第6話:傲慢な主の誤算
第6話:傲慢な主の誤算
木々の葉がすっかり落ち、離宮の庭園に咲く白薔薇も、どこか凍てついたような冬の気配を帯び始めていた。硝子の噴水から上がる水音は、冷気をはらんで耳の奥を刺すように冷たい。ジュリアンは今日も、焦燥感を押し殺しながら離宮の重い扉を開けた。今日の彼は、仕立ての良さが際立つチャコールグレーの厚手のウールコートに、深緑のシルクのネクタイを締めている。本家が進める侯爵家との政略結婚は佳境を迎えており、本来であれば完璧な貴族としての階段を上る高揚感に満ち溢れているはずだった。しかし、今のジュリアンの胸中には、形のない不気味な疑惑が黒い霧のように立ち込めていた。
ジュリアンがレイの部屋に入ると、部屋の中は暖炉の火で暖められ、パチパチと薪がはぜる心地よい音が響いていた。ベッドの脇の椅子に座るレイは、ジュリアンが先週与えた、ミルクホワイトの柔らかなローゲージニットに、黒いスラックスという格好だった。その温かみのある衣服は、レイの病的なまでに白い肌と、底の知れない漆黒の瞳をいっそう際立たせていた。
「お帰りなさいませ、ジュリアン様。今日もお忙しいなか、私に会いに来てくださったのですね」
レイはそう言って、いつものように感情の失せた美しい微笑を浮かべた。その足元からは、相変わらず金と銀の鎖が伸びており、彼が「囚われの身」であることを無言で証明している。ジュリアンは言葉を返さず、レイの座る椅子のすぐ横、いつも本や小物を置いている小さなサイドテーブルへと視線を落とした。そこには、数枚の紙片が何気なく置かれていた。それを見た瞬間、ジュリアンの背筋を、冷たい刃でなぞられたかのような悪寒が走り抜けた。
ジュリアンは震える手でその書類を掴み取り、目の前に突きつけた。それは、本家の最新の財産目録、伯爵家の秘密裏の動向、そして何より、ジュリアンの婚約者である侯爵令嬢の、極秘の身辺調査が記された書類だった。本家の書斎の、それも鍵付きの引き出しに保管されていたはずの、決して表に出てはならない最高機密の書類が、なぜこの閉ざされた離宮の、文字すら制限されているはずのレイの部屋にあるのか。
「レイ……。なぜ、これがここにある。これは本家の人間しか触れることのできない、極秘の書類だ。なぜ君がこれを持っているんだ」
ジュリアンの声音は怒りと、それ以上に隠しきれない恐怖で激しく震えていた。しかし、レイは驚く風でもなく、ただ不思議そうに首を傾げるだけだった。
「まあ、それは何でしょうか、ジュリアン様。私は文字のほとんどない絵本しか与えられておりませんから、そこに何が書かれているのか分かりません。ただ、時折この部屋のお掃除に来る従僕の方が、うっかり落としていかれたものではないでしょうか。私は綺麗だと思って、ただそこに置いておいただけですよ」
「嘘を言うな! 従僕がこんなものを持つわけがないだろう! 君は……君は本当は、これに何が書かれているのか知っているんじゃないのか? 私の財産も、私の婚約者のことも、すべて……!」
ジュリアンはレイのニットの胸元を掴み、乱暴に揺さぶった。完璧に支配していたはずのお人形が、自分の預かり知らぬところで糸を引いているのではないかという疑念が、ジュリアンのプライドを内側から食い荒らしていく。しかし、レイの漆黒の瞳は、揺さぶられてもなお、微動だにせずジュリアンを真っ直ぐに見つめ返していた。その瞳の奥には、恐怖など微塵もなく、ただ冷徹な深淵だけが広がっている。
「ジュリアン様、落ち着いてください。お人形である私が、どうやって外の情報を集められるというのですか。私は貴方の与えてくださる檻の中で、貴方だけを見て生きている可哀想な小鳥ですよ。それとも……貴方は私を、信じてくださらないのですか?」
レイの声は、どこまでも優しく、どこまでも冷たかった。その言葉を聞いた瞬間、ジュリアンはハッと息を呑み、思わずレイから手を離して後ずさりした。自分の完璧な支配に、取り返しのつかないほどの冷たい隙間風が吹いている。鍵を握り、生殺与奪の権を持っているのは自分のはずなのに、なぜ目の前の青年の方が圧倒的に優位に立っているように感じられるのだろうか。ジュリアンは自分の傲慢な計算が、どこかで決定的に狂ってしまっているという「誤算」に、ようやく気づき始めていた。
重苦しい沈黙のなか、タイミングを見計らったかのように、従僕たちが昼食のトレイを運んできた。今日のごちそうは、牛フィレ肉のステーキに、トリュフの芳醇な香りを閉じ込めた濃厚なマデラソースをかけたものだ。サイドには、生クリームをたっぷり使ったジャガイモのグラタンと、冷えた白アスパラガスのピクルスが並んでいる。ガラスのグラスには、深みのある最高級の赤ワインが注がれ、ルビー色に怪しく輝いていた。
「さあ……、食事だ。私の手から、食べるんだろう、レイ」
ジュリアンは自らの動揺を隠すように、無理やり声を絞り出し、ナイフで肉を切り分けた。しかし、その手は先ほどから小刻みに震え、フォークに刺した肉が、レイの唇の手前で不格好に揺れた。レイはその様子をじっと見つめた後、自ら一歩前に踏み出し、ジュリアンの手首を優しく、けれど拒めない強さで掴んで固定した。
「手が震えていらっしゃいますよ、ジュリアン様。お可哀想に、外の世界での手続きがお忙しくて、お疲れなのですね。さあ、私のことはお気になさらず、貴方の手から私に食べさせてください」
レイはジュリアンの手から、迷いなく肉を口へと運んだ。トリュフの贅沢な香りが部屋に広がり、レイはそれを美味しそうに咀嚼して飲み込む。ジュリアンはその姿を見ながら、喉の奥がカラカラに乾いていくのを感じた。
「美味しいかい、レイ……」
「ええ、とても美味しいです。ジュリアン様が私に美味しいものを食べさせてくださる限り、私はずっと、この美しい檻の中で貴方を待っています。だから、そんなに怯えた顔をしないでください。貴方を脅かすものが外にあるのなら、私がすべて、消し去って差し上げますから」
レイはグラスの赤ワインを一口含むと、その濡れた唇で妖艶に微笑んだ。その言葉は、一見すれば主への忠誠と愛の告白のようだが、今のジュリアンにとっては、自分の破滅を予言する悪魔の囁きにしか聞こえなかった。
レイが衣服の下で、あの金の足枷の鍵をすでに自ら握っているのではないか。この離宮の従僕たちは、すでに自分ではなく、レイの忠実な手先と化しているのではないか。すべての疑惑が確信へと変わりそうになりながらも、ジュリアンはそれを認めることができなかった。認めてしまえば、自分が築き上げてきた「支配者としての誇り」が完全に崩壊してしまうからだ。
「私は、君の神だ……。君を閉じ込めているのは、私なんだ……」
ジュリアンは自分自身を安心させるように、弱々しく呟き、レイのミルクホワイトのニットに縋り付くようにして抱きしめた。レイは何も言わず、ただジュリアンの背中に細い腕を回し、あやすように優しく、ゆっくりと叩いた。
窓の外では、冷たい風が白薔薇の枯れ枝を揺らし、硝子の噴水が冬の光を鈍く跳ね返している。ジュリアンはまだ気づいていなかった。自分が必死に閉じ込めていたはずの小鳥が、実は最初から檻の扉を開け放ち、外の世界のすべてをその手の中に掌握していたということを。そして、自分が逃げ場を失い、この離宮へと完全に依存して堕ちてくるのを、静かに、楽しげに待ち構えているということを。傲慢な主の誤算は、すでに修正不能な破滅へのカウントダウンを始めていたのだった。




