第9話 薪
そこは座るだけでいいのかね、とラルフの祖父に聞かれて、座るだけです、と答えるまでに、わたしは少しだけ間を置いた。
入っていいと言えば、この人は入るのだろう。
そのあとで何かあったとき、責任はこちらへ来る。
クレメンスのほうを見ると、彼は帳面を閉じてから、自分の言葉として答えた。
「服のまま、百を三回まで。それ以上は、今日はおやめください」
「先生も入ったのかね」
「二度、入りました」
「そうか」
男の人は、先生が二度入ったという一言だけで納得したらしく、外套も脱がないまま小屋の戸をくぐっていった。
ピナが数えはじめて、わたしとクレメンスは戸の外で待つことになった。
一回目のあいだ、中からは何の音もしなかった。
二回目の途中で一度だけ咳が聞こえたとき、クレメンスが戸のほうへ半歩だけ寄った。
三回目が終わって戸が開いたとき、出てきた男の人の顔は、入る前とほとんど変わっていなかった。
「どうでした」
「……わからん」
「わからない」
「暑かった」
それだけかとがっかりしかけたところで、その人は右腕をゆっくり持ち上げ、肘を二度ばかり回してみせた。
ずっと添えたままだった左手は、さっきから一度も肘へ戻っていない。
「痛みますか」
「痛む」
「では、変わりませんか」
「痛むが、動く」
クレメンスが帳面を開き、そこへ三人目という言葉を書き込むのに、たいして時間はかからなかった。
膝でも肩でもなく肘だというのは、記録としてはむしろ都合がいいらしい。
三人とも違うところを痛めている。
ただしこの人が入ったのは湯気のほうなので、クレメンスは欄を分けて書いていた。
それでも同じように楽になったのなら、誰か一人がたまたま特別だっただけ、という説明は少しずつ使いにくくなる。
翌日から、村の人が二人、三人と連れ立って斜面を上がってくるようになった。
ただし、来た人が向かうのは全員が蒸し風呂の小屋で、湯気の立っている水槽には誰ひとり近づかなかった。
服を着たまま座るだけなら大丈夫だという線が、一晩のうちに村じゅうへ広がったらしい。
わたしとしては湯船のほうにも入ってほしかったけれど、そこは急がないことにした。
百年かけて引かれた線が、一日で消えるはずもない。
こちらには五年ある。
それに、蒸し風呂へ人が入っているあいだ、水槽は完全にこちらの貸し切りになる。
誰も入りたがらない湯船を独り占めできるというのは、管理人にとってなかなか贅沢な話だった。
そう言ったら、グレタに先回りされた。
「お嬢様がお入りになるのは駄目でございます」
「なぜ」
「湯あたりなさいます」
「わたしは湯あたりしないわ」
「その台詞をおっしゃる方が、いちばん湯あたりなさるのです」
言い返せなかった。
前世で一度それをやって、脱衣所の床から三十分ほど動けなくなったことがある。
あのときは水を飲んで復活したけれど、この土地で同じことをすれば、たぶん湯が毒だという話の証拠として村じゅうに伝わる。
管理人が倒れるわけにはいかない。
そう思えば、グレタの禁止も受け入れるしかなかった。
困ったことが起きたのは、村の人が来るようになって三日目だった。
蒸し風呂から出てきた女の人が、濡れた髪のまま外套を羽織り、そのまま斜面を下りて帰ろうとしたのだ。
「お待ちください」
わたしより先に止めたのはクレメンスで、その声には診察のときとは違う切迫があった。
「そのままお帰りになると、危険です」
「濡れてるだけだよ」
「それが危ないのです」
身体が温まれば、皮膚を流れる血の量が増える。
そのまま寒い外へ出れば、今度はそこから急速に熱を奪われる。
まして髪や服が濡れていれば、水が乾くときにも身体の熱を持っていかれる。
「北の冬に、それを一刻近くも歩いて帰るというのは、はっきり無謀な部類に入ります」
女の人はよく分からないという顔をしていたけれど、先生が言うなら、と結局その場に座って髪が乾くのを待つことになった。
髪が乾くまでには、こちらが思っていたよりずっと長い時間がかかった。
そのあいだクレメンスは、火の気も炭もない管理棟の土間を何度か見回していた。
「湯そのものよりも、湯上がりに冷えるほうが危ないかもしれません」
その言葉を聞いて、百年前の記録が頭をよぎった。
その日の昼過ぎ、冬の祈祷の日だと言ってヨナスが坂を上がってきた。
春、夏、秋、それに雪が深くなる前の冬に一度ずつ柵の外から祈り、本院へ報告を上げる決まりだと聞いていたので、今日ここへ来ること自体は予定どおりだった。
黒い外套の肩には細かな雪が残り、祈祷の道具と報告用の紙を抱えたまま、土間の火を勧めても屋根の下へは入らなかった。
指先だけが少し白く、紙の端を押さえる動きにも冷えが残っていた。
「今日は、祈祷だけですか」
「はい」
湯のことは聞かなかったが、ヨナスの目は一度だけ水槽のほうへ動き、すぐ柵へ戻った。
それ以上勧める理由はないので、わたしは濡れた髪を火のそばで乾かしている女性のほうへ戻った。
祈祷が終わったあと、ヨナスは軒下で報告の紙を広げ、柵の状態、湯気、来訪者の数を順に書いていった。
蒸し風呂から出た女性が笑いながら髪を梳いているのを見たところで、筆が一度だけ止まった。
「何か?」
「いえ」
短く答えてまた書き始めたものの、紙へ落ちる文字はその前より少しゆっくりになっていた。
服を着たまま湯気に当たり、髪を乾かし、温まったと言って帰る人がいる。
それを見ても湯へ近づかない人がいる。
どちらが正しいという話ではないのだろうけれど、ヨナスが水槽を見ないようにしていることだけは、仕事で湯温を見るわたしにはよく分かった。
帰る前、外套を留め直したヨナスは柵の前でもう一度だけ頭を下げ、祈祷の道具を包み直した。
紙を押さえる指は最後まで冷えたままだったのに、水槽へ近づく足だけは一歩も増えなかった。
「次は春ですか」
「定例の祈祷なら」
「定例でないものも?」
ヨナスは少し間を置き、報告の紙を外套の内側へしまった。
「必要があれば、確認に来ます」
「分かりました」
規則どおりの返事をして見送ると、ヨナスは村へ下りる道には向かわなかった。
本院側へ回る細い道を下りる背中は、来たときと同じ速さで雪の向こうへ小さくなっていった。
湯に通っていた者から順に倒れた。
もし、その全員が濡れた身体のままこの坂を帰っていたのなら。
けれど、百年前のことをいま確かめる方法はない。
わたしは口には出さなかった。
いま必要なのは、昔の答えではなく、目の前の人を冷やさないための火だった。
どれくらい必要なのか見当をつけるため、オットーに数えてもらうことにした。
一日に何人来るのか。
そのうち何人が髪を濡らすのか。
乾くまで、どれだけ火を焚いておく必要があるのか。
オットーは三日ぶん実際に人数を数えてから、紙の上へ数字を並べた。
「いまのところ、一日に来るのは六人から九人。そのうち半分ほどが髪を濡らします」
「乾かすのに、どれくらいかかるの」
「ひとりあたり半刻。来る時刻が重なりませんので、実質は一日に四刻ほど、火を絶やさずにおく必要があります。夜に管理棟で使う分も別に要ります」
それが薪の量に直すとどれくらいになるのか、わたしにはまるで見当がつかなかった。
「一日に四束から五束。雪解けまで百日と見て、四百五十束前後です」
「四百五十」
「相場は、この時期ですと一束が銅貨四枚から五枚」
オットーは最後にもう一行だけ書き足してから、こちらへ紙を回した。
「金貨に直しますと、七枚から九枚になります」
わたしがこの土地でもらえる俸給は、年に金貨十二枚と決められている。
冬のあいだ火を焚き続けるだけで、その大半が消える。
「無理でございます」
「まだ何も言っていないわ」
「お顔に、買うと書いてございます」
実際、買う以外の方法を、わたしはまだ一つも思いついていなかった。
薪と炭をこの地方で扱っているのは、グルント商会という商会だった。
出先は村の外れの、街道に近いところにある。
応対に出てきたのは四十くらいの、身なりのきちんとした男の人だった。
「ヴェルテの管理人様でいらっしゃいますか」
「はい」
「お話は伺っております」
椅子まで出してくれたし、こちらが用件を言う前から事情も把握していた。
「薪を、まとまった量でお願いしたいのですが」
「何束ほど」
「冬のあいだで、四百五十ほど」
「四百五十」
男は帳面を一枚めくってから、こちらの目を見た。
「一束、銅貨八枚でいかがでしょう」
オットーが言っていた相場の、ほぼ倍だった。
横でオットーが息を吸ったのが分かったけれど、わたしは値切るより先に聞いた。
「その値になる理由を、伺ってもよろしいですか」
男は嫌な顔ひとつせず、三つ数え上げた。
一つは運ぶ手間。
ヴェルテまでの道は悪く、雪が降れば荷車が入れない日も出る。
一つは季節。
冬に薪を欲しがるのは領内の全員なので、この時期はどこへ持っていっても値が付く。
そして三つ目が、こちらの事情だった。
「失礼を承知で申し上げますが、ヴェルテ様は今年から始まったばかりのお取引でして、来年も続いているかどうかが、こちらには分かりかねます」
「続かないかもしれない相手には、高く売る」
「そういうことになります」
腹は立つ。
けれど、商売としておかしいところはなかった。
この人はこちらの足元を見ている。
そして足元を見ることが、この人の仕事なのだろう。
こちらが困っていることを訴えれば訴えるほど、値を上げた判断が正しかったと教えるだけになる。
「少し、考えさせていただきます」
「お待ちしております」
帰り際、男は思い出したようにもう一つ付け加えた。
「もっとも、来年も続いておられるようでしたら、値のほうは改めさせていただきます」
親切のように聞こえる。
実際には、来年まで続かないだろうという見立てを丁寧に伝えられただけだった。
村の外れから湯治場までの帰り道を、オットーはずっと黙って歩いていた。
怒っているのかと思って横を見れば、歩きながら計算している。
「銅貨八枚で四百五十束ですと、金貨十二枚を軽く超えます」
「わたしの俸給、全部ね」
「全部でも足りません」
足りないという言葉を、この人はいつも、ずいぶんはっきりした言い方で口にする。
湯治場が見えてくると、蒸し風呂の小屋から白い湯気が上がっているのが遠くからでも分かった。
あそこに何人か座っていて、その人たちが今日も濡れたまま帰るのだと思えば、火のことを後回しにはできない。
管理棟の前まで戻ると、積んである薪の横にボリスが立っていた。
商会へ行った話は、たぶんピナあたりから聞いたのだと思う。
残っている薪は、もう十束にも満たない。
今日の火で、そこからまた一束減る。
わたしが何か言うより先に、ボリスは薪の山を一度見た。
「十束、切ったか」
「ええ」
「今日も使う」
「使うわ」
ボリスは今度は蒸し風呂の小屋を見た。
「あと四百は要る」
この人が自分から数字を口にするのを、わたしはこのとき初めて聞いた。
横でオットーが手元の紙から目を上げる。
「四百では、少し足りません」
ボリスはオットーを見た。
「四百五十」
「はい」
一度だけ頷く。
それから、薪の山へ視線を戻した。
「買わなくていい」
今度はわたしが、ボリスを見た。
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