1-29 銀色の天災との不可侵条約
ペン先が震える。それでも動かす。
「ノル、待ってて。助けるから」
声が届いても、届かなくても構わない。俺はメモ帳を膝に固定して、ペンを走らせた。
頭の中で警報が鳴り続けている。ここで俺が死ねば、ノルとコゲも終わりだ。恐怖に包まれたまま、契約書の穴を塞ぐ言葉──不可抗力条項、契約不適合責任、不作為義務、損害賠償制限条項、誠実協議条項──一つ一つを、高速で取捨選択していく。
俺が守りたいもの。俺が差し出せるもの。
求めるものには永続性を、差し出すものには短期性を。
指の震えは止まらないが、字は思ったより乱れていない。
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甲(魔族)と乙の間で、以下の通り
契約を締結する。
第一条(不可侵義務)
甲は乙の履行を条件として、乙および同行者
への危害を加えない。効力は締結と同時に生
じる。
第二条(要求の範囲)
乙は甲の要求を一件履行する。ただし下記各
号は対象外とする。
一 第三者の生命・身分・自由に関わる処分
二 乙の能力の範囲を超える履行
三 法に基づく乙の義務を阻害するもの
第三条(誓約)
甲は魔族の誇りに賭けて、本契約を遵守する。 ────────────────────────
書き終わったメモ帳をざっと確認してから、ペンと一緒に差し出した。簡単に言うと、「男の言うことを1つ聞くから、俺たちに手を出すな」という内容だ。
男は受け取って、読んだ。
「ふんふん……ねー、能力の範囲を超える履行って、誰が判断するのー?」
「双方の申告によります」
「虚偽申告はー?」
「魔族は真偽を感知できる能力があると本で読みました。それで確認可能とみなします。その際の確認行為は、第一条の『危害』には含めないものとします」
「……ふーん。ねー、『法』って何ー?」
「例えば、『大陸奴隷法』という奴隷の待遇を定めた法律があります」
「えー、もしかしてこの剣士ってキミの奴隷なのー?」
「はい」
大陸奴隷法の小冊子を差し出すと、興味無さそうにパラパラとめくっている。
男がもう一度、メモ帳に戻って、俺が日本のことをメモしているページを見つけ、勝手に読みだした。一応、夢物語風に書いているけど、この男にはバレるだろう。
「これが、キミがいた世界なのー? へぇー、何百人も一緒に空を飛んだり海の上を移動したりできる魔道具があるんだー。ねぇねぇ、この『すまほ』って、何でもできる板なの?」
記憶が薄れる前にと、俺が寝る前に少しずつメモしていた情報だ。男は興味深そうに、次々とページをめくる。
「契約してくださったら、特典としてそのページをお渡ししますよ」
「キミ、交渉が上手いねー。ま、中身はいい歳だもんねー。でも、もう覚えたからいらないかなー」
手強い。さすが魔族。懸命に男の気をひきそうな日本の記憶を思い出す。蟻の王はボドゲと毒で攻略できたんだっけ。俺には無理だな。身体はゴムじゃないし、時間も止められないし、死門も開けないし……って違う。現実逃避をしている場合ではない。
「それ以外の面白い記憶もありますよ。大きな壁に映す物語の写し絵とか、お金を入れると自動で温かい飲み物が出てくる箱とか、黒と白のコマだけで対局するゲームとか」
「ふーん。ま、いっかー。時渡り人と契約するなんて、面白そーだしー。それは、次に会った時に教えてよー」
男は流れるような読めない文字で、あっさりとサインした。
「読めないです」
「ロアだよー。ロア・ディルガ・アグナ」
「え、魔族って真名を明かさないんじゃ……」
「それ、迷信だよー。ついでに言うと、この柱の魔除けの札も効かないよー」
「そうなんですか。えっと、控えを作るから待ってください」
メモ帳を受け取って、次のページに同じ文章を書き込んで俺も署名して渡す。
「俺はキンネです」
メモ帳を腰の革鞄に片付けようとしたら、ロアがひょいと手を伸ばしてきた。
「もうちょっと見せてー」
逆らう間もなく取り上げて、パラパラとめくっていく。帳簿のページ、大陸奴隷法の重要事項の書き写し、収支の計算、証書の控え。別に見られて困ることは無いけど。
「……キミって、奴隷にお金を払ってるのー?」
「大陸奴隷法に定められた使用者責任です」
「へぇ、奴隷を人間扱いするなんて珍しいねー」
「そうみたいですね」
「人間って、お金大好きじゃないのー? 何で払うのー?」
「労働者を守る法律は強行規定であり、契約より優先されるからです」
ロアがまばたきした。三回、続けてパチパチと。まつ毛まで銀色なんだ。
「……キミ、変わってるね」
「よく言われます」
ロアはメモ帳を最後のページまで捲って、一番後ろの白紙を開いた。
「僕も書いていいー?」
「どうぞ」
ロアが俺の差し出すペンを受け取って、するすると何かを書いた。縦書きとも横書きとも違う、記号のような文字が白いページに並んでいく。人間の言語ではない。
「何て──」
ロアが上からひらりと手を振ると、文字が消えた。
ページは白紙に戻っていた。インクの跡も、何も残っていない。
「うふふ。このページはちゃんと取っておいてよー」
「何て書いたんですか」
「秘密だよー」
メモ帳を返された。白紙のページを開いてみる。確かに何もない。俺はそのページの端に鉛筆で小さく「ロア著」とだけ記した。間違えて捨てたり、何かを書き込んだりしないように。
「ねぇねぇ、何か一つ言うことを聞いてくれるんだよねー?」
「はい」
「それなら、そこの狼を僕にくれない?」
俺は第二条の一号を指さした。
「第三者の身分に関わる処分は対象外です」
「ふーん。キミ、あの短時間でそれなりに考えて契約書を作ったんだー。やるねー」
その時、ぱん、と音がした。
シャボン玉が割れた。コゲが四本足で着地して、浮いているノルの前に立ちはだかった。毛を逆立てたまま、ロアを正面から見据える。金色の目が、ゆるがない。
「おやー、お前、自分で球を割ったのー? ん-、そっか。なるほどねー」
ロアが楽しそうに片眉を上げた。手を振ってノルを地面に下ろす。
「じゃあ、またねー。次会う時も、メモ帳、持っといてよー」
踵を返しかけて、ふと足を止める。
「あーあ、早く戻らないとまた怒られるー。かび臭い場所、嫌いなんだよなー」
それだけ言って、ロアは唐突に消えていなくなった。
最初にノルが口を開いた。
「主の別の世界の言葉は、魔族に通じるのか?」
「さぁ、どうだろ」
ノルが額に手を当てた。
「通じるかわからないのに、契約を持ちかけたのか?」
「うん」
「怒らせたら、殺されてた。俺でも勝てない」
「かもね。でも、うまくいったから問題なし」
「主……」
珍しくノルがしゃがみ込んでしまった。
コゲが足元をくるくると回って、ノルのすねに頭をぐりぐりと押しつけ、きゅう、と鳴く。2人して、俺のことを「信じられない」という呆れ顔で見て、ため息をつく。
「コゲすごいね。シャボン玉、自分で割って出てきたんだ」
「きゅう」
「ありがと。──ノルを守ってくれて」
ノルは何も言わなかったが、拾った剣を握りしめて、ロアが消えた場所をじっと見ていた。
ギルドに戻って、ガロスさんにこっそり話してみたが「魔族は天災じゃ、人の子にはどうにもできん」と言われただけで終わった。神出鬼没で対策のしようが無いらしい。契約は早まったか。あんまり無茶な要求じゃないといいなぁ……6歳の健康児だが、少し胃が痛い気がしてきた。




