第5話:不協和音の足音
第5話:不協和音の足音
季節は秋へと移ろい、離宮の庭園に咲く白薔薇の葉も、どこか乾いた音を立てて風に揺れるようになっていた。硝子の噴水から上がる水しぶきは冷たさを増し、砕け散る光もどこか鋭い。ジュリアンは、本家から届いたばかりの格式高い書簡を胸ポケットに忍ばせ、足早に回廊を歩いていた。今日の彼は、深いワインレッドのベルベット製上着に、細やかな銀の刺繍が施されたベストを合わせている。本家から持ち上がった、有力侯爵家との政略結婚の報せ。それはジュリアンにとって、伯爵としての地位を不動のものにするための、完璧な人生のパーツに過ぎなかった。
ジュリアンは、表舞台では完璧な貴族として完璧な妻を迎え、裏ではこの離宮で美しく無力なレイを永遠に飼い殺すつもりだった。愛玩するものと、義務を果たすためのもの。その両方を完全に手に入れる傲慢な愉悦に胸を膨らませながら、ジュリアンはレイの部屋の扉を開けた。
部屋の中では、レイが淡いパステルイエローの上質なカシミアセーターに、チャコールグレーの細身のズボンを合わせて静かに佇んでいた。秋の冷え込みを案じたジュリアンが与えた、肌触りの良い柔らかな衣服だ。レイの足元からは、いつも通り細い銀の鎖が伸び、歩くたびに微かな不協和音を室内に響かせていた。
「お帰りなさいませ、ジュリアン様。今日もお顔を拝見できて嬉しく思います」
レイは、感情の波を一切感じさせない、澄んだ漆黒の瞳でジュリアンを見つめた。ジュリアンは彼の細い腰を引き寄せ、わざとらしくその白い首筋に唇を寄せた後、意地悪な笑みを浮かべて語りかけた。
「ああ、私の可愛い小鳥。実は今日、君に少し大切な話をしなければならなくてね。私の本家から、格式ある侯爵家の令嬢との政略結婚の話が正式に持ち上がったんだ。近いうちに、私は彼女を妻として迎えることになるだろう」
ジュリアンは、レイの顔をじっと覗き込んだ。かつてのように、自分の所有権が他者に移るかもしれないという絶望に打ちひしがれ、涙を流して「行かないでください」と泣き叫ぶ姿を期待していたのだ。嫉妬に狂い、醜く取り乱すことで、さらに自分への依存度を高めてほしかった。しかし、ジュリアンの期待は、拍子抜けするほどの静寂によって裏切られることになる。
レイの端正な顔立ちは、ぴくりとも動かなかった。それどころか、血の気が引くことも、瞳が激しく揺れることもなく、ただ穏やかな湖面のような静けさを保ったままだった。
「……そうでございますか。それは、伯爵家にとっても、ジュリアン様にとっても、大変喜ばしいお話ですね。心よりお祝い申し上げます」
「……お祝いだと? 君は、私が他の女を妻に迎えるというのに、何も思わないのかい? 怒り狂って、私を責め立てることも、泣いて縋り付くこともしないというのか」
ジュリアンは、思わず声音を尖らせた。求めていた甘美なサディズムが満たされない焦燥感が、じわりと胸の奥を焦がしていく。しかし、レイはただ、慈悲深い聖母のように静かに微笑むだけだった。
「なぜ私が怒らねばならないのですか。貴方が表舞台でどなたと結ばれようと、この離宮にいる私の主が貴方であることに変わりはありません。私はただ、貴方の望むままに、ここで静かに待つだけです。貴方が右を向けとおっしゃるなら右を向き、ここにいろとおっしゃるなら一生ここに囚われましょう。貴方の決定のすべてを、私は受け入れます」
「貴方の望むままに」と、レイは優しく、けれどどこか冷徹な響きを伴って繰り返した。その徹底された従順さと、一切の執着を感じさせない圧倒的な「静けさ」に、ジュリアンは生まれて初めて、背筋に一筋の冷たい隙間風が吹き抜けるような、微かな違和感を覚えた。完璧にお人形でいるレイの姿は、自分が望んだはずのものなのに、なぜこれほどまでに不気味で、底知れない恐怖を感じさせるのだろうか。
そのとき、静寂を破るように、従僕たちが昼食の準備のために部屋へ入ってきた。今日のごちそうは、秋の味覚をふんだんに取り入れた鴨肉のロースト、濃厚な無花果のソース仕立てだ。付け合わせには、焦がしバターで香ばしくソテーされたキノコと、シナモンが甘く香る焼きリンゴが添えられている。ガラスの器には、温かいカボチャのポタージュスープが注がれ、香ばしいクルトンが浮かんでいた。
「さあ、食事にしよう。私の手から、食べるんだ」
ジュリアンは違和感を振り払うように声を荒らげ、ナイフで鴨肉を切り分けると、レイの唇へと突き出した。レイは少しの躊躇もなく、素直に口を開けてそれを迎え入れる。無花果の凝縮された甘みと、鴨肉のジューシーな旨味が口いっぱいに広がっていくが、レイはただ淡々と、機械のように咀嚼を繰り返して飲み込んだ。
「美味しいですか、ジュリアン様。この鴨肉も、スープも、貴方の優しさの味がいたします」
「……ああ、美味しいとも。君がそうして、私にすべてを委ねている姿を見るのが、私の至上の喜びだ」
ジュリアンはそう答えながらも、自らの手でワイングラスを掴む指が、微かに震えていることに気づいていた。目の前でカシミアの衣服に身を包み、優雅に焼きリンゴを口に運ぶレイの姿が、まるで精巧に作られた「自分を映す鏡」のように見えて仕方がなかったのだ。
レイは本当に、自分への恐怖や依存から従順になっているのだろうか。それとも、もっと違う別の意図があるのではないか。ジュリアンがレイに与えていた「檻」は、確かに彼を物理的に縛り付けているはずだった。しかし、レイの出す不気味なほどの静けさは、まるで「私はいつでもここを出られるが、貴方を喜ばせるために、わざわざ囚われてあげているのだ」と言外に告げているかのようだった。
「ねえ、ジュリアン様。新しい奥方様を迎えた後も、時々はこうして、私に美味しい食事を運んでくださいますか?」
レイは、ポタージュスープを飲み干した唇をハンカチで拭いながら、漆黒の瞳を真っ直ぐにジュリアンへと向けた。その瞳の奥には、光すらも吸い込んでしまうような、底なしの深淵が広がっているように見えた。
「当たり前だろう……! 君は私のものだ。一生、この檻の中から出すつもりはない。誰が私の妻になろうと、私の本質はここにあるんだ」
ジュリアンは、己に言い聞かせるように強く言い放ち、レイの細い肩を抱き寄せた。ベルベットの上着越しに、レイのカシミアの温もりが伝わってくる。けれど、その温もりさえも、今のジュリアンにとっては、自分を絡め取る蜘蛛の糸のように息苦しく感じられた。
「ええ、分かっております。私はずっと、ここにいます。貴方の望むままに……」
レイはジュリアンの胸に顔を埋めながら、ひっそりと、本当にひっそりと唇を吊り上げた。
傲慢な主であるジュリアンは、まだ気づいていない。自分が仕掛けたつもりの政略結婚の裏で、本家の財政を揺るがすような「不協和音の足音」が、すでにすぐそこまで迫っていることに。そして、自分の完璧な貴族としての未来が、この部屋の美しい小鳥の指先一つで、いつでも粉々に砕け散るガラス細工に過ぎないということに。支配していると信じ込んでいた檻の境界線は、すでに恐ろしい速度で反転を始めていた。




