1-38 瘴毒蜘蛛
沼通い、5日目。皆勤賞への道は順調だ。
朝の流れは、もうすっかりルーティン化していた。ギルドの馬屋のおやじさんと挨拶を交わし──ちなみに馬は初日からずっとノルにベタ惚れだ──まずは瘴気の沼手前の結界地へむかう。結界地に馬を繋ぎ、マスクを装着して魔法懐中時計をタイマーモードに変える。コゲが先導し、俺が採取し、ノルが守る。ノルは狩りに行きたそうにしているが、今回の出張の目的①は俺の魔力を底上げすることだ。安全第一で採取しながら、時間通りに結界地と往復している。
その空気が変わったのは、お昼休憩後の三回目の瘴気浴の時だった。
コゲが、低く唸った。初日の蛇の時とは唸り方が違う。腰を落とし、背中の毛を逆立てている。ノルが無言で、俺を背中に回した。
霧の奥。太い根と根の間に、巨大な網が張られていた。
黒紫に濁った糸が何重にも広がり、何本かの木の根の間を丸ごと塞いで巣を作っている。中央に、ノルと変わらない大きさの蜘蛛。細長い8本の脚でゆっくりと網を移動している。
「瘴毒蜘蛛だ──二人とも、下がれ。来るぞ」
ノルが剣を抜いた。
蜘蛛の腹が跳ねると同時に、口から黒紫の塊が飛んでくる。ノルの剣が斬り払うと、べちゃっと粘つく音を立てて後ろの根に貼りついた。
ノルが踏み込んで、一瞬で距離を詰める。だが、蜘蛛はもっと速かった。網の上を八本の脚で縦横無尽に移動する。地面を走るノルと、空中の網を走る蜘蛛。2Dと3Dでは土俵が違いすぎる。
蜘蛛の腹が連続して跳ねた。今度は、黒紫の塊が連続して飛んでくる。ノルが根の陰に転がり込む。ノルがいた場所に黒紫の塊が次々とぶつかり、泥の地面ごと瞬時に固まる。
「コゲ!」
ノルの叫び声にコゲが弾かれたように駆け出し、蜘蛛の巣の下から裏側へ回り込んで鋭く吠え、蜘蛛の巣を前脚の爪で引っかいて揺さぶる。蜘蛛の脚が一瞬止まり、体勢を変えようとした──その隙にノルが根を次々と蹴って高く跳び、体ごと振り下ろした剣が細長い2本の脚を切り落とした。網から落ちても尚、6本の脚で素早く移動する蜘蛛の体へ、ノルがさらに追撃の一突きを押し込む。
討伐完了。所要時間、5分弱。
「さすが! 連携とれてるねー!」
苦戦せずに討伐できたと思ったが、ノルの顔は渋かった。倒れた蜘蛛の腹を確認して首を振る。蜘蛛の糸嚢──魔法鞄の素材になる糸束が入っている袋──に、剣の傷がついていた。破れた袋の中に体液が滲み、中の糸束を侵していく。
「主。どれが使えるか分かるか」
俺は糸嚢を覗き込んだ。「見る」と一目瞭然だった。無事な糸束は白く澄んで光り、体液に浸かった糸束は光が濁って明滅が弱い。
「ん-、こっちの1つだけ無事。残りは使えないみたい」
「すまん。動きが速すぎて、糸嚢を避ける余裕がない」
「巣の糸を焼いて足場ごと奪うのは?」
「毒の糸は油気を含む。この樹海ごと燃える」
それは駄目だ。俺たちの金脈と先人の道しるべが灰になる。
魔法鞄一つ分には、無傷の糸束が少なくとも60束は必要だと聞いた。この効率では、時間がかかりそうだ。だがそれでも収穫は収穫だ。
無事な糸束と蜘蛛の胴体に埋まっている魔石を回収し、討伐報酬(6千!)のためにバレーボールくらいの大きさの頭部を麻袋に入れて、帰路についた。
怪我に気付いたのは、結界地でマスクを外した時だった。ノルの耳の縁に、細く赤い線が走っている。
「ノル、耳! 切れてる」
「……ん? ああ。巣の糸がかすったか」
毒糸だ。マスクで頬は守られていたが、耳は覆いの外だった。慌てて解毒剤と傷薬を塗る。腫れも痺れも出ず、傷はすぐ塞がった。かすった程度では毒は回らないらしい。念のためにコゲの前脚も確認したが、こちらは何ともなかった。
「ノルがアラクネって言うから、上半身が人間で下半身が蜘蛛かと思ってたよ。普通に大きな蜘蛛だったね」
「女王蜘蛛は、上半身が人間だ。倍ぐらいの大きさだから、出会ったら逃げるしかない。コゲが教えてくれるだろう」
「きゃん!」
倍……4メートルの蜘蛛なんて、しかも上半身人間の女王蜘蛛だなんて見たくな──いや、嘘。ちょっと見てみたい。幼気な美少女風なのか、キレイなお姉さん風なのか、妖艶な美魔女風なのか……一応、中身は健全な32歳だから。
いつものように、ギルドの買取カウンターで毒消し草は大歓迎された。魔石は魔道具に使う素材だが、領都や王都の方が高く売れると言うので、売らずに貯めることにした。薬草類や魔獣の皮素材と違って腐ることも無いし嵩張らないのがいい。ちなみに、ここのギルドで売ると2万ゼナ。領都だと3万ゼナ。王都だと、なんと5万ゼナになるらしい。
宿に戻った俺は、夕食の後で居住まいを正した。
「ノルグレンさん。今日の耳の件で、話し合いをします」
「かすり傷だ」
「ヒヤリハット対策や再発防止に、傷の大小は関係ありません。今日は耳でした。目をかすっていたら、どうするんですか」
ノルが首を捻った。
「……冷やり鳩? よくわからん。まぁ確かに、今の装備だと少し不安ではあるな」
「アラクネは、当面見送ります。リスクに比べて投資利益率が著しく低いと判断しました」
「意味はわからんが、わかった」
「マスクの布地で目出し帽でも作れないのかな。犯罪者識別AIがあれば引っ掛かりそうだけど……」
「主、来週は少し奥へ行かせてくれ。瘴喰鹿を狩りたい。そいつの別名は『瘴気喰らい』だ。その皮なら瘴気を浄化する効果があるから、それで顔を覆える防毒の面を作れる。その間、主は結界地で待っていてほしい」
「わかった。コゲを必ず連れて行ってね。あと時間厳守ね。コゲ、ノルに何かあったら伝信器で合図してね」
「いや……」「きゃん!」
ノルは微妙な顔をしていたが、コゲは「任せろ」という顔で胸を張った。
寝る前、ランプの灯りの下で、俺はあの黒紫の蜘蛛の巣を思い出した。油気を含んで、よく燃える糸。網を焼き払えたら。足場を失った蜘蛛の頭を正確に潰せるのではないだろうか。
──紅焔刃が、あれば。
隣の寝台のノルも、まだ起きている気配がした。




