく、帳面と置き場所の順番なのに、皆すぐ「買い足そう」と言い出すのだ。
そういう家は、だいたい同じ場所から崩れる。
私は南倉の前に立ったまま、必要な札と板の数を頭の中で数えた。
油。
補修布。
釘。
応急手当箱。
冬嵐用の予備。
使用頻度と緊急度を分ければ、かなり見やすくなる。
「これも今日中に片づけます」
私がそう言うと、サラは一瞬だけ困ったように笑った。
「奥様、昨日も同じことを仰っていました」
「昨日の私が少し楽観的だったみたいね」
そう返すと、サラが本当に小さく笑う。
どうやら私は、少しずつこの屋敷の空気に馴染み始めているらしい。
朝食の席には、アシュレイ様がすでに着いていた。
私は少し遅れて席につく。
卓の上には温かい粥、焼いた肉、根菜の酢漬け、黒麦のパン。
豪華ではないが、無駄がなくて好きな食卓だった。
「南倉はどうだった」
アシュレイ様が、挨拶の代わりみたいに訊く。
「困るくらいには、整っていませんでした」
私は答える。
「ですが、崩れているというほどでもありません。札と帳面があれば、たぶん十分戻せます」
「帳面か」
「はい」
私はパンを一口ちぎる。
「倉庫ごとに書き方が違いますし、記録が残っていないものも多いです。このままでは、冬の途中で何が足りなくて何が余っているのか、誰にも分からなくなります」
アシュレイ様は少しだけ黙ってから、食卓の端に置いてあった小さな鍵を一つ持ち上げた。
黒鉄の、飾り気のない鍵だ。
けれど手入れは行き届いていて、毎日使われていることが分かる。
「持て」
そう言って、私のほうへ差し出す。
「……これは?」
「南倉の鍵だ」
私は反射的に手を止めた。
鍵というのは、ただの道具ではない。
特に家の中では、それが誰を信用しているかの形になる。
「よろしいのですか」
「困るのだろう」
昨日と同じ言葉だった。
でも、今日のそれは少しだけ重みが違った。
昨日は「好きに見ろ」だった。
今日は「持て」だ。
中へ入っていい、ではなく、管理していいという意味になる。
「私、まだ来たばかりです」
「知っている」
アシュレイ様は短く答える。
「だが、昨日一日で、少なくとも倉の置き方はお前のほうが分かると分かった」
分かる。
そう言い切るのだ、この人は。
私が驚いていると、彼は続ける。
「私は人を見る目に、自信があるほうではない」
それは少し意外だった。
辺境侯という立場なら、むしろ人を見るのが上手そうに思えたからだ。
「だが、目の前で動いた結果くらいは分かる」
灰色の目がまっすぐこちらを見る。
「昨日、お前が倉を触ったあと、すぐに物の流れが軽くなった。なら、持っていたほうがいい」
私はしばらく、その鍵を見ていた。
身代わりとして差し出された花嫁へ、こういう形で信頼が渡されるとは思っていなかったからだ。
言葉よりも早く、手元に置かれる責任。
それが、思った以上に嬉しかった。
「……ありがとうございます」
鍵を受け取ると、金属は少し冷たかった。
でも嫌な冷たさではない。
使われてきた道具の重みが、そのまま手のひらへ落ちてきた気がした。
「必要なら、人も使え」
アシュレイ様が言う。
「サラだけでは足りないなら、ハロルドへ言えば出す」
「では、倉庫番から二人お借りしたいです」
「分かった」
やはり返事が早い。
しかも、その場で終わる。
余計な探りも、恩着せがましさもない。
それが不思議と心地よかった。
朝食のあと、私はさっそく南倉へ戻った。
昨日より人手が増えている。
倉庫番の青年が二人、どこか緊張した顔で立っていた。
ハロルド老執事も、少し離れた位置からこちらを見ている。
彼は昨日まで私へ必要最低限しか言葉を向けなかったが、今日は明らかに様子見の顔だった。
「まず、今日は全部を綺麗にする必要はありません」
私は皆へ向かって言う。
「一番よく使うもの、一番急ぎで要るもの、一番奥へ押し込めてはいけないものだけ先に分けます」
倉庫番の一人が、おそるおそる手を挙げた。
「奥様、それってどれですか」
「燈油、補修布、釘、手当箱」
私はすぐに答える。
「冬は、暗くなる・破れる・外れる・怪我をするの順で困るでしょう? ならその順に手前へ」
二人がなるほど、という顔をした。
そういう顔を見ると、少しだけ自信が出る。
私は決して特別賢いわけではない。
でも、生活の困りごとの順番はよく知っているつもりだった。
作業は昼過ぎまで続いた。
燈油は棚の上へ、釘は箱を小分けにして札をつける。
応急手当箱は倉の入口から二番目の棚へ。
補修布は厚地と薄地を分け、雪の日用には青い札、普段使いには白い札。
やっていることは地味だ。
でも地味なぶんだけ、整うとすぐに効く。
「……見やすい」
サラが、並べ直した棚を前にぽつりと言った。
「今まで、どこに何があるか、いちいち聞かないと分からなかったのに」
「聞かなくても分かるようにするのが帳面と札の仕事よ」
私がそう答えると、彼女は少しだけ考えてから言った。
「奥様は、前のお屋敷でもこういうことを?」
手が止まる。
でも私は隠さなかった。
「だいたいは」
「じゃあ、おうちでも頼りにされていたんですね」
その言葉に、少しだけ笑いそうになる。
頼りにされていたのかもしれない。
でも、今になって思えば、それは信頼より便利さに近かったのだと思う。
「そうね」
私は曖昧に答えた。
「たぶん、そんな感じだったわ」
サラはそれ以上訊かなかった。
賢い子だ。
聞かないほうがいいことと、今はまだ聞くべきでないことの違いが分かるらしい。
午後の遅い時間、ようやく南倉まで片づいたころ、ハロルド老執事が静かに近づいてきた。
白髪を後ろへきっちり撫でつけた、厳格そうな老人だ。
ここへ来てからずっと思っていたが、この人はたぶん、屋敷の全部を頭に入れている。
ただ、全部を自分一人では回しきれないだけなのだ。
「奥様」
私は振り返る。
「何でしょう」
「帳面もおつけになるのですか」
問い方は慎重だった。
反対しているわけではない。
でも、どこまで本気なのかを測っている声だった。
「そのつもりです」
「倉ごとに?」
「いえ、最初は全体で一冊にまとめます」
私は答える。
「倉ごとの癖が強いので、まず一度、同じ物差しで並べたほうがいいです。慣れたら分冊にしたほうが見やすくなるでしょうけれど」
ハロルド老執事は少しだけ目を細めた。
そして、ごくわずかに頷く。
「……承知しました」
それだけだった。
でも、その頷きには明確な重みがあった。
屋敷を長く回してきた人の納得は、軽い褒め言葉よりずっと嬉しい。
その日の夕方、部屋へ戻ると机の上に手紙が一通置かれていた。
母の筆跡だ。
飾りの多い封蝋まで見慣れている。
私は少しだけ嫌な予感を覚えながら封を切った。
中には短い文が並んでいた。
エミリアの縁談が決まりました。
相手は侯爵家の嫡男ユリウス様で、王都でも評判の良縁です。
あなたは辺境で地味な暮らしでしょうけれど、落ち着いていて似合っていると思います。
私は読み終えてから、しばらくその紙を見ていた。
辺境で地味な暮らし。
たしかにそうだろう。
でも、だから何だというのだろうとも思う。
少なくとも今日の私は、誰かの代わりに押し込められた地味さではなく、自分の手で整えた倉庫の札を見て満足していたのだから。
そうしていると、不意に部屋の扉が軽く叩かれた。
アシュレイ様だった。
「起きているか」
「はい」
扉を開けると、彼はいつもと同じ無駄のない顔で立っている。
けれど、その手には新しい帳面が一冊あった。
「これを」
差し出されたのは、丈夫な革表紙の帳面だった。
角は補強され、紙質も悪くない。
倉の記録をつけるにはちょうどよさそうなものだ。
「ハロルドが、奥様が帳面をつけるなら新しいものが要るだろうと」
私は目を瞬いた。
あの老執事が、もうそこまで話を進めたのか。
「ありがとうございます」
「礼はハロルドに言え」
「もちろんです」
帳面を受け取る。
手に持つと、妙にしっくりくる。
王都で私が使っていたものより、少し厚くて少し素朴だ。
でも、今の私にはそのほうが合っている気がした。
「それと」
アシュレイ様は少しだけ言い淀んだあと、静かに続けた。
「今夜から、夕食後の帳面は応接間でつけるといい」
「応接間で?」
「暖炉がある」
たしかにその通りだった。
私の部屋でも仕事はできるけれど、応接間のほうが広いし火も安定している。
でも、それだけではない気もした。
「一人で抱え込むと、あとで分からなくなることがある」
彼は私を見ずにそう言った。
「なら、見えるところでやったほうがいい」
その不器用な気遣いに、私は少しだけ胸が熱くなる。
役に立つなら使え、というだけではなく、使い潰れないように見ているのだ。
そういう人なのだと、少しずつ分かってくる。
「……分かりました」
私は頷いた。
「では、今夜からそうします」
アシュレイ様はそれ以上何も言わず、短く頷いて去っていった。
扉が閉まったあと、私は帳面と母の手紙を見比べる。
片方は、華やかな良縁のお知らせ。
もう片方は、私のための新しい帳面。
どちらが当たりだったのかなんて、比べるまでもない気がした。
第4話は明日5/13の19:50投稿予定です。




