1-41 頼む
瘴毒鰐の一件から少し経った夜のことだ。
明日は週末で、瘴気浴はお休みだ。夕食が終わり、ベッドに腰かけた俺の膝で、コゲが丸くなっていた。食器を食堂へ返して戻ってきたノルが、静かに俺の前に跪いた。
「主……左腕の話だが」
その時が来たと、声で分かった。
ノルが、深く頭を下げる。
「頼む」
「ノル、顔を──」
「言わせてくれ」
頭を下げたまま、ノルは続けた。
「前に、主が糸の絡まりを切ろうとした時、俺はどうせ失敗すると思いながら見ていた。期待して駄目だった時が怖かった。最初から諦めていれば、失うものはない。魔力を失ってから6年、そうやって、いつ死んでもいいと思って生きてきた」
「ノル……」
「だが、主に買われて、奴隷なのに給料をもらった。奴隷なのに自由に狩りができた。主といると世界が変わった」
「そんなことない。俺の力じゃないよ」
「奴隷なのに俺の指示を警備隊の隊員たちが聞いてくれた。奴隷なのにみんなから名前を呼ばれるようになった。奴隷なのに町長が手を握ってくれた」
コゲが俺の膝から降りて、ノルの足元に寄り添った。
「少しずつ、少しずつ欲が出たんだ。主が沼の帰りに意識を失うたび、俺は数を数えていた。主が巻き終えた毒消し草の数を。一本、また一本と、主の限界が伸びていくのを数えていた。意識を失うのは、主の体の負担になる。わかっていたのに、浅ましい俺は強く止めることができなかった」
ノルがこんなに長く喋ったのは、初めてだった。
「主。俺の魔力の絡まりを──もう一度、切ってみてくれ。……頼む」
俺はベッドから降りて、そっとノルの肩に手を掛けた。
「顔を上げてよ、ノル。隷属者の健康管理は使用者の義務で──いや、違うな」
条文じゃない。労基法を守るためじゃない。
「ノルは俺の大切な相棒だ。相棒の頼みなら、全力でやる。やらせてくれて、俺を信用してくれてありがとう」
ノルがゆっくり顔を上げた。何か言おうとして、言葉にならず、一度だけ深く頷いた。
俺は前々から用意していたものを並べ、ノルと二人で準備する。
毛布、清潔な布、冷蔵木箱に入った最上級の薬草や癒し草、医者を呼ぶ時の金貨、冷たい水、暖かいお湯、度数の高い酒、飲み物、食べ物。
ノルは準備の一つ一つに、細かいところまで気を配っていた。俺が失敗して気絶した時に、ノルが動けなくなっている可能性だってある。何よりも俺のことを心配して準備していた。
「では、最終確認をします。本日の作業は、ノルの左腕にある魔力の糸の絡まり除去。俺は視界に異常が出た時点で自己申告します。俺の申告後、3分経っても作業が終わらなければ、ノルが中断してください。万が一、俺が落ちた場合は、受け止めと寝かしつけは監督者ノルに一任します。立会人コゲは、俺もノルも倒れた時に女将さんを呼びに行ってください。──二人とも質問は?」
「ない」
「きゃう」
「よし」
ノルが床に敷いた毛布の上に座り、袖をまくってドラゴン戦の傷跡が残る左腕を差し出す。俺は毛布の上に膝立ちになって、その腕と向き合う。採血じゃないんだから、袖をまくる必要は無いんだけど。
「痛かったら、すぐ言ってね」
「善処する」
これは、絶対に言わないヤツだな。深呼吸を一つ。
「──始めます」
左腕を「見る」。20センチほどの絡まりの団子。何百本もの糸が石になったような密度。6年間、ノルの魔力を堰き止めた塊だ。
ハサミを出して、刃先を団子の根元に当てる。
硬い。相変わらず硬い。──だが、刃が進む。あの日とは違って、ぎち、ぎちと重い手応えを返しながらも、確実に糸は切れていく。
「ちゃんと切れてるよ」
「痛みは無い」
お互いにホウレンソウ大事。
外側から、削ぐように断ち切る。一本ずつ切るたびに団子が少しずつ腕から離れていく。団子の切断面の外側は、少し柔らかく刃の通りもいい。内側へ進むほど糸は古く固まっていて、切る度に俺の魔力がハサミを通して抜けていくのがわかる。
汗が目に入る。まばたきで散らして次の一本にとりかかる。
腕が重くなってくる。まだまだだ。
喉が渇いてきた。口を開けたら、ノルが水を飲ませてくれた。
かなり魔力が減った気がするけど、途中で休憩したら、切断作業が振り出しに戻りそうだ。絶対にこのままハサミから手を離さない。ノルの覚悟は無駄にしない。
視界の端に、じわりと黒が滲み始めた。
「視界不良発生」
自己申告する。だが、あと少しだ。
中心にひときわ硬い芯が残っている。6年前の一番古い詰まりだろうか。
腕全体が震えた。俺は、じわじわと視界を覆っていく黒い滲みを無視して集中する。
「主」
緊迫した低い声が降ってきた。ノルが俺の腕を叩く。
「時間だ。また、やり直そう」
「いける」
息を吸って、吐く。震えが止まる。残った力の全部を、刃先の一点に集めた。
「──切れろ!」
ぱきん。枯れた枝が折れるような、乾いた音がした。
絡まりの根本の芯を完全に切り落とせた。支えを失った団子がほろほろと崩れ落ちて、空中で消えていく。身体に力が入らなくなった俺は、ノルにもたれて支えてもらいながら、最後の力を振り絞って残った糸の端を引っぱってノルの腕にゆっくり巻き付ける。等間隔にきれいに巻けたところで、糸の端と端を摘んで結ぶ。結び目がすっと溶けて1本の糸になった。
──その瞬間、ノルの全身の糸が一斉に淡く光った。すごくきれいだ。堰き止められていた魔力が流れ、肘へ、手首へ、指先へ。6年ぶりに全身を満たしていく。
ノルが何かを確かめるように、ゆっくりと左の手のひらを開いた。
ぽっと小さな炎が灯った。ろうそくの火ほどのオレンジ色の炎が、手のひらの上で静かに揺れている。灯して、消して、また灯して。信じられないように、何度も開いたり閉じたりを繰り返す。その指先は震えていた。
ノルにとっては6年ぶりの魔力の炎だった。
その呆然とした横顔を確認して──俺の意識は、落ちた。会心の気絶だった。
目が覚めると、翌日の昼前だった。
出窓で外を眺めるコゲ。半分開いた鎧戸の隙間から差す春の光。枕元にノルが座っていた。一晩中そこにいたのだろうか。──目が、真っ赤に腫れていた。
「……おはよう、ノル」
「ああ。……おはよう」
声はいつものノルだ。体を起こして、ノルの全身をもう一度「見た」。糸は光っている。指先まで、ちゃんと。ただ、昨日は気づかなかったけど、伸ばして巻きなおした箇所の糸は周囲より明らかに細かった。
「ノル、正直に言うね。完治はしてないみたい。仮復旧ってとこかな。繋いだあたりの糸が細くて、光り方も弱いんだ。無理をしたら、また切れるかもしれない」
ノルは自分の左手を開いて閉じて、静かに首を振った。
「問題ない……十分だ」
コゲがベッドに飛び乗ってきて、俺とノルの間にずぼっと収まって、くぅんとお腹空いたアピールをする。俺とノルが目を合わせて笑う。ノルの穏やかな笑顔。うん、十分だな。
遅めの朝食は、女将さん特製の春の野草入りパン粥だった。ノルは二回おかわりをした。




