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佳子とシロ

佳子とシロの出会いについて

 春人が就職して新しい配属先になってから、今日は初めての休みであった。特に何も用事がなかったので、自宅にて春人は過ごしていた。

 春の新緑の華やかな季節。天気にも恵まれて、暖かい日の光が家屋に差し込んでいる。春人は自然と活動的な気分になり、これを機に滞っていた片づけをこなしていた。

 やがて時刻は昼時になり、食事をしようと春人が台所へ向かう。すると、その流し場に置かれた(たらい)を発見した。そこには白い布巾が水に浸っていた。

 佳子が洗っている途中でパートへ出かけてしまったのに違いない。春人はそう思い、その布巾を彼女の代わりに洗おうと水の中に手を入れて触れた。――その瞬間だった。布巾がいきなり春人の指を噛んだのは。


「うわぁ!」


 春人は予想外のことに驚いて、思わず大きな悲鳴を上げてしまう。振りほどくように春人は布巾から手を退けて、その布巾をまじまじと観察する。


 春人が見守る中、布巾は独りでに動き出す。にょきっと中央が摘ままれたように布巾が水面から一部持ち上がった。


「よしこさまのだんなさまといえども、わたしのしんのすがたには、ふれないでほしいです」


 布巾が突然不機嫌そうに話し始めた。その声色で春人はその布巾の正体がシロだと気付く。


「シロ……、なんですか? そんな恰好で一体どうしたんですか?」


 春人が戸惑いながら応答すると、布巾から切なげなため息が漏れる。


「よしこさま、あらっているとちゅうで、いなくなってしまって……」


 やはり春人の想像通りだったようだ。

 出勤間際の朝、佳子が忙しそうに家事をしていたのを春人は思い出す。「後は自分がやっておきますよ」と春人が声を掛けても、佳子は「あともうちょっとで終わるから」と答えて彼女自身の下着をせっせと干していた。その最中、佳子は布巾のシロのことを忘れたようだ。


「私では駄目なんですか? その、調理するのに邪魔なんですけど……」


 たらいは洗い場全体を占めていて、見るからに調理の妨げになりそうである。


「よしこさまいがい、ふれてほしくないので、ふろばにいどうしてもらえますか?」


 シロの要求を受けて、春人はたらいを風呂場へ持っていき、置いておくことにした。

 それからシロはずっと静かなままなので、佳子が戻ってくるまで春人は特に気にすることはなかった。


 夕方近くになって佳子が帰宅したので、春人がシロの件を話すと、佳子は「あら、やだ!」と自分の失念に慌てていた。

 佳子は風呂場へ行くと、たらいを持ってすぐに台所へ戻ってきた。


「シロのことを洗わないとね!」


 佳子はそう言いながら、台所用の石鹸を取り出して準備をしている。


「よしこさま、忘れてひどいです~」


 シロの文句に佳子は「ごめんね」と申し訳なさそうに謝罪する。それから、すぐにシロを洗い始めた。

 石鹸をつけてごしごしとシロを揉み洗いして、佳子は表面の汚れを落としている。そのやり取りを傍で春人は眺めていた。すると、布巾の茶色い染みのような汚れを落とすのに佳子が苦労しているのに気づいた。


「……なかなか落ちないわね」


 そんな佳子に春人はごく当たり前のように台所用の漂白剤を取り出した。


「これを使うといいですよ」


 春人が台所の調理場にドンッとその容器を置いた瞬間。

 たらいの中のシロが「ぎゃああああ! それだけはごかんべんを!」と絶叫して、大慌てしていた。



 その後、シロが漂白剤の使用を必死に断るので、佳子によって普通に洗われていた。今は台所の布巾干しで乾かされている。


「シロはなんで漂白剤を嫌がるんですか?」


 台所にてゴボウを包丁で千切りにしながら春人が佳子に尋ねると、傍にいた彼女はそっと目を伏せる。その眼差しは憂いを帯びていた。


「そう、あれはシロと私が出会った時の頃だったわ……」


 人参の皮をピーラーでむきながら、佳子はシロとの過去を語り始めたのであった。



 余所者の妖怪が暴れている――。

 他の妖怪からそう苦情を聞いた佳子は、好奇心からその様子を見に行ったところ、ボロボロで汚れた布をかぶった妖怪を発見した。

 大きな布からは腕と足が二本ずつ生えていて、二つの開いた穴から目らしきものが覗いている。非常に気が立って興奮していた。


「おうおう、ねえちゃん、おれにいったいなんのようだ!?」


 出会うものに喧嘩を売っているらしく、この妖怪によって暴力を振るわれたものもいると佳子は聞いていた。


「余所者の妖怪が暴れていると聞いたら、会いに来たのよ」


「ああ、なんだと!?」


 佳子の返答を聞くや否や、この妖怪は佳子に襲い掛かってきた。佳子は悲しそうにため息をつくと、「翔影(しょうえい)、出番よ」と呟く。

 すると、佳子の足元から影の妖怪が飛び出して、あっという間に暴れん坊な妖怪を捕縛した。


 捕えられた妖怪は、地面に転がって必死に抵抗していた。そんな妖怪に佳子は静かに近づく。


「ねぇ、あなた」


 佳子が話しかけると、妖怪はピタリと動かなくなり、二つの目を佳子にギロリと憎らしげに向けた。


「なんだよ」


 不満そうな口調で妖怪は答える。


「あなた、自分の正体を覚えている?」


「ああ? しょうたいだと!?」


 そう声を荒らげる妖怪だったが、次の言葉は出て来なかった。その反応を見て、佳子は自分の予想が正しかったことを知る。

 たまにいるのだ。自分の本質を忘れてしまい、自暴自棄になる妖怪が。


 佳子は酷く汚れた布の妖怪を見下ろす。

 こんなに悲惨な状態では、心まで荒んでしまうのも無理はない――。そう同情した佳子は屋敷まで妖怪を連れ帰ることにした。


 自宅には口うるさい佳子の母がいるので、こっそりと屋外の水場にて佳子が妖怪の泥の汚れを落とすと、妖怪はかなり綺麗になった。それでも、まだ布には染みが沢山残っている。


「もしかして、わたしのことを、きれいにしてくださるんですか?」


 佳子の作業に妖怪は戸惑いながらも、先ほどとは打って変わった態度になっている。口調までも従順なものへと変化していた。


「そうよ! 綺麗な方が気持ちいいでしょう?」


「あ、ありがとう、ございます……!」


 妖怪は感極まった様子で佳子へ感謝を述べる。その布から覗いている二つの目が潤んでいるように輝いていた。

 翔影の捕縛が無くなっても、その布の妖怪は逃げる様子がなかった。


 佳子はもっと汚れを落とそうと、離れにいる正のもとを訪れた。そこの風呂場と洗剤を借りて、汚れを落とそうと試みたのだ。

 借りた石鹸を使うと、みるみると妖怪の汚れは落ちてゆく。一部分は完全に元の白い生地へと戻り始めていた。


「う、うれしいです……! こころまでも、あらわれるようです!」


 妖怪が本性を思い出し始めている――。佳子は妖怪の様子から感じていた。しかし、まだ落ちていない酷い染みがあるので、これが無くなれば完全に元通りなるかもしれない。佳子はそう考えて、力を込めて石鹸でごしごしと布をこすり続けた。それでも汚れはしぶとかった。


「なかなか落ちないわねぇ」


 佳子は正にもっと汚れの落ちる洗剤はないかと相談してみた。


「ああ、これを使ったらいかがですか? どんな汚れも真っ白になりますよ」


 正が貸してくれたのは、キッチン用の漂白剤であった。それは佳子が初めて見る代物である。なにせ、家事の一切を女中がこなしていたからだ。


 佳子は特に深く考えず、漂白剤の容器の蓋を取り、その蓋に少し中身の液体を入れる。それから、佳子は妖怪の汚れに直接振り掛けた。


「ぎゃああああああ!!」


 妖怪は大絶叫しながら飛び上がったと思ったら、どろんと煙を上げて姿を変える。佳子は一体妖怪はどうなったのかと慌て、息を呑みながら様子を窺う。やがて、煙が無くなると、妖怪がいた床の上にあるものが落ちていた。


 染み一つない真っ白で綺麗な――四角い白い布である。


 それから、不幸中の幸いにも、妖怪は自分の正体を思い出し、佳子に布巾の物の怪だと教えてくれた。




 全ての話を聞き終わった春人は、開口一番こう言った。


「もしかして、漂白剤を薄めないで使ったんですか?」


「そうなのよ。あの時は知らなくて……」


 恥ずかしそうに佳子が答えると、春人は苦笑する。


「よっぽど原液の刺激が強かったんですね。あんなに怖がるくらいですから」


「そ、そうなのよ……。本当に申し訳ないことをしたわ……」


 申し訳なさそうに話す佳子を見て、春人は過去の佳子の失敗に何度も触れては可哀想だと察する。そのため、これ以上の言及は止すことにした。

 春人は佳子から渡された人参を千切りにして、金平ゴボウを調理する。手際の良い料理の腕である。その様子を佳子と、二つの目を布巾から覗かせたシロが眺めていた。


 居間の食卓の上には、みそ汁と魚の焼き物などの様々なおかずが並ぶ。それから、春人と佳子は向かい合うように畳の上に座った。


「頂きます」


 食事の挨拶をして、二人は食べ始める。

 隣の台所から聞こえるのは、人ならぬものたちの声。今晩の残飯を巡ってじゃんけんをしている様子が伝わってくる。彼らの目当ては、魚の食べ残しのようである。


 いつもと変わらぬ賑やかな夕飯。妖怪たちの楽しげな声を聞きながら、夫婦は過ごすのであった。


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