第一話 妹の身代わりとして、辺境侯へ嫁ぐことになりました
※短編「妹の身代わりで不遇な辺境侯に嫁がされましたが、外れを引いたのはどうやら向こうだったようです」を加筆・再構成した連載版です。
短編未読でも読めるように書いています。
「妹にはもっと相応しい縁談があるの」
母は、泣きそうな顔の妹を抱き寄せながらそう言った。
その声音は、私へ説明をしているというより、すでに決まったことを聞かせている響きだった。
窓の外では、夕方の光がフォルナー伯爵家の庭へ斜めに落ちている。
春の終わりの、やわらかい色だった。
でも、応接間の空気だけは妙に冷たい。
「お父様も同じお考えですか」
私は一応、父へ視線を向けた。
伯爵である父は、気まずそうに咳払いをひとつした。
そして、ちらりと妹を見てから、私ではなく暖炉の上の時計を見た。
「……相手はグランフェルト辺境侯だ」
ようやく出た言葉は、ひどく事務的だった。
「北辺の防衛を任される家だが、土地は寒く、王都からも遠い。エミリアには少々荷が重い」
エミリア。
妹の名前だ。
私の名はエレミア。
父は、たまにこうして私の前で妹の名を自然に口にする。
昔はそのたびに、胸の奥がきゅっと縮んだ。
今はもう、そこまで驚かない。
驚かないことに慣れてしまっただけだ。
「お姉様なら落ち着いていらっしゃるし」
妹のエミリアが、濡れたような目で私を見た。
かわいらしく唇を震わせる。
昔から、それが得意な子だった。
嫌なことを嫌だと言うのではなく、困ってみせる。
そうすると、だいたい周りが何とかしてくれるのだ。
「わたくし、寒い土地は苦手ですの」
彼女はか細い声で続ける。
「それに辺境なんて、王都みたいな舞踏会も少ないのでしょう? 粗野な人ばかりだって聞きますし……」
母が、かわいそうに、という顔で娘の肩を撫でた。
私には一度も向けられたことのない表情だった。
別に今さら羨ましいわけではない。
ただ、昔から変わらないのだなと思うだけだ。
「エミリアには、もっと華やかな縁談があるはずなの」
母はそう言って、今度こそ私へ向き直った。
「あなたなら分かるでしょう、エレミア。辺境侯家なんて、家柄は立派でも所詮は寒い北辺の家よ。あの子を送るには惜しいの」
では、私は惜しくないのだろう。
たぶんそういうことなのだ。
それもまた、今さら驚くことではなかった。
この家では昔から、私は手のかからないほうの娘だった。
泣かなければ放っておいてよくて、帳面を預ければ勝手に整い、寄付の名簿を置いておけば翌日には順番まで決まっている。
反対にエミリアは、華やかで、かわいくて、少し放っておくとすぐ困った顔をする。
だから、守られるのはいつも彼女だった。
「分かりました」
私がそう答えると、母はあからさまに安堵した。
父もほっとしたように肩の力を抜く。
エミリアだけが、一瞬だけ目を見開いた。
「……本当にいいの、お姉様?」
「あなたが寒いのが苦手なのは本当でしょう」
私は静かに言う。
「でしたら、私が行くほうが丸く収まります」
丸く収まる。
それは、たぶん私の人生をいちばんよく表す言葉だった。
誰かが嫌がるものを受け取り、誰かが見たくない帳面を整え、誰かのために角をなくす。
昔からそうしてきた。
好きでそうなったわけではないけれど、そうしているうちに、いつのまにかそれが自分の役目みたいになっていた。
「助かるわ、エレミア」
母はしみじみと言う。
その声に悪意はない。
ただ、当たり前のように私を使っているだけだ。
「あなたは本当に聞き分けがよくていい子ね」
私は少しだけ笑った。
そう言われるたび、私は昔から思っていた。
聞き分けがいいのではなく、聞き分けが悪いと厄介な顔をされるから黙っていただけなのに、と。
「婚礼の支度は急ぐ」
父が言う。
「向こうは来月の半ばには迎えを寄越すそうだ。今さら断れば、こちらの体面も悪い」
体面。
やはり最後はそこらしい。
娘の幸不幸より、家の顔。
それが伯爵家というものなのだろう。
少なくとも、この家では。
「でしたら、急ぎましょう」
私がそう言うと、父は小さく頷いた。
母はそのままエミリアの肩を抱き、もう私のことは半分どうでもよさそうな顔をしている。
これで話は終わりだった。
私の人生が、また一つ誰かの都合で決まったというのに、ひどく静かな終わり方だった。
その夜、私は一人で荷物をまとめた。
侍女のサラは、何度も何か言いたそうにしていたけれど、結局何も言わなかった。
賢い子だ。
こういう場で慰めの言葉が役に立たないことを知っているのだろう。
箱へ入れるのは、衣服より先に帳面だった。
家計簿。
保存食の記録。
使用人名簿。
冬物の補修控え。
古い手だれ帳まで。
辺境侯家へ嫁ぐのに、そんなものを持っていってどうするのだ、と昔の自分なら思ったかもしれない。
でも、今の私は知っている。
どこへ行っても、最後に頼りになるのは自分が積み上げた手元の記録だ。
少なくとも、この家ではそうだった。
衣装箱の蓋を閉じる前に、私はふと動きを止めた。
鏡台の引き出しの奥に、昔もらった小さな銀の髪飾りが入っているのを思い出したからだ。
エミリアとお揃いのはずだった。
でも妹のほうが華やかだと言われて、結局私は一度もつけなかった。
今さら持っていく気にもならない。
私は引き出しをそっと閉じた。
置いていこう。
あれはたぶん、この家へ置いていく側のものだ。
窓の外はもう暗い。
王都の夜は、灯りが多い。
辺境は暗いのだろうかと、ぼんやり考える。
暗いなら暗いでいい。
少なくとも、ここより空気は冷たくても、もう少し息がしやすい場所かもしれない。
そう思った瞬間、初めて、ほんの少しだけ期待している自分に気づいた。
辺境侯家が当たりだとは思っていない。
でも、ここを出られるなら、それだけで少しはましかもしれないと。
それは希望と呼ぶには、あまりにも小さい期待だった。
迎えの馬車は、予定より少し早く来た。
辺境侯家の紋章が入った濃紺の馬車は、飾り気こそ少ないものの、車輪も防寒布も驚くほどしっかりしていた。
遠目に見ただけで、見せるためではなく、本当に長旅に使う馬車なのだと分かる。
少しだけ感心する。
「お姉様、お手紙は書いてくださいね」
見送りに出てきたエミリアが、そう言った。
目は潤んでいたけれど、その声に罪悪感はそれほど混じっていない。
たぶん彼女の中では、私はやはり《《困ったときに代わってくれる姉》》のままなのだろう。
「書けたら書くわ」
私はそれだけ返した。
母は「寒いから体を冷やさないように」と言い、父は「向こうの迷惑にならないよう気をつけろ」とだけ言った。
どちらも間違ってはいない。
ただ、娘を送り出す言葉としては少しだけ足りない気がした。
でも、足りなさを数え始めたらきりがない。
私は一礼し、そのまま馬車へ乗り込んだ。
王都が遠ざかるにつれて、景色は少しずつ色を失っていった。
柔らかな緑が薄れ、木々は低くなり、地面は白っぽく乾いてくる。
北へ向かっているのだと分かる風景だった。
途中で一度だけ、小さな宿場で休んだ。
そのとき運び込まれた食事は質素だったが温かく、馬車もほとんど揺れない。
思っていたよりずっと丁寧な扱いに、私は少し戸惑った。
身代わりの花嫁など、もっと雑に運ばれるものだと思っていたからだ。
三日目の夕方、ようやくグランフェルト辺境侯家の屋敷が見えた。
灰色の石で組まれた城館は、王都の邸宅のような華やかさはない。
けれど古くて強い。
冬と風に耐えるための建物だと、一目で分かった。
門兵の姿勢も、出迎えに並ぶ使用人たちの立ち方も、無駄がない。
少なくとも、すでに崩れている家ではなさそうだった。
「長旅ご苦労だった」
そう言って現れたのが、グランフェルト辺境侯その人だった。
アシュレイ・グランフェルト。
背が高く、広い肩をした人だった。
噂では冷酷で無愛想、戦しか知らぬ辺境の男。
そう聞いていた。
たしかに右の眉の上には薄い傷があり、目つきも柔らかいとは言い難い。
でも、実際に向き合うと印象は少し違った。
冷たいというより、余計なことを言わない人なのだと分かる。
「エレミア・フォルナーでございます」
私は深く一礼した。
「このたびは、お迎えいただきありがとうございます」
「礼は要らない」
アシュレイ様は短く言った。
「本来ここへ来る予定だったのは妹君のほうだと聞いている」
思っていたより率直で、私は少しだけ目を瞬いた。
でも、そこを曖昧にされるよりはずっとましだ。
「はい」
「あなたに拒否権があったとは思っていない」
彼はそれだけ言って、ほんの少しだけ言葉を選んだ。
「だから先に伝えておく。私の妻としての礼は尽くす。だが、この婚姻で無理に何かを求めるつもりはない」
その言い方に、私は不意を突かれた。
もっと事務的な確認か、あるいは無関心な扱いを想像していたからだ。
少なくとも、この人は私を妹の代用品として連れてきたつもりではないらしい。
「……ありがとうございます」
そう返すしかなかった。
それ以上の言葉が、すぐには出てこなかったのだ。
「今日は休め」
アシュレイ様は続ける。
「話は明日の朝にする」
そのまま彼は使用人へ視線を送り、私の荷物を運ぶよう指示を出した。
必要なことだけを、必要なだけ言う。
その態度は不思議と落ち着いた。
少なくとも王都でよく見たような、笑顔の裏で値踏みする感じがない。
それだけで、少しだけ息がしやすかった。
寝室は想像していたよりずっと暖かかった。
暖炉には火が入り、窓には厚い布が二重に掛かっている。
水差しの隣には湯まで用意されていた。
私は着替えを済ませ、寝台へ腰掛けたあと、しばらく何もせずにいた。
静かだった。
王都の家と違って、誰かの泣き声も、誰かをなだめる声も、遠くから聞こえない。
その静けさに、ようやく疲れがにじんでくる。
私はその夜、久しぶりに深く眠った。
翌朝、目が覚めたときにはまだ外が薄暗かった。
辺境の朝は早いのだろう。
遠くで荷車の軋む音がする。
起き上がり、窓の布を少しだけめくると、中庭を横切る使用人たちの姿が見えた。
袋を運び、木箱を積み、雪除けの道具をまとめている。
その動きが妙に整っていて、私は少しだけ気になった。
この屋敷は、ちゃんと回っている。
でも、どこか張り詰めた感じがある。
着替えを済ませ、まだ人の少ない廊下へ出る。
案内役の侍女を待つつもりだったのに、足はなぜか裏手の方へ向いていた。
食材や荷の流れを見ると、その家の癖が少し分かる。
そんなことを考えている自分に少しだけ苦笑した。
嫁いだ翌朝から見るところが倉庫だなんて、我ながらどうかと思う。
でも、裏手の保存倉の扉が開いているのを見つけた瞬間、私は足を止めた。
積み方が悪い。
一目で分かった。
穀物袋の位置。
塩肉箱の並び。
乾燥豆の木箱。
全部が少しずつまずい。
このままでは、あと半月もすれば奥の袋が湿気を吸うし、根菜は先に傷む。
冬の本番が来る前に、いくつかは間違いなく駄目になる。
「……もったいない」
思わず声が漏れた。
「何がだ」
背後から聞こえた低い声に振り向くと、アシュレイ様が立っていた。
いつの間にいたのか分からない。
でも、驚くより先に、見つかった、という気持ちのほうが近かった。
こんなものを見て足を止めた花嫁は、たぶん珍しいだろうから。
「申し訳ありません」
私は少しだけ迷ってから、正直に答えた。
「保存倉の積み方です。このままでは、奥の穀物袋が湿気ます」
アシュレイ様は驚くでもなく、私の視線の先をそのまま見た。
「分かるのか」
「実家で、冬の備蓄管理をしておりましたので」
本当は家計も寄付も衣料も見ていた。
でも、そこまで一度に言う必要はないだろう。
まだここへ来たばかりなのだから。
「……そうか」
彼は少しだけ考えるように黙ったあと、静かに言った。
「見てくれるか」
私は目を瞬いた。
「よろしいのですか」
「困るのだろう」
その言い方が、あまりに当然だったので、私は一瞬だけ言葉を失った。
困るなら直せばいい。
そういう発想を、この家の人はするらしい。
「一時間ほど、お時間をいただけるなら」
私がそう言うと、アシュレイ様は短く頷いた。
「好きに使え」
それだけだった。
それだけなのに、なぜか少しだけ胸が軽くなる。
ここでは、口を出したこと自体を咎められないのだと、ようやく分かったからだ。
私は保存倉へ一歩踏み込んだ。
身代わりの花嫁として来たはずなのに、最初に気になったのは夫でも寝室でもなく、穀物袋の積み方だった。
でも、たぶんそれでいいのだと思う。
少なくとも、今の私には。
本日、第3話まで更新する予定です。




